マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

「シルクロード物語」を聴講する



f:id:Mitreya:20210320115303j:image

▶昨年の6月から、月に一度、NHK文化センター主催の「シルクロード物語」という講座に通い始めた。この講座の初講は一昨年のことのようなので、私は途中から参加したことになる。内容は、東洋文庫の「法顕伝・宋雲行紀」(長沢和俊 訳注)を参考にしながら、5世紀前半(西暦399年~412年)の足掛け13年間にわたる中国僧「法顕」の、シルクロードからインド(天竺)・セイロンにわたる仏教求法の旅を振り返るというものである。講師の先生は、「NHKシルクロード特集(昭和55年放送)」の取材班団長であった中村清次氏で、この講座に出会ったことは、私(の人生)にとっては極めて意義深いものとなった。

▶「NHKシルクロード特集」は、昭和55年に放送された日中共同制作番組で、これをきっかけとしてシルクロード・ブームという現象が起きたことは広く知られている。当時結婚したばかりの私も、この番組を見てシルクロードの虜になった。砂漠を行くラクダの姿と、番組の主題の一つとも言うべき仏教伝来に対する文化的興味が、まだ若かった私の心を強く刺激した。が、なんと言っても石坂浩二のナレーションと喜多郎の音楽が秀逸で、これは今でも聞くたびに心が豊かに広がっていくのを感じる。それに、中国の西域に住む青い目をした異国情緒あふれる人々(※多くはトルコ系で、中国の人からは胡人と呼ばれる)にも興味があった。

▶ところで、この番組(デジタル・リマスター版)が一昨年8月に、NHKBSで12回シリーズで放送されたことは、私にとって二重の意味で記憶に深く刻まれている。この時、私の妻はガン闘病の最終段階にあり、自宅の居間に介護ベッドを入れて、私がつききりで看病したが、その時まさにこの番組が放送されたのだ。毎夕刻、私は妻と共に録画しながら(※それは、どうしても残して置きたかった・・)この番組を見た。シルクロードを通じた仏教の伝来と、それによってもたらされた敦煌の仏像や壁画に見られる悠久なる時間の流れ、そしてこれから妻が一人で辿るかもしれぬ西方浄土への旅が、渾然一体となって重なりあうように感じられたし、なによりも番組を見ている瞬間は、一時ではあれ、過酷な状況を忘れることができたという意味で、私には貴重であった。

▶話を元に戻す。私が世界史で習った時のシルクロードとは、既に述べた情緒あふれる「シルクロード」ではなく、まさに「絹の道」と称するユーラシア大陸を横断する交易路の総称としてあった。この道は、東アジア(中国)と西欧(ローマ)を結ぶ自然発生的な交易路で、この道を通じて、東からは主に絹や中国の文物が、西からは金や銀などの交易品が隊商によって運ばれた。交易が盛んになるにつれて、文化や宗教も伝わった。インドに発生した仏教は、主にはシルクロードを経由して、中国に伝わり、そして朝鮮半島を経て、日本に伝来した。

▶文化・文物の道であったシルクロードだが、一方では戦争の道でもあったことはあまり取り上げられない。しかし、古代から中世における中央アジア地域の東西に関わる戦争は、殆どすべてシルクロードが舞台となったのではないか。たとえばアレクサンダー大王の東方遠征はシルクロードを通じて行われたし、ペルシャ人やアラブ人の東方侵略もそうである。一方で、中国の漢や唐の将軍による西域遠征や、ジンギスカンのヨーロッパ侵略もシルクロードが舞台となった。近くは、タリバンによるアフガニスタンバーミヤンの大仏破壊などもここで行われた。しかし、これらの戦争を通じて、さらに激しく文化・文物の交流とそれに起因した変化があったことを考えれば、シルクロードはやはり「文化が伝わった道」と言ってもいいのかも知れない。

