マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

シルクロードの変貌と国宝「四騎獅子狩文錦」

NHK文化講座「シルクロード物語」を聴講しているが、4月からはシルクロードの隊商の民「ソグド人」に焦点をあてた企画に移っている。昨日は第三回目の講座だったが、視点はソグド人一般の話から、奈良法隆寺の国宝の話に移った。講座の開始にあたって、用意されたホワイトボードの全面に講師の中村先生(元NHKシルクロード取材班団長)が、大きなユーラシア大陸とそこを通るシルクロードの略図を書いた。西はローマから東は日本列島にいたる壮大な絵柄である。

シルクロードを最初に命名したのは、ドイツの地理学者リヒトホーフェンとされているが、彼が1877年の著書で言及したシルクロードは、中村氏が描いた地図のような壮大なものではなかった。地理的な範囲は、西は中央アジアサマルカンド辺り、東は中国の長安西安)周辺で、時間的には、今から2000年以上前の前漢後漢の時代に限定されている。リヒトホーフェン命名したシルクロードとは、彼がその範囲において中国の絹織物が流通していたことの一つの証を示したものであったとも言える。

▶話は変わって1884年明治17年)、時の明治政府に依頼された米国人の東洋美術史家のフェノロサ岡倉天心(後の東京美術学校の初代校長)が、法隆寺の夢殿において、なんと1200年もの間、中央の厨子の中で木綿帯でグルグル巻きに封印されていた「救世観音」を、僧侶の反対を押し切って強引にその封印を解いた事件があった。救世観音は、聖徳太子没後100年を経た8世紀半ばに法隆寺東院伽藍に建立された夢殿の本尊で、聖徳太子の実物大の仏像であるとも言われるが、この仏像の来歴や絶対秘仏化されたいきさつについては、現在に至るも多くの謎が残り、それが古代史愛好家の興味を引き続けてやまない。ところが、昨日のシルクロード物語の話は救世観音ではなかった。

フェノロサ岡倉天心は、救世観音を「再発見」したが、厨子を開いた時、傍らに無造作に置かれた縦250㎝、横134㎝の古代絹織物を発見する。後に「四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん)」と命名され、現在国宝指定されている絹織物である。これは、隋・唐時代に中国で制作されて、遣隋使または遣唐使によって我が国に持ち込まれたものと言われている。

▶中村先生によると、世界の織物文化は、中国を中心とした絹織物文化圏、インドを中心とした綿織物文化圏、そして西アジア以西の毛織物文化圏に分かれるとのこと。シルクロード命名の発端となった中国の絹織物は、漢代から隋にかけて織られた縦糸を中心に模様を織り出す経錦(たてにしき:経とは縦という意味で、緯度・経度の経と同じ)のことであるが、この織物がシルクロードを通って西に伝播する。一方、西アジアの毛織物は、横糸を主体に模様を織り込む技術によって作られており、こちらの方がより複雑な紋様を織ることが可能だ。中国発祥の経錦(別名、漢錦)は、西に伝播した後、西アジアの織物技術を吸収して、隋代に至って今度は横糸主体の複雑な図柄を織る絹織物に発展した。これを緯錦(よこにしき:緯度の緯は横の意味)と呼ぶ。
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                  四騎獅子狩文錦の復元  東京国立博物館

法隆寺夢殿で発見された「四騎獅子狩文錦」は緯錦(よこにしき)の傑作である。この国宝は、西アジアの横糸技術を使って織られているが、織り出された図案は国際的だ。直径43㎝の連珠円文の中には4人の騎士が羽の生えたペガサスと思しき天馬にまたがり、振り向き様に獅子を狩っている図だが、ヤシの木や葉アザミが図柄として取り込まれている。全体として、ササン朝ペルシアの図案がベースとなっているのは間違いないとのことだが、中国で織られた証拠として、馬の図柄に「山」や「吉」の漢字が織り込まれている珍しいものだ。

