マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

四国遍路日記(5ー6)

今治というとタオルを思い出す人が多いのではないか。全国のタオル生産高のおおよそ半分をここで生産しているというから驚く。今朝、宿舎のあった菊間という海沿いの田舎町から今治市街方面に歩き出したら、意外なものが菊間で生産されていることに気がついた。

▶それは、屋根瓦。生産しているのは中小の工場群で、いずれも家内工業に毛のはえた程度の規模だが、発祥は鎌倉時代初期まで遡ることができるというから、立派な伝統産業と言えるだろう。道沿いに不要になった?成品瓦が無造作に並んでいたりするが、中でも凝ったデザインの鬼瓦がすごい。

▶但し、神社仏閣ならいざ知らず、こんな凝った瓦を屋根にのせるのは、勇気が要りそうだ。伝統技術の保存も兼ねて「瓦博物館」というのもあったが、そのまま通り過ぎた。皆さんも、菊間瓦というのを覚えて置いてください。写真を撮らなかったのが残念。

▶しかし、タオルでも瓦でもなく、今治と言えば造船を抜きには考えられない。瀬戸内の造船業は和船の船大工から始まっているが、今や日本の造船業界をリードしているのは三菱重工川崎重工IHI といった凋落した重工名門ではなく、四国の「今治造船(株)」なのだ。今治市の小中学校は立派な構えの校舎が目につくが、これも造船業が栄えているおかげだろう、と勝手に考えている。

▶現役で仕事をしていた頃、今治を訪れたことがある。泊まったのは今治国際ホテルという高級ホテルだが、このホテルも「今治造船」が経営していた。大型船の買い付けに世界中からバイヤーが今治を訪れるが、泊まるのは今治国際ホテルしかない。ここ以外に外国人が泊まれるホテルがないのだ。

▶その今治は、造船業の発展に加えて、しまなみ海道の四国側の拠点として栄えている。足元のコロナの影響はどうだろうか。

▶今日は、今治市内の54番延命寺、55番南光坊、56番泰山寺、57番栄福寺と回り、最後は今治市内を一望できる58番仙遊寺の宿坊に泊まった。今治市内の寺は町寺が多く、これといった特徴を探すのが難しい。

仙遊寺は標高210mに位置する山寺で、堂宇はたいしたことないが、宿坊からの眺めがいいのと、本物の温泉に入れるのでここにした。写真は仙遊寺の山門で、扁額に補陀落山と書いてあるのは、観音菩薩が住んでおられるという山。


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▶部屋の窓を開けると、眼下に今治市内が見渡せる。遠くにしまなみ海道も見える。宿坊に入ったのが4時。温泉に浸かり早速洗濯も済ませた。大変良い宿坊だが、難点は広い宿坊に宿泊客が私一人ということ。夕食も残念なことに仕出し弁当だった。8月の遍路はこういうことが多い。

 

 

 

 

四国遍路日記(5ー5)


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▶今日はいきなり宿泊施設の話から始める。泊まったのは松山から今治に入った所にある「マリーナ・シーガル」という瀬戸内海に文字通り面した5階建ての施設で、本来はヤマハが自社顧客のために建設したプレジャーボート基地で、ヤマハは多くの顧客のボートをここで預かり、顧客はここに滞在して瀬戸内海のクルージングを楽しむというシステムになっているようだ。(以下はゲスの勘繰りですので・・)

▶天下のヤマハが自社顧客のために建設しているので、写真で見る通り、施設には顧客から預かったボートを搬送するための巨大なクレーンが設置されていて、格納庫にはあまたのヤマハの最新のボートが格納されている。この施設にはホテルが併設されていて、ここでは船舶免許を持たない顧客のために、合宿しながら免許取得できるように講習会が定期的に計画されている。

▶さて、なぜ私がここに泊まったかというと、私の事情からすれば、10㎞圏内にここしか宿泊場所が存在していないということに尽きるが、ヤマハ側からすると、施設利用者が激減しているので、多少でも日銭が稼げればと思ったに違いない。断っておくが、これはヤマハに聞いた訳ではなく、要するにゲスの勘繰りである。