▶NHK文化講座の「シルクロード物語」は4月以降も続く。「法顕伝」は一応終了し、次は中世の中央アジアに活躍し、いまや絶滅して幻の商人となってしまったと言われるソグド人に焦点をあてて、中村先生が講義してくださるというので、今から楽しみである。中村先生は、学者というよりジャーナリストをベースとした研究者なので、時々脱線される話も興味深い。例えば、シルクロードを通じて日本の飛鳥に流れ込んだ文物とソグド人との関係などにも、俗説も含めて大胆に言及してくれそうなので、コロナにもめげずに頑張って聴講しようと思っている。

 

 

「紅雲町」に暮らしていたころ


f:id:Mitreya:20210316141005j:image
▶何年か前、中学時代からの親友が本を一冊貸してくれた。「萩を揺らす雨」という76歳になる「おばあちゃん素人探偵」が活躍する小説で、吉永南央という女性作家のものである。彼も私もその作家については全く知らなかったが、彼がその本を手にしたのは、小説の中身に興味があったというより、その小説の舞台となっている群馬県の「紅雲町」という街の名前に目がいったからだった。小説では、観音様が見下ろす大きな河原のある街が「紅雲町」となっているが、観音様が見下ろしている街は、群馬県では高崎市であり、高崎市に「紅雲町」はない。広い河原に臨む「紅雲町」があるのは前橋市である。実は、彼も私も前橋市「紅雲町」の出身で、書店でこの小説を見つけた彼は、懐かしさのあまり思わず手にし、それが私のところに回ってきたのだ。

▶私が生まれた前橋市は、関東平野の北西の端に位置し、地形としては東南に開けているが、それ以外は周囲を山に囲まれている。前橋と言ってすぐ思いつく山はおそらく赤城山だろう。平成の町村合併で、赤城山の頂上も前橋市になった。しかし私が住んでいた家からよく見えたのは赤城山ではなく榛名山である。「紅雲町」の家のすぐ西側に、坂東太郎の異名を持つ利根川が流れていて遮るものがなかったので、家の西側の窓をあけるとまず榛名山が見え、左遠くに浅間山が見えた。目をさらに左に転ずれば、妙義山荒船山、そして南の窓からは秩父の山々が連なっているのも見えた。

▶子供のころは浅間山がよく噴火した。家にいると突然地面を突き上げるような振動とともにドーンといった音が聞こえ、ガラス窓がビリビリと震える。母が「浅間が噴火した」と叫ぶので慌てて西の空を見ると、浅間山から噴煙が上がっている。浅間山から前橋までは相当の距離があるはずであるが、それでも音と振動は伝わった。噴火の記憶は一度や二度ではなかった覚えがあるが、当時は浅間山もよく噴火していた。

▶私の父と母は、昭和28年2月に前橋市の才川町で結婚し、近くに住む知人の家の二階に間借りする形で最初の所帯を持った。翌年私が生まれたため、その後まもなくして、父親の仕事場に近い「紅雲町」のとある長屋の一角に移った。私はここで18歳になるまで過ごした。この「紅雲町」の家から県庁や市役所のある前橋市中心部まで徒歩で10分とはかからず、前橋駅まで12~13分だったから「紅雲町」は市内の中心部にあると言ってもよいはずなのだが、当時の子供の生活圏は小さく、私としては、街の中心からは随分と離れた所に住んでいるという意識だった。

▶家の前の道路に面して、比較的大きな魚屋と八百屋があった。魚屋は、昔は仕出し料理を出す程の店で繁盛していた。町内会の祭りの寄合いなどは、この魚屋の二階の座敷で開かれていた。隣の八百屋も、当時としては大きな八百屋で、私が通っていた小学校の給食用の野菜を卸していた。この八百屋の配達用のオート三輪車が学校に配達に行く時は、近所の子供たちが面白がって荷台の後ろに手をかけてぶら下って遊んだりした。当時は、ほとんど歩くようなスピードで運転していたから、こんなことができたのだった。