▶国宝「四騎獅子狩文錦」の示すところは、中国の絹織物が、経錦から緯錦へとおよそ700年の歳月を経て変化発展したという事実である。それはまさに東西交流の賜物であり、その成果が遣隋使・遣唐使を通じて海を渡って日本にもたらされた。それが現在の法隆寺に存在する。現代の学究の成果とも言うべきシルクロードは、リヒトホーフェンの時代から大きく拡大し、中村先生がホワイトボードに描いたような壮大な姿になった。

▶歴史のもととなる過去は変わらないが、新たな考古学的発見や歴史学の発展に伴い「歴史の解釈」は大きく変化する。その変化の過程と、それによってもたらされた時空を超えたロマンを感じ取るのが、シルクロードマニアの醍醐味だ・・と中村先生は言っているように思えるのだが。さて、この「四騎獅子狩文錦」と「ソグド人」との関係があるのかどうか、それはまた次回のお楽しみということで話は終わった。

 

庭の池とパーゴラを取り壊す


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▶今年の3月に、妻が可愛がっていた庭の金魚をとうとう死なせてしまった。最後の一匹だった。池と金魚が好きだった妻にせがまれて、現在の家に引っ越ししてきた際、庭に小さな池を作って、そこに金魚を何匹か放した。妻はその金魚を可愛がったが、残念ながら成長するにつれて一匹、また一匹と不慮の死を遂げて減ってゆき、2年前には最後の二匹になってしまった。残った金魚は10年近く生きてきたことになるので、体長は20センチ以上に達して、生命力は旺盛だった。餌を食べる時などは、バシャバシャと音を立てた。

▶妻が亡くなってからは、私がその世話をした。近所の猫に食べられないように、池の上に網をかけたり、定期的に池の掃除と水替えをしたりした。ところが、昨年水替えしたばかりの池に二匹を戻したところ、翌朝一匹が亡くなってしまった。急激に水質を変えたのがいけなかったようだ。私は大変ショックを受けたが、どうしようもない。残った一匹を大事に育てるつもりで昨年末から冬越しに備えることにした。改めて金魚の飼育方法を調べると、屋外で冬越しさせる場合、餌をあげる必要はなく、水替えもせず、むしろプランクトンが発生するくらいが丁度いいとのことだった。

▶暖かくなった今年の3月、さすがに池の水も濁っているので、数日中に池の水替えをするつもりで1日~2日様子を見ていた翌朝、池を覗いてみると、何と最後の金魚が水底に横たわっているではないか。しまった、今度は水替えの時期が遅すぎたか・・と思ったものの後の祭りだ。泣く泣く最後の金魚を池からすくって庭に埋葬した。妻には申し訳ない気持ちで一杯だった。

▶その後は、主のいない小さな池だけがポツンと残った。もう一度金魚を購入してこようかとも考えたが、一人暮らしではまた同じような失敗をしかねないと思い、金魚を飼うのを諦めた。金魚がいない池では蚊が発生するので、水をためておくことができない。そこで、心機一転、池を取り壊すことを決断。同時に、古くから庭にある木製のパーゴラも老朽化が激しいので、こちらも取り壊したいと思い、業者を呼んで見積もりをとった。

▶業者の人が来たのが4月の下旬で、大した工事ではないが、現在少し仕事が立て込んでいるので、やるにしても5月の中旬となるが、それでもいいかと言う。急ぐこともないのでお願いすることにした。ところが準備ができたら連絡すると言ったきり、その業者からは全く音沙汰がない。一ヶ月が過ぎた頃、さすがにもうあの業者に仕事を頼むのは止めにしようと思いだした。そして、何とか自分一人でボチボチ取り壊しをしようかと思い、あれこれ算段を始めた。

▶ところが昨日、私が近所の医院でコロナワクチンの接種を終えて家に戻ったところ、スマホにその業者が電話をかけてきて、遅くなって申し訳なかったが、まだ仕事が残っているならやらせて欲しいとのこと。まあ、自分でやるのは大変だし、他の業者にあたるのも面倒だし、金額もたかが知れているので、やっぱりお願いすることにした。業者は恐縮して、早速明日朝から工事にかかると約束した。