▶素泊まりで4400円の部屋から、瀬戸内海が一望でき、ツイン部屋のしつらえも国際級なのには恐れいった。窓の外の日没の景色は瀬戸内海の絶景である。ところが今晩の宿泊客は私だけ。管理人は夜中は常駐していないのは、今回最初の宿の「いかだや」と同じ。しかし、ここに歩き遍路が泊まるというのも違和感があるよなあ・・・。
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▶話を遍路に戻す。今朝は道後温泉近くの大規模ホテルを6時過ぎに出発。ホテルの朝食が7時からなので、朝食をパスした。途中、松山市内の松家で牛めしを食べた。松山市内を約10㎞近く歩いて52番太山寺に着く。ここは51番石手寺と同じく国宝級の建築物が有名だが、こちらは金回りがいいのか、広大な寺域は比較的良く整えられている。何せ仁王門から本堂まで570m以上はあるし、本堂から納経所まで250mも離れているのはギネス級だろう。
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太山寺に着く直前に道に迷った。二股に遍路道が分岐しており、右側の本命とおぼしき道の正面にはこれより私有地につき入場禁止の看板が目についたので、怪訝に思いながら左側の道を登って行くと、しばらくして遥か離れた所から、「おーい、道が違うぞ」と言う声が聞こえる。振り返ると人が手を振っている。

▶やはり道が違っていた。正しい道は入場禁止の看板を避けるように続いているのだが、これでは皆さん間違えるはずだ。教えてくれたおじさんに感謝しかない。

太山寺から53番圓明寺までは2㎞しか離れていない。太山寺が深山にある山寺とすると、圓明寺は車が通る道路沿いにある町寺だ。朝出発時にはどんよりとした曇り空だったが、ご覧の通り空は晴れわたり暑い。
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▶圓明寺の参拝を済ませたのが11時前で、これから本日の宿舎まで20㎞を歩かねばならない。実際のところ、暑さもあって厳しい行程だった。途中で、突然瀬戸内海が見えだすと俄然気分は盛り上がった。道沿いの海の景色は絶景だ。
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途中で休みたいベンチを見つけたが、日差しが強すぎるので諦めた。

▶コンビニで飲み物を補給しながら、やっとのことで宿舎の「マリーナ・シーガル」が前方に見えてきたのは、なんと午後5時でした。本日は30㎞歩きました。自分を誉めてあげたい気分だ。夕食は近くのコンビニで買ったビールとツマミで一人乾杯。こういうのもいい。真ん中の夕景の写真はその時のものです。

 

 

四国遍路日記(5ー4)

▶昨日は疲れに加えて、身体の一部に虫に刺されたような痒みと痛みが出現したので、対応に大わらわで、まともにブログを上げる時間が取れなかった。食事も終わり治療も一段落して部屋に敷いてあった布団に倒れ込んだのが午後8時頃で、そのまま眠ってしまったが、次に目を覚ましたのが午後11時半だった。随分と眠った気がした。

▶喉が渇いたので水を飲もうと半身を起すと、身体のあちこちが痛い。一方、千葉を出発する前は風邪気味で心配だったが、こちらはケロリと治ってしまっているから、実に健康的だ。そのまま目を閉じて昨日歩いた行程を思い返しているうちに再び眠り落ちてしまい、次に目を開けたら朝の5時半だった。