▶家の西側に流れる利根川は、私達に恰好の遊び場を提供してくれていた。この辺りで川幅は100メートル近くあり、両側は7~8メートルの崖が続いていて、崖下の半分は河原になっている。水量も結構あって、夏の暑い時など近所の大人たちがここで泳いでいる姿を見ることができた。小さかった私も(無謀にも)父親の背中にしがみついて利根川を横断した記憶がある。しかし、当然のことだが、毎年のように水難事故があって、時々水死者が出たりするのだが、それでも子供たちはそこを遊び場にしていたのだから、実におおらかな時代だった。もっとも、小学校4年の時、放課後友人達を誘って、垂直に近い河原の崖上りをチャレンジしたことがあり、それが翌日担任の先生にバレてしまい(※友人の親からクレームがついたようだ)大目玉を食ったこともあった。

▶毎年台風が来ると、利根川に大水が出る。今は上流のダムが完成しているので、そんなことはないと思うが、当時は奥利根の八木沢ダムは建設中だったし、大騒動の末に最近やっと完成した八ッ場ダムなどは影も形も無かったから、大雨が降るとすぐに水位が6~7メートルも上がり、遊び場だった河原は、たちまちのうちに水没して川幅一杯まで流れが広がった。濁流となった流れの中を、木材やら何やら上流から色々なものが流れてくるのだが、それを近所のおじさんが、岸からトビ口のようなものを使って拾い集めていた。何か金目の物が目当てで集めていたのだろうが、しかし、流れも速くて危ない中を、よくやっていたものだ。

▶私の父は、最初は前橋駅近くの製材所に勤めていたが、昭和30年代の半ばに親戚から借りた資金をもとに中古のトラックを購入して独立し、比較的知見のあった材木運送の仕事を始めた。世の中は高度経済成長に入りかけていて、仕事は結構あったから商売は比較的順調だったようだ。主な仕事は、奥利根にある貯木場の材木を、前橋や渋川の製材所まで届けることだったが、運転に加えて、材木の積載と下ろしも自分でしなくてはならなかったから・・・しかも父は、車の後輪の車軸につながった簡易的なウィンチを使って、一人でこの仕事をこなした・・・それは極めて過酷な労働であった。それでも、私が小学生だった頃、父はよく私をその貯木場の現場に連れていってくれた。将来は私をトラック屋の跡取りにでもするつもりがあったのだろうか・・・。父は働きに働き、母もよくそれを手伝い、2台目のトラックを新車で購入するところまで頑張ったが、過酷な労働がもとで、とうとう身体を壊してしまい、その後は次第に仕事に出られなくなった。そして、父は39歳でなくなった。

▶父が亡くなったのは、私が12歳の時で、下に10歳の妹がいた。その後は母が生命保険会社に勤務することで私達の生活の糧を稼いだ。私達はお互いに支え合って「紅雲町」に暮らした。18歳になった春に、私は大学入学のため東京に出て、その後は「紅雲町」に住むことはなかった。残った母と妹も数年後には「紅雲町」を後にして、市内北部の南橘町の県営住宅に引っ越した。

▶大学に入った五月の連休に、一ヶ月ぶりに「紅雲町」に帰省した。前橋駅に降りて歩いて家に帰ったが、家が近づいて来たとき、若かった私は、不覚にも懐かしさのあまり涙がこぼれそうになり、思わず駆け出したくなった。一ヶ月とはいえ、久しぶりに母と妹の顔が見られるのがそれ程嬉しかったのだ。

▶その年の夏休みにも「紅雲町」に帰省したが、大学のサークルで知り合った女の子から暑中見舞いのハガキが届いていた。文面を見ると、「紅雲町ってなんて美しい名前なんでしょう」と書いてある。私はそれまで、住んでいた場所がそんな褒められ方をするとは思ったこともなく、直ぐにはピンとこなかったが、大人になってよくよく考えると、確かに「紅雲町」は良い名前ではある(※しかもかなり女性的なニュアンスがある・・・)。群馬県出身だという吉永南央さんという女性作家の方も、きっとこの名前が好きだったから、小説の題材に使うことに決めたのだろう・・・。

 

久しぶりの外房ツーリング(その2)