▶今朝午前8時前に、小型ダンプ2台に分乗して4人の職人の方が来てくれて、早速工事にとりかかったところ、ものの1時間もたたないうちに、池もパーゴラも撤去してダンプに積んで持っていってくれた。まったく、あれよあれよという間の出来事だった。池を撤去した穴は、庭にあった別の土で埋め戻され、上部に架かってあったパーゴラも無くなったので、そこに絡んでいたノウゼンカズラも撤去されて、庭の一角が急に明るくなった。

▶業者の人が帰ってから、部屋に戻って改めて庭を眺めると、あるべきところにあるものが無くなってしまい、何とも言えない空虚な気分だ。しかし、肩に背負っていた荷物がまた一つ無くなって、やはりこうして良かったと、その後は少し気分が軽くなった・・・。
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▶ところで、工事に来てくれた4人の庭職人のうち、一人の職人がなんと黒人だったのには驚いた。最近は、最寄りの駅近くでも外国人を見ることが普通になったが、我が家のような猫の額のような庭に、黒人の庭職人が来て仕事をする時代になったのかと、それは別の意味で時の流れを感じさせる出来事だった。

 

外壁塗装の営業マンと話す


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▶昨日の夕方、家の電話が鳴った。出てみると住宅の外壁塗装のセールスの電話だった。セールス電話の場合、通常は「興味がない」と言ってすぐ切るのだが、家の塗装に関しては、以前から気になることがあったので、話を聞いた。電話口のオペレーターは、予約専門のお嬢さんだったが、この種のセールス電話にありがちなマニュアルを棒読みするような調子ではなく、なかなか如才のない話し方で、「もし家の塗装で気になることがあれば、専門の営業スタッフを派遣するので、その人に是非話を聞いてもらったらどうか、決してお客様の損にはなりませんから」とう言う。

▶私が現在住んでいる家は、12年程前に中古で買った積水ハウスの一戸建てで、購入した時は既に築12年だったから、現在は新築から24年が経過している。購入した時の話では、売主さんは新築から10年しか経っていないにもかかわず、親戚から無理やり勧められて外壁塗装をやり直したと言っていた。確かに外壁はその後現在に至るも全くキレイで、先日通りがかりの外壁塗装のセールスマンが、「お宅は外壁は大丈夫そうですね・・・」と言っていた。

▶一方、屋根については、新築後に再塗装をしたとの話は聞いておらず、またある時、別のセールスマンが、ボチボチ塗装をやりなおした方がいいですよと言っていたことを思い出し、築後24年も経っているなら屋根の塗装を考えないといけないと思っていたところだった。そういった事情もあって、とにかく話だけは聞いてみようと思い、翌日(すなわち今日)午後に営業マンに来てもらうことにした。

▶午後1時キッカリに営業マンがやってきた。さっそく外に出て外観をチェックしてもらう。営業マンは「最近、塗装かなにかやられましたか?」と聞くので、正直に事情を話して、外壁については12~13年前に再塗装していると告げた。しかし、屋根についてはと言いかけると、その営業マンは「屋根も塗装してありますよ」と言う。私は、自分の記憶には屋根の塗装の件は残っていないと言うと、「いや、外壁と同じタイミングで塗装済で間違いありません」と言う。

▶そして「自分が見る限り、この屋根の塗装はまだしばらくは大丈夫なので、もう少したってから考えられたらどうか」とアドバイスしてくれた。目途としては5年~10年先くらいでいいと思うとのことで、塗装屋としては残念だが、必要のない塗装を勧めるつもりはないので、今回は帰りますと言う。目利きがよく、正直な営業マンだと感心した。

▶ベランダの防水も少し心配だがと聞くと、積水のFRP防水ならまだ心配ないので、次回に外壁と屋根を塗装するときに合わせてやったら割安ですよとも言ってくれた。ちなみに屋根の塗装だけなら、足場代15万円を含んで60~70万円くらいで、隣の家のように一階部分の下屋根がないケースだと更に安くなりますよ、とも言う。言っていることが合理的で、聞いていて気持ちがいい。次回やるときは、是非よろしくと言って帰っていった。私は、いい話(情報)が聞けて満足した気分になった。営業マンはかくあるべしと思える見本のような人だと思いながら家の中に戻った。

▶戻ってから、あ、そうだ、冷たいジュースでも差し上げればよかったと思い、急いで外に出たが、彼は既に帰ったあとだった。

 