▶昨日まで無理したご褒美に、今日は遍路を午前で切り上げ、午後は松山の道後温泉周辺を観光することにする。昨晩泊まった「長珍屋」の目の前にある46番浄瑠璃寺を7時過ぎに参拝したのを皮切りに、松山市内の47番八坂寺、48番西林寺、49番浄土寺、50番繁多寺と近接する寺を次々に回ったが、こうも矢継ぎ早に回ると個々の印象が薄くなるのはやむを得ませんね。
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▶本日最後の石手寺を前にして、正午前に地元のカフェでランチをいただいたが、これが最高だった。店内に流れる昭和の歌謡曲とレトロ感溢れる内装が醸し出す雰囲気が調和してなんとも言えない。もちろん料理内容(ソースカツ)も充実していて、食後のコーヒーも含めて900円は泣けてくる。松山市民がうらやましい。
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▶51番石手寺は、国宝や重文の建物が多い名刹として知られているが、金が回らないのかあちこち壊れていて、全体的に廃れている印象が強いのは残念であった。時刻は午後2時だが本日はこれでおしまい。さあ、これから道後温泉に行くぞ‼️
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名にし負う道後温泉は、石手寺から徒歩15分で到着。あらかじめ調べていたのだが、道後温泉本館は現在大幅リニューアル工事中で、有名な歴史的建造物はサイケな工事用シートで覆われいて見えない。一部のみ営業中だがコロナ影響もあって入場はあらかじめ整理券をもらう必要があるとか。
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▶それを承知で本館前に行く。無事に15時半からの整理券をゲットすることに成功。但し1時間以上も時間があるので、その間に道後温泉の周辺を散策した。伊予鉄道後温泉駅前は、坊っちゃん列車やカラクリ時計が人気で、若い男女で賑わっている。私のような遍路姿は、やや場違いな感じがしないでもない。
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▶時間があるので、市営の正岡子規記念館に入る。ここは時間繋ぎとして立ち寄るのはもったいない内容だった。展示物に引き付けられているうちにあっという間に3時半になってしまった。泣く泣く切り上げて道後温泉に駆けつけると、現在満員なのでもう少しお待ち下さいとのこと。

▶結局10分待って入場。待望の道後温泉の湯は期待に違わぬものだった。玄関を入って階段を下りると脱衣場があるが、要するに銭湯と同じ体裁だ。浴室は想像していたよりは狭い。浴槽は幅7~8m奥行き3m程の大きさで、2箇所の注ぎ口から透明な湯が浴槽に注がれており、源泉掛け流しの弱アルカリ性の湯は新鮮だった。明治の遺構がここにあり。

▶実際に入湯している人は平均すると数名程度で意外に少なく、20分粘ったら、最後は2人だけになってしまった。コロナ対応の入場制限をかけ過ぎている気がするが、結局ゆっくり入れたのだから文句を言う筋合いではない。それにしても、夏目漱石正岡子規、そして秋山真之が入った道後温泉を堪能できたのは収穫だった。

道後温泉を出て10分程歩いて今晩のホテルにチェックイン。早速本日2度目の温泉に入ったが、こちらも空いていて快適だった。遍路の合間に、たまにはこういう贅沢があってもいい。おかげさまで、身体の痛みや強張りは随分と緩和したから、温泉はやはりいいものだ。

▶下の写真は、翌日朝出かける時に通った道後温泉飛鳥の湯のものだが、松山市営にしてはサイケな代物である。
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四国遍路日記(5ー3)


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▶本日は、朝7時に宿を出て8㎞先の45番岩屋寺を参拝した後、そのまま一度宿まで戻り、預けて置いた一部の荷物をまとめて、再度出立した。時刻はこの時既に11時20分。


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▶それから三坂峠という峠を越えて今晩の宿の46番浄瑠璃寺の目の前にある「長珍屋」に入ったのが午後5時20分だった。時間オーバーで、浄瑠璃寺は目の前にあるにも関わらず参拝できず。

▶やはりこの日程には少し無理があったようだ。この間のいきさつは別途書きたいが、今日は疲れたので無理。明日は、道後温泉でゆっくりする予定を組んでいるので、ブログもまとめて書くことにします。とりあえず、洗濯だけして寝ます。皆さんおやすみなさい。

四国遍路日記(5ー2)

▶今日は引き続き44番大寶寺を目指す。今晩の宿に入る迄にはおおよそ27㎞を歩くのだが、平地の距離ならいざ知らず、途中で3つも峠を越さないといけないので、かなり厳しい行程となる。だからプランを立てる際にはかなり悩んだ。

▶しかし、前後の日程と宿舎のロケーションを考えると、いずれの代替案も帯に短しタスキに長しといった具合で、適当な案が見つからず、結局リスク承知で44番と45番の間に位置する「八丁坂」という宿を予約した。

