マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

突然の妻の死とそれから

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▶手元に一枚の写真がある。満開の桜の木の下で、車椅子に乗った義母と妻が幸せそうな笑顔で写っている。90歳を超えた義母は、数年前から足腰が不自由になってしまい、何年か前に横浜にある老人介護施設に入所した。写真は3年前のある暖かい春の日に、妻が義母を散歩に連れ出した時のものである。横浜の施設にしたのは、近くに義弟夫婦が住んでいたからであり、千葉に住んでいる妻と私は、毎月1~2回はこの施設に見舞いに通った。

▶ここ数年、義母の認知症が進行した。諸事にわたってままならない母親のことが頭痛の種だった妻にとっては、面会に行った時も家に戻ってからも、その心理的負担は大きかったようだ。その母親は、昨年5月に97歳で亡くなった。本来であれば、母親を無事に看取って晴々とするはずの妻だったにもかかわらず、現実は残酷なものだった。妻は母親が亡くなる8カ月前に、つまり一昨年、原発巣不明のガン性腹膜播種を引き起こして、僅か4ヶ月の闘病生活の末に自らの命を燃やし尽くしてしまったからだ。私は、その写真を見るたびに、人生の不条理と無常を強く感じるのだ。

▶元気だった妻が自らの異変に気が付いたのは、元号が令和に変わる直前の4月中旬だった。その日、近くの病院に行った妻が会社にいる私に電話をかけてきた。腹水がたまっているので大至急精密検査が必要だという。よもやそんなことはあるまいと気楽に妻を病院に送り出した私だったが、「腹水がたまっている」という言葉を聞いて、状況が尋常ではないことを直感し、気が動転して足下の床が抜けたような気分になった。私には30年以上前に若かった妹をガンで失った苦い経験があったからだ。当時彼女は終末期の激しい腹水に苦しんでいた。

▶令和元年の大型連休は、妻と私にとって例えようのない過酷な時間だった。ようやく連休明けの火曜日に、妻を東京のがん研有明病院に連れていくことができたが、即日検査入院となった。その後一ヶ月近くかけて全身をくまなく検査したが、ガンの原発巣は発見できず、ガン性腹膜播種のため手術不能という絶望的な状況だけが残った。

▶そんな状況だったにもかかわらず、妻は明るさを失わなかった。絶望的な病状を淡々と語るドクターに対し、「先生、もう少し元気の出る話をしていただけませんか」と冗談めかして訴えていたことを思い出す。妻を見舞うため、私は毎日病院に通ったが、腹水の増加は止まらず、彼女の体調は急速に悪化し、まともな食事は殆どとれなくなっていった。夜7時過ぎ、自宅に戻るため病室を出ていく私に「気をつけて帰ってね・・」と見送ってくれる妻のまなざしが、今でもはっきりと浮かぶ。

▶妻は、抗がん剤治療に一縷の望みをかけて、6月から自宅療養に専念することになった。退院に際しては、ホスピスの利用も示唆された。しかし抗がん剤治療を行うためには緩和ケア専門のホスピスに入ることはできず、なによりガンが発覚してからまだ2ヶ月も経っていない段階で、何故ホスピスの心配までしなければならないのかというやり場のない怒りに、私は泣くような思いだった。

▶私は、地元の訪問診療医や看護師と連携をとりながら、妻を24時間体制で自分一人で看病することを決断した。実は偶然なのだが、私は、これに先立つ半年以上前から、40年以上にわたって勤めあげた会社を、6月をもって定年のため退職することが決まっていたのである。結婚している3人の子供たちには母親の看護のことで心配をかけたくないという気持ちはあったが、残された時間が少ないことを知っていた私には、妻と二人で過ごす時間を、これ以上無駄にしたくない気持ちの方が強かったのである。

エリザベス・キューブラー・ロスは「永遠の別れ」の中で、予期された悲嘆について述べている。愛する者と死別するに際しては、本人が亡くなる前に既に激しい悲嘆が引き起こされるということがあるのだと言っている。40年以上も連れ添ってくれた妻は、私にとって人生の同伴者であり、文字通りかけがえのない存在でもあったから、毎日私から少しづつ、そして確実に離れていく彼女を見ていることは、私には信じられず、真に耐え難かった。私は、まさに予期された悲嘆の極みの中にいたのだ。しかし一方で、それは私にとって宝石のような貴重な時間でもあったのだが・・・。

▶夏の終わりに妻は病態が急変し、最初に診断を受けた近くの病院へ救急搬送された。9月初旬、妻は最後に大いなる慰めの言葉を私に残して亡くなっていった。そのことについては今ここで語るつもりはないが、それは少なくともこれから一人で生きていかなければいけない私にとっては、大きな人生の支えとなるはずだ。 

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▶妻が逝って私は文字通り一人になった。亡くなった当初は残された雑事に紛れて多忙で落ち着かない日々を過ごしたが、それも次第に潮が引くようになくなっていった。代わって新たな悲しみが沸いてきた。最初は定期的に激しく強い悲しみに襲われた。その悲しみも30分も一人で泣いていると次第に治まってくるのであるが、その後に言いようのない疲労感と胸の痛みが残った。悲しむということは、こんなにも体力を消耗するものであるのだということを実感した。突然悲しみが襲ってくる間隔は、最初は一週間おきくらいだったが、次第に二週間おきになり、そして三週間、一ヶ月と延びていった。

▶人が死別の悲しみからいつ立ち直るかは個人差が大きいようである。3ヶ月で立ち直ったという人もいれば、10年経っても深い悲しみを引きずっている人もいる。テレビで拝見した野村克也氏などは、残念ながら最後まで立ち直れなかったようだ。それは、故人との関係の在り方や、残された人の人生観や性格にも大きく左右されるのだろうが、私の場合、一年を過ぎたあたりから精神と体力の回復を実感できるようになった。現在でも悲しい気持ちが沸き起こることがないではないが、それは妻を失った絶望感に満ちた喪失の悲しみというより、あれほどに愛していた妻が、私の心の中から次第に離れていくことによる悲しみであり、言葉を変えれば、人に与えられた諦めと忘却の悲しみというようなものかもしれない。それはそれで哀しいことではあるが、仕方のないことだと思うようにしているし、妻もきっと許してくれるだろう・・・と思っている。

▶この間、グリーフ・ケアに関する多くの本を読んだ。先にあげたキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」「永遠の別れ」や、キャサリン・サンダーズの「家族を亡くしたあなたに」など、欧米系の本は概して取り上げられているケースが多く、実際的なケアに関するアドバイスもあって非常に参考になった。日本人が書いた本は、基本的に自らの体験談を綴ったものが多かった。城山三郎や柳田邦男、そして元国立がんセンター総長の垣添忠生の本も読んだ。どうしても自分の場合と比較した読み方になってしまいがちなのが難点ではあるが、深い悲しみを抱えて一人もがいているのは自分だけではないというのを知るだけでも大いに読む価値のあるものと感じた。そんな中で、天気予報のキャスターであった倉嶋厚の「やまない雨はない」は、氏の過酷な経験に裏打ちされた多くの示唆があり、私はこの本に大いに慰められた。今でも時々読み返している。

▶ブログで伴侶の死を語ることについては、あまりにも暗くて個人的すぎるので躊躇する気持ちが大きかったが、そもそもこのブログを立ち上げた目的が、自らの再生の記録を残していくためのものであることに鑑み、あえてこうして掲載することにした。