 

雄蛇ヶ池とアナゴ天重

▶6月に入った。緊急事態宣言は延長されたが、ワクチン接種が本格化しつつあるので、心なしかメディアの論調も、明るさを取り戻しつつあるように見えるのだが、どうだろう。政府もここぞとばかりに、ワクチン接種の加速化を打ち出して、高齢者接種がやっと軌道に乗り始めばかりにもかかわらず、一般者向けに学校や職域での接種の方針をぶち上げた。まあ、菅首相のその気持ちは分からないではないが・・・。

▶昨日は晴れて気持ちが良い一日だった。梅雨のような天気が続いたあとの、まるで遅れてやってきた五月晴れのようだった。朝食をとったばかりであるが、昼飯をどうしようかと考えたあげく、久しぶりに天ぷらを食べようと思い立った。一人身では、意外に揚げたての天ぷらを食べる機会が少ないのだ。ネットで東金にある海鮮食堂を見つけたので、早速バイクを駆って出かけた。

▶126号線(東金街道)を使って行ったが、東金に入ってすぐに「雄蛇ヶ池」という看板を見つけた。ここは名前は知っているが訪れたことがない。昼飯までに小一時間はあるので、立ち寄ることにする。初めて行った雄蛇ヶ池は、池という名にしてはもったいないほど広大な湖だった。看板を見ると、江戸時代の初めに造られた灌漑用のため池なのだが、三方が山に囲まれていて、湖岸が複雑に入り組んでおり、広さは22万平米もある。池の周囲には遊歩道が設置されており、一周すると3.3キロなので、せっかくだから散策することにした。
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▶湖面を見ながら時計回りに歩き始めると、すぐ鬱蒼とした山道に入る。道幅が狭く、小さなアップダウンもあって、下りの坂で前に出した脚が少し滑って転びそうになる。そう言えば遊歩道の入り口に、暗くなってからはこの道に入らなないようにとの注意書があったことを思い出した。人(ひと)気のない道を暫く歩いていたら、前方の竹やぶの斜面から降りてくる人に出会った。どうやらタケノコを採っていたようだが、挨拶をしていいものか躊躇する。
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▶湖岸に目を転じると、二人ほど釣り糸を垂れている釣り人を見かけた。ここでは、ブラック・バスやフナが釣れるのだそうだ。すれ違う人はほとんどなく、野鳥が鳴く長閑な山道を歩いて45分ほどで駐車場まで戻ってきた。いやいや、近くにこんないい湖があるとは知らなかった。そこから5分くらいバイクで走って、目指す食堂「活き活き家」に着いた。

▶この食堂は、海産物販売所が食堂を併設しているような作りになっていて、入ると先客が一組居るだけで、ガラガラだ。早速「天使のエビ入りアナゴ天重」を注文して、待つこと10分で揚げたての天重が出てきた。色とりどりの天ぷらが盛り付けられた天重は、期待に違わず旨かった。添えられたお椀は、アサリ入りの澄まし汁で、こちらも文句なし。これで1680円は安い。
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▶せっかくだから、店で販売されている「ホンビノス貝」(※東京湾で採れるハマグリに似た外来種で、最近メディアでもよく紹介されている)でも買って帰ろうかと思ったが、この陽気の下でバイクに生鮮の貝を積んで走るのは、さすがにリスクがありそうなので、あっさり諦めた。久しぶりに食べた天ぷらは、文句のつけようがない旨さだったが、量が多かったので、夕食まで胃が少しもたれる気分になったのは、ご愛嬌だ。

 

 

 

 

新型コロナ・ワクチンの接種予約が完了した

▶昨晩は雨模様で気温がやや低かったので、比較的眠りに入りやすいかと思っていたが、横になってラジオを聴いていたら、寝入ったのは午後11時を過ぎていたようだ。今朝は5時過ぎに目が覚めた。枕元のスマホをチェックすると、メールが2件届いている。最近は、メールの通知設定の仕方が悪いのか、待ち受け画面のメールのアイコンに受信通知が表示されないので困る。