▶午前7時に小学校跡の「いかだや」を出発。44番大寶寺に向かうには「ひわ田峠」ルートと「農祖峠」ルートがあり、ガイドブックは少し距離は長いが峠の標高が低い後者を推奨するも、距離の短いしかし標高の高い「ひわ田峠」ルートを選択した。

▶国道379号から県道42号に進むと本格的な山道となる。歩き始めて2時間を越えると、既に全身汗びっしょりといった状態だ。本日一番気にかけたのは水分補給で、1時間歩くと少なくともペットボトル1本以上は楽に消費してしまう。だからリュックには常時3本の飲み物を入れたが、その分重くなるのは仕方ない。

▶10時20分、三嶋神社の前を通過。せっかくなので急遽参拝することにしたが、こんな所にある神社に参拝する人がいるのだろうかと思わせる神社で、当然誰にも会わない。

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▶最初の峠である下坂場峠を11時に通過したが、これまで既に17~18㎞は歩いたか。この時はまだ体力に余裕があった。8月の暑さの中をすき好んで歩き遍路する人がいないのか、そもそも人が少ない場所なのか、とにかく誰もいない。それでもスマホにメールが届くのが現代的。

▶下坂場峠を一旦下ってから、今度はメインの「ひわ田峠」に向かって登り始めたが、既に12時を過ぎている。休憩場所を探していたら椅子が2脚並んでいる場所を発見。傍には水飲み場も設営されているので、ここで昼飯にする。今朝宿で作ってくれたおにぎりを食べるも一個で十分。喉は渇くが食欲は減退。
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▶30分休んで歩きを再開。あえぎながら「ひわ田峠」を登って行ったら、峠の手前で後ろから遍路が一人登ってきた。珍しい。私が休んでいたら、この人はあっという間に追い越して行ったが、元気な人もいるものだ。13時過ぎにやっと峠を越える。

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▶その後久万高原町の中心部まで下りてくると、さすがに人の姿が見え出した。目指す大寶寺は町の中を通って反対側の山の斜面にある。この上りがキツかった。午後2時半に大寶寺到着。境内にあるベンチがどれもこけが生えるほど古びていて座れず、寺としては今一つ。ベンチくらい直せないものか。今回初めての納経を済ませたら3時だった。


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▶その後は、寺の裏から始まる本日3度目の峠道を上ったが、さすがに疲れたね。峠を越えて下りになったら、左足が痛み出した。騙しだまし歩いて、4時10分に目指す宿の「八丁坂」に着いた時は、正直ホッとした。いやあ・・今日は良く歩きました。

 

四国遍路日記(5ー1)


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▶またまた四国遍路に行くことになった。今回で5回目である。昨年から通算すると600㎞以上は歩いている計算だが、巡った寺を数えると43で、ほぼ半分。今朝は7時前に家を出て、電車を乗り継ぎ羽田には8時40分に到着した。日頃の節制?の賜物か、はたまた神仏の加護があってのことか、ありがたいことにこの年齢でも体調にさしたる変化はない。

▶実はこのタイミングの遍路になったのには訳がある。3年前のちょうど今頃、既に終末期にあった妻が急に体調を悪化させ、その後10日あまりで永遠に旅立ってしまったのだ。だから8月下旬というのは、特別な思いが連なる日々であり、暑さが続くこの時期にわざわざ四国遍路を計画したことは、これらの思いと無縁ではあり得ないのだ・・・。

▶と言えばやや格好をつけ過ぎた物言いに聞こえなくもないが、真夏のコロナ下ではあれ、用事もなく家に引きこもっているというのも、正直何だか老け込んでいるようで、気が引けるんですよね。(それに、涼しくなったら別のこともやりたいしね。)

▶前置きはこのくらいにして、曇り空の下、松山空港に着いたのは11時過ぎだった。JR松山駅前の喜多方ラーメン屋に入ってから12時24分発の宇和島方面行きの2両編成の特急に乗り込んだ。前回はJR内子駅で終了しているので、今回はその内子駅から歩きを再開する。時刻はちょうど午後1時。

