マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

究極のヒマつぶし・・私が仏教に目覚めたのは・・・

f:id:Mitreya:20210202140946j:plain▶妻が元気だった頃から、私は趣味のバイクを使って近場を散策するのが好きだった。成田山新勝寺は我が家から比較的近く、行き場所に困ったときはここにするのが都合がいい。私が成田山を選ぶのは、大本堂の奥に広がる16万5千平米にもおよぶ成田山公園があるからで、ここは適度なアップダウンがあって散歩するにはピッタリなのだ。しかも池や滝や植栽が美しく配置されていて、早春の梅の季節や秋の紅葉の頃は、見どころが多い。なにより素晴らしいのは、訪れる人が少ないことで、おそらく参詣者の多くは、大本堂にお参りした後いくつかの堂宇を巡れば、満足してそのまま戻ってしまうからなのかもしれない。まあ、私にとってはその方が好都合なのだが。

▶ある晴れて暖かい秋の日に、私は成田山公園の裏手にある駐車場にバイクを止めて、そこから公園に入っていった。公園に入ってすぐ目の前に大きな池があり、そのほとりを回って右手を上っていくと平和の大塔に着く。その大塔を過ぎると、小さな堂が見えてきた。2017年に建立されたばかりの医王殿である。堂の周りには五色の布が飾ってあり、なんだか最近落慶したかのようだった。内部を参拝することができるというので、中に入った。真新しい堂宇は少し落ち着かないが、そこには新しい仏像が安置されていた。誰もいない堂宇の中で、しばらく一人で鑑賞していると、突然そこにバッグを背負った若い外人の女性が入ってきた。

▶しばらく二人きりで仏像を見るともなく見ていると、彼女が「これは仏陀ですか」と英語で話しかけてきた。私は拙い英語でなんとか応えようとしたが、言葉がすぐにでてこない。というのは、私は仏陀が釈迦をさしていることは知っていたが、その仏像はどうみても釈迦像ではなかったからである。「申し訳ないが、私は仏像に詳しくない。しかしこれは仏陀ではないと思う」と答えると、「それでは何か」と彼女は言う。「それは仏様の一人である」と言おうとしたが、なかなか英語が出てこない私を見て、彼女は諦めて外に出て行った。

▶彼女が堂を出て行ったあと、私は改めて仏像を眺めたが、それが何であるかはわからなかった。英語はおろか日本語でもそれを説明することができないことに改めて驚いた。成田山がお不動さんを祀ってあるのは知っているが、それとて私には説明できないのだ。家にもどってからネットで調べたが、その堂の中にあったのは、薬師如来であり、日光菩薩月光菩薩であったということだけは分かった。しかしこれが何であるかを外国の人になんと言って説明すればいいのだろう。

▶釈迦が仏教の開祖であることは常識であるが、釈迦の時代にインドではこのような仏像はなかったはずである。釈迦がこのような仏像を作ったとも思えない。それでは現在日本にあるあまたの「仏様」とは一体何なのだろうかという素朴な疑問が、私をとらえて離さなくなった。仏教とは何なのか、いつ生まれて、どう発展してきたのか。インドに生まれ、中国から朝鮮、日本へと伝わってきた「大乗仏教」というのは、そもそも釈迦の教えと同じものなのか。仏教を知れば知るほど、知らないことが増えてくる。

▶私は「般若心教」を唱えることができる。そして毎朝「般若心教」を唱えている。きっかけは、母親と妻を相次いで喪ったからなのだが、「般若心教」そのものは、30年以上前に妹に先立たれたときに自然と覚えたものである。しかし正直言ってそれが何であるかは分からない。自分の言葉で説明できない。しかし分からないから面白い。私は現在「男おひとりさま」である。仕事も既に辞めているので時間はたっぷりある。であれば一つこの日本の仏教というものを調べてみるのも面白いかも知れないと思い始めた。うまくいけば究極のヒマつぶしになるかもしれない。それは私にとっては極めて都合がいいのだ・・・。