▶勝浦の民宿に泊まる。昨夜は10時過ぎに床についたら、直ぐに寝入ってしまった。夜中に目覚めると、何故かくしゃみが止まらない。そのうち、鼻水も止まらなくなった。すっかり忘れていた花粉症の症状だ。そういえば、昨日の花粉の飛散量は多いと報道されていたような気がする。でも、私はここ数年は花粉症の症状からは無縁だったので、自分では治っていたと思っていたのだ。周囲の人達にも、「花粉症は年をとると次第に軽くなるんだよ、なぜなら抗体免疫反応が弱くなるから」と、知ったようなことを言っていたが、そうではなかったらしい。

▶従って朝起きると、寝不足気味だった。遅い朝食をとって午前9時過ぎに宿を出る。親切な女将さんから、出際に自家製の梅干をいただいた。今日は外房の名所をいくつか回って午後の早いうちに千葉まで戻る算段をする。最初は勝浦にある「海中公園」と「鵜原理想郷」に寄ってみる。

▶勝浦海中公園には、その昔、家族を連れて行ったことがあるが、果たしていつのことだったろうか。この時は、実際に海中公園を見学した。沖合に設置してある鉄製の円筒型の灯台のような建物を降りていくと、いつしか水面下に達して、そこから海中の様子が見学できるようになっていたが、水の透明度が高くなくて、景色はあまり美しくはなかった記憶がある。今回は、写真だけ撮って引き上げた。
f:id:Mitreya:20210311170741j:image

▶海中公園から128号線に戻る道の途中を左折すると、鵜原理想郷に着く。ここは、かつては理想的な景観を売りにしてこのようなネーミングにしているとのことだが、実際はプラゴミが散乱していて、理想的とは程遠い皮肉な場所となってしまっているのは残念である。ここも写真だけ撮って引き上げた。


f:id:Mitreya:20210311170844j:image

▶次は「おせんころがし」に行く。128号線を更に鴨川方面に南下すると、行川アイランドの跡地のすぐ先の海岸沿いにそれはあった。「おせんころがし」は、外房地域のいわくつきの難所である。房総半島の勝浦から先は、特に山が海に迫っていて、江戸時代までは、勝浦から鴨川方面に抜けるには、海岸沿いを歩くしかなかったようだ。したがって、当時の道は、太平洋の波に洗われる崖の上にしがみつくように作られていて、ここを歩く旅人にとっては危険極まりない場所だった。

▶「おせんころがし」の名前は、この地方の「おせん」という少女が、父親の身代わりとなって、この難所にある崖の上から村人たちによって投げ落とされた悲話に基づいているとのこと。私が訪ねた場所は、海面から4~50メートルはある断崖の上で、そこは当時の旧道が走っている場所だが、そこに「おせん」の慰霊碑があった。
f:id:Mitreya:20210311170932j:image

▶しかし、さらに恐ろしいのは、昭和27年に、ここで母子三人が殺されるという「おせんころがし殺人事件」が起こったことである。犯人の男は、この事件を含めて合計7人も殺人を犯して、昭和34年に死刑が執行されているが、本当に身の毛のよだつような話である。昼間だからいいようなものの、暗くなってからはとても近づけるような場所ではない。しかし、この慰霊碑のすぐ傍に不思議なことに一軒ホテルがある。現在休業中との看板が出ていたが、まあ、ここで商売になるとはとても思えませんよね。

▶現在の国道128号線は、明治以降に内陸部をトンネルで結ぶかたちで作られたから、この旧道は忘れられた存在となっているが、行川のトンネルを抜けたすぐ先に、この旧道につながる入り口がある。ここからは舗装されているが、車ですれ違うのは大変な道だ。しかし、バイクなら大丈夫な感じだ。実際に断崖の上を走る細い道から、まさに太平洋の絶景を眺めることができる。後ろを見ると、断崖の中腹に細い道が刻まれているのがよく見えるが、現在は通行できない。その先が先ほど見た「おせんころがし」の慰霊碑がある場所である。私は、この旧道を走って小湊の日蓮宗大本山の誕生寺まで抜けた。
f:id:Mitreya:20210311171003j:image