内子町は小さな田舎町だが、旧街道沿いに商家が立ち並ぶ小粋なところだ。駅近くに内子座という昔風の芝居小屋が残っていて、ここでは今でも東京から売れっ子落語家を呼んで定期的に寄席が開かれているというから、知る人ぞ知る町か。そう言えば、隣の伊予大洲もそうだった。知らないのは私だけ。


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▶内子から小田川に沿って走る国道379号線を久万高原町にある44番大寶寺に向かってひたすら上って行く。途中から日が差してきて気温が上がる。大寶寺までは42㎞もあるので、本日は12㎞ほど先にある宿「いかだや」まで行く。水分補給が欠かせない。

▶2時間歩いて大瀬という集落に到着した。休憩所があったのでリュックを下ろして休む。ここには大江健三郎の記念館があると案内板に書いてあるが、確かめるだけの余裕がない。関係も不明。15分休んで出発。すると今度は、曽我兄弟(十郎、五郎)の首塚の標識を見つけた。


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▶曽我兄弟は、先日の「鎌倉殿の13人」にも登場したあの仇討ちで有名な兄弟のことだが、その首がここに埋まっているというから、本当なら事実は小説よりも奇なりだ。そう言えば、青森には「イエスキリストの墓」も国道の標識に出ていたので驚いた記憶がある。

▶仇討ちの本懐を遂げた曽我兄弟は結局殺されたが、部下だった鬼王がその首を持って瀬戸内海を船で下る時、生首が傷んできたので仕方なくここに埋めた跡が現在「曽我神社」になって残っているとのこと。時間がなかったので私は通り過ぎただけだったが、歩いていると色々ありますね。

▶何だかんだだったが、予定通り4時過ぎに目的の「いかだや」に到着。ここは小学校の廃校跡を改装した宿で、場所が場所だけにやたらと広い。設備は比較的新しいが、風呂の湯が突然水になってしまったのには驚いた。これではまるで学校の怪談だ。

▶夕食が終わると一人で仕切っていたおばさんが、「夜中は誰もいないのでよろしくお願いします」と言って引き上げていった。幸い遅れて到着した若い学生さんらしき宿泊客が一人いたから良かったものの、もし運悪く私一人だけこのだだっ広い学校跡で泊まることになったとしたら一体どうしようかと、年甲斐もなく思ったのでした。

 

送り盆の日に思うこと・・・


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▶気がつけば8月も半分終わり、今日は送り盆の日だ。母がまだ元気だった頃は、家族そろって前橋の実家でお盆を過ごし、16日の夕方近く、田んぼの畔道で焚いた線香の煙にのせて、ご先祖様の霊を旅立たせたものだった。お盆には亡くなった先祖の魂が戻ってくると信じられていたから、13日の迎え盆の日はどこかウキウキした気分で、再び彼岸の世界へ魂を送り返すという16日は、寂しい感じがしたものだった。母にしてみれば、送り盆が終われば子供や孫達も帰ってしまうので、二重に寂しい気持ちがしたのだろう。今になって母の気持ちがよく分かるようになった。

▶今年は、12日に前橋まで日帰りで墓参をした。1日早く父母と妹の魂を連れて来たことになるが、これは生きている私の都合でそうしたのであって、果たしてこれで魂が本当に来てくれたのかどうかは分からない。我が家の場合、墓が二つあって、一つは前橋の菩提寺にある墓で、ここには父母と妹が入っている。もう一つは千葉市の桜木霊園内に2年前に求めたもので、こちらには妻が入っているが、お盆迎えの墓参りを13日に同時に行うというのはなかなか大変で、必然的に時期をずらすことを余儀なくされたというわけだ。