▶1件目のメールは、東京のとある場所(※レストランではありません)でワインを飲みませんかという大学時代の友人からの有難い誘いなのだが、なにせ実施が本日午後4時からと超ショート・ノーティスなので、残念ながらこれは丁寧にこちらの事情を説明して参加を見送ることにした。午後の時間が空いていない訳ではないので、行こうと思えば行けたが、緊急事態宣言下での東京で、ワインを飲むことに躊躇があったのが正直な気持ちである。それでも、もしこれが3月のことだったら、参加したかも知れないと言うのは、今の偽らざる気持ちであるが、なぜか。

▶人間は、いつまで続くか分からない戦争時(非常時)に、あてどもなく防空壕にこもり続けることはできない。生きる為、生活の為には、多少の危険を冒してでも外に出て、食料の調達やら新しい空気を吸うことで、生きる糧と精神の安定を確保しながら、先の見えない戦争に対峙していかなければならないからである。しかし、もし来週に戦争が終わるとの見通しがあれば、空襲下でわざわざリスクをとって防空壕から出て行く選択は避ける方が望ましいだろう、と思う。

▶私がワイン会に参加しなかった理由は、コロナ問題に先が見えてきたからである。終わりが見える段階、すなわち近い将来に確実にプラスが見込める段階では、リスクをとらないのが私の信条である。コロナ終息の切り札はワクチン接種であり、このワクチン接種が終われば、95%の確率で新型コロナ肺炎の恐怖から解放されることが分かっている。友人は私の回答を快く納得してくれた。

▶もう一件のメールは、私が勤めていた時の職場の若い女性からだった。こちらは先日私が書いたワクチン予約のドタバタ騒ぎのブログの記事を読んでくれていて、ワクチン予約に関する貴重なアドバイスをわざわざ連絡してくれたのだ。東京都の方針で、東京のかかりつけ医のクリニックではワクチン接種ができませんとのこと。千葉では当たり前だったので東京でも接種可能だと思っていたが、直接そのクリニックに確認をして間違いを指摘してくれた。こういう心遣いは本当にありがたい。この場を借りて、改めてお礼を言わせていただくことにする。

▶さて、肝腎のワクチン予約だが、昨日午後に近所のかかりつけの皮膚科と内科を兼務するクリニックに電話を入れたところ、ワクチン予約の時間帯が午前9時半~11時半なので、その時間に電話をもらえれば予約が可能との言質を得た。そこで、先ほど電話を入れたところ、見事に接種予約を完了することができた。6月8日(火)が一回目、3週間後の6月29日(火)が2回目で、6月中に接種が完了することになった。
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▶一昨年の6月に会社を辞めてから丸2年。妻を失ってから1年9ヶ月。一人身になってコロナ騒ぎにさらされて1年5ヶ月・・・なんという過酷な時間だったろうかと改めて思う。気象予報士だった倉嶋厚は、止まない雨はないとの言葉を残したが、先の見えない戦いに、今やっと先が見えてきたことに、正直ほっとしている。庭に植えたジューン・ベリー(6月のイチゴ)の樹が、今年もまた沢山の赤い実をつけた。早速、仏前に供えるためそれを採ってきて口に入れると、懐かしい6月の香りが口の中に広がった。私は久しぶりにその味をかみしめた。

 

 

 

 

新型コロナ・ワクチン予約で朝から大騒ぎ


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▶東京と大阪で、大規模コロナワクチン接種の予約が本格化する中、私が住む千葉市でも、日曜日専門の接種会場での予約が始まった。場所は市役所前の中央コミュニティセンターだ。あらかじめ千葉市から送付された案内状を読むと、予約はWEBと電話の二本立てだが、電話が繋がらないというのは先刻ご承知のとおりなので、WEBで予約することにした。予約開始は本日21日の朝8時半からだが、WEBの場合個人情報の事前登録が必要で、こちらは午前0時半から開始とのこと。

▶朝8時半から事前登録をしているようでは、とても予約競争に勝てる見込みがないので、私は夜中の午前1時に眠い目をこすりながら、スマホで事前登録を済ませた。その後は、これからなにか物凄いことが起こりそうな予感がして、しばらく興奮して眠れなくなったから、まったくいい年こいてアホみたいなものだ・・・。