▶昼前、鴨川のマクドナルドでコーヒーを一杯飲んで、そのまま千葉の自宅まで帰った。着いたら午後2時過ぎだったが、さすがに疲れた。

 

久しぶりの外房ツーリング(その1)

▶先週末に天気予報を見ていたら、来週(つまり今週)の後半は天気が回復して春らしい暖かい陽気になるという。それを聞いて、突然ブラりと何処かに出かけたくなった。誰に気兼ねすることもなくこんな贅沢ができるのは、引退した独り者の特権だろう。最初は車で行こうと思ったが、暖かくなるなら、久しぶりにバイクで行くのも悪くないな、と思い直した。バイクなら、あまり無理をしないで行ける房総半島がいいだろう。宿は、コロナでも大丈夫そうな勝浦の料理民宿に決めた。ここは、昨年行っているので、状況はよく分かっている。

▶当日の水曜日。朝メシをゆっくり食べてテレビ見る。気がついたらもう午前10時だった。手早く家の用事を済ませ、バイクを軽く掃除して家を出たのが11時近かった。出発が昼近いので、今日は散策がてら勝浦に直行することにする。まずは千葉市内から国道126号線を通って大網白里市に向かった。私の場合、バイクで行く時は、高速道路を使わず殆ど一般道を走る。その方が走っていて面白いからだ。天気は晴れて暖かい。風が少し強いので、気をつけて走る。

▶正午前にJR大網駅前のロータリーに着く。10年以上前、私は大網白里市に住んでいたからこの辺りの地理は良く知っている。当時の大網白里は、「市」ではなく「町」で、駅から少し歩くと、もうそこには田んぼが広がる田舎だった。あれから10数年、駅前はやっと区画整理が終わって道路が整備されたが、よく見ると周辺の様子は殆ど変わっていないようだ。変わったのは、町から市に呼び名が変更されたことだけなのかと思えてしまうほどだ。

▶思いきって、以前住んでいたところを訪れてみることにした。私が住んでいた家は、大網駅の更に次の永田駅から、徒歩で20分も離れた田園風景のど真ん中にあって、当時は東京の勤務先まで2時間近くかかった。何故そこに住むことになったのかは話すと長くなるのでやめておくが、亡くなった妻がよく賛同してくれたものだと、今さらながらに思う。

▶その家は、私が念を入れて設計したものだったから、手放すことにかなり躊躇はあった。それに、バブルが崩壊して周辺の地価が暴落してしまっているという事情もあった。しかし、買ってくれた人が、横浜に住むゼネコンに勤務する一級建築士の方だったから(※この方は、私と同じく田舎暮らしが趣味だった・・)、私としては妙に納得がいった。あれから10数年経った家は、外壁が白く塗り直されて、周囲の家とはひときわ違って見えた。おそらく大事に住んでくれているのであろう。

▶当時は、家の周りに林が残っていて、二階の寝室の窓からその林がとりわけ良く見えた。雨が降っている日曜日の朝など、その景色を見ていて飽きることはなかった。しかし、今その林は切り倒され、なんと太陽電池が敷き詰められたサイトに変わってしまっているのだ。私は、少し離れた道の端に立って一人暫く家を眺めていた。すると懐かしい想い出が次々に甦ってきて止まらなくなり・・・本当に窓から私の家族が顔を出しそうに思えたのだった。

▶思わず寄り道をしてしまった。午後1時近くになりお腹もすいてきたので、昔行ったことのある白子町のラーメン屋に行った。お店に到着するまで営業しているのか不安だったが、幸いその店は元気で営業を続けていた。炭火焼きのチャーシューと、玉ねぎをたっぷりと刻んで浮かせた濃いめの醤油ラーメンでは健在だった。
f:id:Mitreya:20210310215933j:image