▶墓を二つ持つことについては、妻の墓を作るときに菩提寺の住職に相談した。難色を示されるのではないかと心配していたところ、意外にもスンナリと了承してもらったので助かった。葬儀の時にお布施の額を弾んだのが効いたのかも知れない、などと言うと仏罰があたるが・・・。ただ、墓が二つあるというのは何かと不便なのはその通りで、いずれは前橋の墓を終わりにして千葉の墓に移そうと考えている。既に、千葉の墓の墓誌には、妻の戒名に並べて父母と妹の戒名も刻んであるから、これを見た住職にしてみれば、この人はナント手回しがいいことと思ったに違いない。

▶墓じまいに関しては驚くべき経験をしたことがある。当時私の妻の実家は小田原にあり、先祖の墓は出身地の岐阜の中津川にあった。30年くらい前に妻の祖母が亡くなって暫くたったとき、義父が一念発起して中津川にある墓を終わりにして、小田原に新しく墓を作ることを決断した。私と妻も手伝いに駆り出され、9月末の当日は休暇をとって私が車を運転し、妻と両親一家を乗せて中津川に向かった。

▶途中、名古屋に寄って写真を撮ったり岐阜の犬山城を見学したりの観光気分で、その晩は中津川の温泉宿に一泊したのだが、妻の弟と子供も交えて久しぶりの賑やかな一夜となった。翌日は菩提寺への挨拶と墓じまいの儀式を済ませ、せっかく中津川まで来たのだからという義父の意向で、つきあいのある親戚の家をくまなく回って挨拶を済ませた。全てを無事に済ませることができた義父は満足げで、帰りの車の中でもホッとした顔をしていた。

▶それから何日か経った10月の初め、突然我が家の電話が鳴った。義父が亡くなったという義母からの電話だった。73歳だった。10月にも関わらず暑い日で、実家の前の海岸で散歩を楽しんだ義父は、家に戻って昼寝をしているうちに心筋梗塞で亡くなったのだ。自分で墓の改葬をしてから僅か10日余りで、その新しい墓に入ることになってしまったのだから、運命の皮肉というのはこういうことかも知れない。だからと言う訳ではないが、あまり墓じまいを急ぐのもどうかと最近思うようになった。

▶と言うのも、妻が亡くなってもうすぐ3年になるが、最初の半年が過ぎたくらいから精神的にも立ち直ってきて、その頃から新型コロナが流行し始めたものの、めげずにあれやこれやと一人暮らしのプランを実践し始めた。一周忌に間に合わせるように妻の墓を作ったり、前橋の実家のリフォームと賃貸、北軽井沢の使わなくなった別荘の解体、居間のリフォーム、冷蔵庫の買い替え、四国遍路の開始等々・・・これまで随分と色々なことをやってきた。そして先日は風呂場のリフォームも完成したが、よくよく思えば、やはり急ぎ過ぎている感じは否めない。

▶これで墓じまいも終わってヤレヤレと言いながらポックリ逝ってしまうようなことになったら、それはそれで仕方のないことだし、そういう死に方も悪くはないだろうが、残された子供達は悲しむだろう。お父さんも、もう少しユックリ行けばよかったのにねってね。

▶そうならないように、身体を鍛えるつもりで来週から四国遍路を再開する予定であるが、その前に今晩は神宮外苑のビアガーデンで友人達との会食があり、金曜日は御殿場の富士平原でゴルフの予定があったりと、言ってることとやってることが違うではないかと妻から叱られそうだ。しかし、持って生まれた性格というのは、この歳まで生きてくると簡単には変えられない。なんだかんだと言いながら、退屈せずにこうして日常生活を過ごせているのだから、それはそれでいいではないかと思ったりもする。

▶お盆の最終日に、涼しい居間で昔のことを思い出しながら少し感傷的になっていたが、早くブログを書き終えて、これからゴルフバッグを宅急便で送りだしたり、庭先で線香でも焚いて先祖の霊を送ったり(同じ送り出しでもだいぶ異なるが・・)、その前に昼飯の支度をしたり、4時過ぎには神宮外苑まで出かけていかなければならないと気がついて、感傷的気分は吹っ飛んだ。そうだ、四国遍路の10日間の宿探しもしないといけないし、遍路に出かける前には、行きつけの居酒屋に顔を出さないといけない。こうしてはいられない・・・。