▶さて、準備万端整えて、午前8時27分にQRコードを読み込んで、スマホの予約画面を立ち上げる。既に事前登録は済ませてあるので、すぐにカレンダーが出てきた。午前8時30分、カレンダー画面の5月23日(日)と30日(日)は予約可能と出ている。一番だから当然だろうと余裕をもって23日(日)を選択し、おもむろに確定ボタンを押す。やったね!!。すぐさま画面が切り替わって予約済・・・と思いきや、当日は予約できませんと表示が出た。一瞬だが、事態の変化が吞み込めない。

▶ゲゲゲ、と思ってすぐに前の画面に戻る。23日がだめなら30日だ。そこで、今度は30日を選択して、素早く確定ボタンを押す。するとまたもや当日は既に予約が埋まったとの表示が出た。この間10秒から20秒。ここに至ってさすがの私も驚きを通り越して焦りが出てきた。要するに、至近の日曜日から物凄い勢いで予約が埋まっていくという現実が、今私の目の前で展開されているのだ。

▶そこで、間髪を入れず6月の画面を出すと、後半の日曜日は予約可能の表示だ。ここに至ってはどれでも構わないとの思いで、日程画面を選択して予約確定ボタンを押したが、残念ながら三度間に合わなかった。予想されている通り、7月の予約もあっという間に埋まってしまい、せっかく夜中に起きて準備を整えた私にも、まったく歯が立たない。驚きを通り越して、憤懣やるかたない思いが充満する。

▶パソコンを使って1000分の1秒を争う株式や為替のトレードと同じような現象が、コロナワクチンの予約システムで起こっている。日曜日という限られた日程枠に、集中してアクセスが起きているので、こんなことになるのだろうが、めでたく予約できた人の外に、私のような膨大な人たちがスマホを前にして溜息をついている姿を想像して、思わず笑いがでてしまった。いったいどんな顔をした人が、予約を勝ち取ったのだろう。

▶ダメもとで電話予約に移ったが、電話が繋がるはずもなく、こちらはあっさり諦めた。さて、そうは言ってもここで居直って何もしないとすると、接種は秋にずれ込み、その後は、若い人を含めた一般対象の接種に移るから、予約条件は悪化することはあっても良くなることはない。だが、千葉市の場合、接種の主体は実は一般の医療機関で、今回のような集合会場の接種予約は例外的だ。したがって、接種を望むなら、原点にかえって一般の医療機関に問い合わせるしか道がない、ということがわかった次第。

▶午前9時を回ったので、対象となっている医療機関に片っ端から電話をかけるが、どこも判を押したように繋がらない。誰しも考えることは同じだ。15分くらいして、やっと一つの医療機関に繋がった。早速ワクチンの予約を打診すると、現在700人待ちですがどうしましょうと返事がきた。実際いつ頃たったらワクチン接種ができるかと聞くと、おそらく9月くらいだとのこと。それでもよければどうぞという雰囲気だったが、菅首相が、嘘か本当か「7月末までには高齢者の接種を終わらせる」と例の口調で言っていたことを思い出し、アホらしくなって電話を切った。

▶私の場合、かかりつけ医は東京のクリニックなので、最悪の場合、この先生に頼もうかという心づもりはあるが、近場でなんとかならないのかと思いつつ、そうは言ってもまだ65歳以上の予約開始一日目だぞと思い直し、少し頭を冷やすことにした。

▶近くに知っている医院はあるが、そこは一般の予約接種は不可となっている。しかし、昨年その医院(内科と皮膚科)で、頭のニキビの治療に行ったことを思い出し、ダメもとで電話をかけた。相変わらず全く電話は繋がらなかったが、一時間後に電話したら偶然のように繋がった。電話口で相談すると、最初に「患者さんですか」と聞かれた。診察券の番号を連絡すると、「ああ、皮膚科の患者さんですね。実は、当院は、基礎疾患を持っている人を優先的に予約をとっているので、皮膚科の患者さんは、その後になります。6月になったら、また電話してみてください」と言われた。確約ではないが、6月頃には予約が入りそうな気配がしたので、わかりましたと言って電話を切った。