▶午後1時半、昼食を終えて国道128号線を南下する。一宮を過ぎると大東岬灯台の看板が見えてきた。ここはいつも通っていた所だが、灯台に行ったことはない。時間があったので寄ってみた。気軽に立ち寄れるのがソロで行くバイクの面白さだ。久しぶりに見る太平洋の姿は雄大で清々しい。数人の観光客が灯台近くの展望台から海を見ていた。春まだ浅い太平洋の景色は、風もあってさすがにまだ少し寒そうだった。
f:id:Mitreya:20210310220021j:image

▶その後、御宿海岸で童謡でお馴染みの「月の砂漠」の銅像を見る。40数年前の就職した年の夏の休日に、職場の同僚に連れられてこの海岸に来たことがある。その時はまだ何もなかった。次に来たときは妻と一緒で、この銅像を見た記憶がある。今日は周りには、私の他に誰もいなかった。そのラクダに乗った王子様とお姫様はなんだか幸せそうに見えた。午後3時半、勝浦の民宿に到着。私が一番乗りだった。


f:id:Mitreya:20210310220057j:image

 

 

 

 

夜中にトイレに起きる



f:id:Mitreya:20210316092439j:image

▶年齢が上がってくると、夜中にトイレに起きる回数が増えてくることが知られている。私も例外ではなく毎晩一回は目が覚めてトイレに行く。目が覚めるのは仕方がないが、その後すぐ寝付けないのが年齢が嵩んだ証拠かもしれない。しばらくベッドの中で目を閉じて再び眠くなるのを待つが、これは無理だと分かったら最近はラジオをつけて「深夜便」を聞いている。今朝は、夜中に目覚めることなく朝までよく眠れた。眠れる時と眠れない時と何か差があるのかと色々考えていたら、昨晩しっかり入浴したことを思い出した。

▶夜間に尿が膀胱にたまるのは、体の水分を排出するためだが、その水分は主にどこにたまっているのかということについて、NHKの「ガッテン」を見ていたら思わぬ情報を得た。余分な水分は消化管の中に滞留しているのかと思っていたが、そうではなく、主に脚部に溜まっているのだという。脚に水分が溜まるのは、日中に立って生活しているためで、重力の影響で水分が脚に蓄積される。若い人はそれを比較的容易に体外に排出できるが、年齢が高くなるとそのまま残ってしまうのだそうだ。

▶この日中に脚に溜まった水分は、夜になって水平に寝ることで(重力から解放され)次第に体内から排出されるから、いくら寝る前に水分を控えても、夜中にトイレが近くなるのは道理かもしれない。対策としては、ふくらはぎにサポーターを巻くとか、寝る前に脚を上げるのが効果的と志の輔は言っていたが、毎日のことだから、継続するのは難しいだろうと思い、この問題はそのまま忘れていた。

▶ところで、私は概ね毎日入浴するが、銭湯に行くとその晩よく眠れることに気が付いた。一般に、寝る1時間から2時間くらい前に入浴すると寝つきがよくなると言われているが、これは身体の深部体温が次第に低下していくことが睡眠に都合がいいからで、夜中にトイレの回数を減らすこととは直接の関係はなさそうだ。それでは、なぜ銭湯に行った夜は夜中のトイレの回数が減るのだろうか。

▶私の場合、銭湯と家での入浴の一番の違いは、入浴時間の長さであり、銭湯に行くと一時間は風呂やサウナに入り、出てくると体重が約1キロほど減少する。汗をかくことで身体の水分が抜けるのだ。その後、しっかり水分補給をするので体重はすぐに元に戻るが、もしかしたら脚の水分は、汗をかくことで抜けた状態になっているのではないか、と思う。それに、新たに補給された水分は一時的に消化管に溜まり、脚に溜まることはないはずだ。夜中の頻尿の原因が脚の余剰水分だとしたら、「ガッテン」では言及されていなかったが、夕方にしっかり汗をかくのが意外と効果的なのではないか、というのが現在の私の考えだ。

▶先日、オンライン飲み会で、ウケると思って先輩の皆さんにこの「新学説」を披露したところ、「長湯をすると危険だよ」と逆に指摘されてしまった。先日発売された週刊現代に、10分以上湯につかるのは高齢者にとって熱中症のリスクを高めるのでやめるべきだ、と書いてあったそうだ。そう言えば、銭湯の風呂から上がると、一瞬クラッとする時があるので、私にも熱中症のリスクがあるのかも知れない。

▶夜間頻尿を避けようと思って話をしていたら、今度は熱中症のリスクか。まったく、年はとりたくないものである。

 

 

 

 

「風呂の日」に近くの温泉銭湯に行く


f:id:Mitreya:20210303103735j:image
▶近くに温泉が出るスーパー銭湯があり、月に4~5回は通っている。ここは、我が家から車で5分程度で行けるのが便利で、温泉の泉質と湯量もなかなかのものだから、個人的には大変気に入っている。1500メートルの地下から汲み上げた紅茶色の源泉は、加温されて一部は掛け流し浴槽に注がれ、また一部は循環して広い露天風呂に使用されている。泉質は塩化物強塩泉で、口に入れると大変塩辛いが、よく温まる。湯量も比較的豊富なので、千葉の都市部にあっては貴重な温泉施設の一つとなっている。

▶かつてはここも含めて、家から車で10分圏内に4軒のスーパー銭湯があったが、そのうち2軒はすで廃業してしまっており、この業界もなかなか競争が激しいものがある。私としては、この銭湯が便利で好きなので、今も応援の意味もあってせっせと通っている。

▶妻が元気な時は、妻と一緒によく行った。だいたいが休みの日の午後4時過ぎくらいに行くのであるが、施設に入って男湯と女湯に分かれるところで、風呂から出る時間の約束をする。待ち合わせの時間丁度に私が男湯からホールに出て行くと、既に上気した顔の妻が、椅子に腰かけて飲み物を飲みながら私を待っているというのが定番だった。妻が亡くなった直後は、さすがにここに行く気力が出なかったが、ある日意を決してここに行った。待ち合わせをする必要もなく一人で風呂に入って一人で風呂から出てきたが、そこに妻が待っていてくれるのではないかと思わず目で探してしまう自分に気が付き、それが我ながら哀れに思えてしまい、それからしばらくは、そこに行くことができなかった。しかし、それも次第に慣れるようになった。

▶私の場合、ここに行く時のルーティーンはだいたい決まっていて、浴室に入るとまず、内風呂の炭酸風呂に10分浸かり、その後おもむろに露天風呂に出ていくのだが、そこにある壺湯(ここも温泉)が空いているときはまず壺湯につかる。実は、この壺湯につかりながら前方に広がった空を飽かず眺めるのが、私のささやかな楽しみなのだ。

▶晴れていると、雲の間に時々旅客機が飛んでいくのが見える。飛行方向から想像するに、成田便ではなく羽田便ではないかと思われるが、それでも、どこに向かって飛んでいるのだろうかと一人空想する。今こうしてあの飛行機に乗っている人は、一体どんな人で、どんな人生を送っているのだろうかなどと、どうでもよいことを考えるのである。私も現役で仕事をしていたころは、国際線の利用がメインだったが、よく飛行機に乗った。乗ると当時は本当にワクワクしたものだ。プライベートでも妻とよく飛行機に乗ったが、そういえば新婚旅行は、羽田発の夜行便でアンカレッジ経由でヨーロッパに行ったよなあ・・・などと過ぎ去りし日々を懐かしく思い出すのである。

▶その飛行機は、昨年からコロナの影響で飛んでいる数が激減した。一昨年までは、夕方の空に殆ど5分おきくらいで飛行機が目撃できたが、今では風呂に入って空を眺めても、せいぜい一機見ることができるかどうかである。早くコロナが終息して、また飛行機が頻繁に飛ぶ姿を見てみたいと切に思う。