▶仮に6月の初めに予約がとれたとしても、接種はおそらく7月かそれ以降になりそうだ。まあ、WEBの予約競争に敗退した身にとっては、冷静に考えてこれは仕方がないだろう、それに若い人はこれからだし、私もまだまだ若いと思い直し、本日の大騒ぎはこれをもってひとまず終息させることにした。やれやれ。
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▶ちなみに、夕方予約センターに電話をしたら、電話は繋がったが、全ての予約の枠は既に埋まっておりますと、テープで言っていた。このやろう・・・。

 

 

 

 

 

イエスの復活に思う

▶子供の頃、日本基督教団の前橋教会に通っていたことがある。当時は昭和30年代の後半で、私はまだ小学2~3年生だった。母の実家は、篤実な浄土真宗の檀家であったが、どういった訳か、まず母の妹(叔母)が入信し、次いで年の離れた弟(叔父)が、洗礼を受けてキリスト教徒になった。親鸞に帰依していたはずの母の実家だったが、不思議なことにキリスト教には寛容で、母を通じて私もまず教会が運営する日曜学校に行くことを勧められた。

▶子供が毎週日曜に教会に行くためには何らかの動機付けが必要だが、私にとっては、当時高校生だった若かった叔父(※私は「あんちゃん」と呼んでいた)や、年の近い母の実家の従兄たちと、日曜学校が終わったあと近くの前橋公園で遊べることが、唯一の楽しみだったような気がする。従って、通ったのは実質2~3年だったが、よくしたもので、今でもキリスト教に対する興味だけは続いている。

▶私が好きだった叔父は、20年近く難病に苦しんだ末、今から3年程前に亡くなったが、その時は、元気だった妻と一緒にお別れのミサに参列した。その席上、突然流れてきた讃美歌312番の「いつくしみ深き友なるイエスは、罪科(つみとが)憂いを取り去りたもう・・・」と歌っているうちに、イエスが本当に叔父の苦しみを救ってくれた気がして、涙が止まらなくて歌えなくなった。私はこの讃美歌のことをよく覚えていた・・。

キリスト教が成立したのは、今から約2000年前の一世紀の中頃と言われている。先日は、本棚の隅にあったキリスト教学者の赤司道雄氏の「聖書」(中公新書)を引っ張り出して、全く久しぶりに読んだが、読み終わって実に目からウロコが落ちる気分を味わった。

▶紀元一世紀のローマ支配下にあったユダヤ人社会において、ナザレのイエスと呼ばれる人が歴史上存在した(ようだ)。そのこと自体は、間違いなさそうであるが、残念ながら新約聖書以外でイエスの事蹟を明確に記載した歴史的文献(死海文書を含む)は発見されていないので、実証はされていない。新約聖書によれば、イエスエルサレムに近いベツレヘムで大工のヨハネの子(但し、母マリアは精霊によって身籠った)として生まれているが、育ったのはエルサレムから百数十キロメートルも離れたナザレという北方の町で、当時イエスはナザレの人と呼ばれた。成人になったイエスは、30歳頃に宗教活動を開始したが、結果的にその活動期間は1年半から3年程度と極めて短かった。活動はもっぱら北部地域において行われており、当時ユダヤ教の中心地であったエルサレムから離れていたので、ローマ時代の歴史家の目には止まらなかったことから、文献が残っていないようだ。イエスエルサレムに入ったのは、十字架に架かるわずか一週間前のことである。

▶イエスの実際の宗教活動の期間は、世界的な宗教の開祖としては極めて短く、これを知って私は大変驚いた。仏教の開祖でシャーキャ族の王子であった釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、29歳で出家し、35歳で成道し(覚りを得る)、その後80歳で亡くなるまで北インド地方を中心に宗教活動を展開した。その事蹟は多くの経典に書かれているが、歴史家や学者で釈迦(ゴータマ)の実在を疑う人はいない。(但し、釈迦の生年については諸説あって確定されていないようだ。)