▶さて、この銭湯では、毎月26日を「風呂の日」と称して、入浴回数券を割引で販売している。私はこの銭湯のフリークエントの利用者だから、この回数券を購入して通っているが、先日、2月26日をもって回数券の販売を終了するとの告示が張り出されているのを見つけた。値上げを意図して回数券の販売を中止したということでもなさそうなので、私にはその理由がよく分からなかったが、この銭湯が廃業されてしまっては大変なので、とにかく回数券販売の最終日である2月26日は、応援団の私を含めてかなり多くの人が、最後の回数券を買いにこの銭湯を訪れたのであった。

 

 

インプラント手術に行く


f:id:Mitreya:20210303103232j:image
▶昨日、予約してあった日本橋の歯科クリニックで、インプラント手術を行った。午後2時半から約1時間の外科手術で、終わって受付で診療費の精算をしているとき、手術に立ち会った看護師の方から「お疲れ様でした」と声をかけられたが、さすがに少し疲れた。麻酔技術の発達で、治療の痛みはないのだが、大きく口を開けたまま、一時間近く口の中をいじられるのだから、まあ、疲れるのも当然といえば当然だ。手術後の注意事項を書いたメモと、抗生物質と痛み止めの薬をもらって、早々と千葉まで戻った。

▶このクリニックは、先生が一人と看護師3人の小さなクリニックだが、現役で仕事をしていたころは、仕事場から近いのが便利であり、なにより先生の技術が確かそうなので、そのころからもう7~8年通っている。通い始めて2年目くらいに最初のインプラント治療をした。当時、右下奥歯の一本がぐらついており、この処置について先生に相談すると、まだ抜歯するほどではないという。その後1年近く様子を見ながらこの奥歯を使っていたが、改善することはなく、そのうち痛みも出だしたので、仕方なく最終的に抜歯を決断し、その後インプラント治療をすることにした。

インプラント治療は、保険外治療であるから、費用は高い。しかも色々調べると、価格は医院によってピンキリで、初めて治療に踏み切る人にとっては迷うことが多い。なにより、技術のレベルが外部からは分かりにくいので、結局はその医院の一般的な信用や先生の人柄を信じるほかないのである。

▶私なりに調べて分かったのは、①費用は使うインプラント素材に左右されるので安すぎるのは問題、②日本口腔インプラント学会が、インプラント技術を3段階で認定しており、経験の違いで、上から「指導医」「専門医」「専修医」となっているので、「指導医」であれば最高だが、少なくとも「専門医」を探すことである、③大事なのは、その医師が最新の技術進歩についていけるように勉強していること、例えば学会や研修会への出席などを行っていることなどが選択するときの条件になりそうだ、ということだった。

▶私が通っているクリニックのR先生は、「専門医」で、治療実績が豊富だったことと、当時日本テレビのモーニングショーにもインプラント専門医として出演したこともあったので、安心してお任せすることにした。治療は、インプラント土台の部分の埋め込み手術と、その後の上部構造(歯の部分)の接合治療の二回に分けて行われ、全部終わるのに、なんだかんだで半年くらいかかった記憶がある。しかし、おかげさまで、治療後は全く自分の歯と同じ感覚で使えており、やはり価値がある治療であると思った次第。

▶さて、今回は左下奥歯の治療で、こちらも前回とほぼ同じ経過をたどったので、R先生にお任せして手術に踏み切った。毎日歯磨きを怠らず、定期的に歯のクリーニングにも通っているにもかかわらず、今回で2本目のインプラントを入れることになったのには少し残念な気持ちもある。しかし、費用はかかるが治療によって、欠損なく全ての歯が使えるようになるというのはやはりいいもので、歯科技術の進歩の恩恵をしみじみと感じる。

▶治療が終わってから、「先生、この先、インプラントを含めて私の歯はどのくらい持ちますか?」と聞くと、「歯の寿命より、あなた自身の寿命の方が早くこないように気をつけてください」と言われ、私より年上の先生と一緒に思わず笑ってしまった・・。と、ここまで書いてきて、これから昨日の手術の跡の消毒に、また日本橋まで出かけなければならないことを思い出した。外は晴れて少し冷たい風が吹いているけれど、さて、元気を出して行ってこよう。