▶イエスが十字架にかけられたのが西暦30年前後で、直弟子であったペテロやパウロなどの活動によって、キリスト教地中海世界で成立するのが20~30年後の一世紀中頃である。新約聖書に示されている肉体を持ったイエスの「復活」は、この間に起こったとされているが、それはあくまでも宗教的事実であって、生物学的事実とは異なることは言うまでもない。但し、復活という宗教的事実が一世紀中頃には広く地中海世界に行き渡っていたことを考えると、それは歴史的事実と言ってもいいかも知れない。大事なことは、イエスの復活はキリスト教の一部であって、復活がない限り、キリスト教も成立していないと言うことだ。

新約聖書には、四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)がある。福音書とは、神の国が来るという良き知らせ(音信)を著したもので、良き知らせを福音と訳したものである。まず、マルコによる福音書が最初に書かれたと言われている。この福音書は、原マルコとも呼ぶべき資料に基づいて書かれたことが分かっているが、その資料は、次にマタイとルカが福音書を書く際にも使われている。マタイによる福音書には「ユダヤ人社会」において、イエスがメシアであることを正当化する志向がみえるという特徴があり、それが証拠に福音書の最初にイエス系図を示し、その一番最初に記載されているのがユダヤ民族の祖であるアブラハムである。

▶一方、ルカによる福音書は、一貫してヘレニズム的(※私の言葉で言えばキレイ事が多い)であり、ルカが想定している読者はユダヤ人社会ではなく、さらに広い世界の人を念頭に置いているようだ。そして、更に数十年経って最後に書かれたと言われるヨハネによる福音書は、極めて神学的な文書であって、その書き出しは、有名な「初めに言葉(ロゴス)があった。言葉は神と共にあった・・・」であり、旧約聖書の創世記を参考にしているが、それよりはるかに難しい。

福音書にはイエスの復活が書かれているが、復活した不滅のイエスのその後については書かれていない。私は、イエスを復活させたのは、イエスがキリスト(救い主)であることに(改めて)気づいた直弟子達だ、と思っている。その弟子達は、イエスがローマの官憲に捕まってからは、イエスを否定して一度は逃げるのである。一番弟子のペテロでさえ、官憲からイエスのことを知っているかと問われて、「知らない」と三度答えるのである。しかし、その後は彼らは気づいたのだ。イエスが本当にキリストであるということを・・・。それがイエスが復活に向かう瞬間だったのではないか。

▶弟子達は、十字架に架かったイエスを復活させる必要があった。キリスト教は、ナザレの人であったイエスを本当のメシア(救い主)として信じる宗教である。だから復活を信じることが信仰の証となり、復活したイエスは信者の心の中に生き続ける。そして、それは紛れもない宗教的な事実に発展していく。逆説的だが、イエスの死後、極めて短期間に地中海世界キリスト教が受け入れられていったという事実が、イエスの復活の宗教的事実を証明していると言えるだろう。

▶ところで、イエスも釈迦も、自分で書いたものは残していない。釈迦の教えは膨大な経典に記述されているが、その多くは「如是我聞」・・このように(弟子である)私は聞いた・・という文言で始まっている。新約聖書にはイエスの事蹟が記されているが、書かれている内容は福音書によって異なっており、それは各福音書が後代のイエスの弟子たちによる伝道を目的とした為の書であるからである。

キリスト教は、実は「パウロ教」だと唱える人がいるそうだ。新約聖書の書かれたことの多くは、パウロの思想が反映されているからだとのことだが、当たらずとも遠からずというべきか。そうだとすれば、大乗仏教における龍樹(ナーガールジュナ)や世親(ヴァスパンドゥー)と同じ位置づけになるのかも知れないが、これはこれで興味深い。但し、本日のブログのテーマからは外れるので、今日はやめておこう。



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▶昨日は、妻の誕生日だった。生きていれば〇〇歳だ。今日は午前中は雨が上がっていたので、花を買って墓参りに出かけた。墓に着くと、墓前には既に美しい生花が供えてあった。どなたか、妻の誕生日を知る人が、雨模様の中、昨日墓参りに来てくれたようだ。感謝してもしきれない。私が持参した花をそのまま供えると、墓前は更に豪華になった。妻の存在は、昨日墓参に来てくれた人の中にも、間違いなく生きづいているはずだ。私はそのことを改めて知り、少し福音をもらった気がして、嬉しくなって帰ってきた。