マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

斑鳩の法隆寺から唐招提寺、薬師寺へ行く・・・奈良編(3)・・・

 

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令和元年初冬の唐招提寺

▶令和元年の師走に、一人で京都から奈良に遊んだ。奈良では前日の夕方に奈良公園を散策し、今日の午前中は斑鳩法隆寺に行ったが、それについては既に書いた。

中宮寺弥勒菩薩をじっくり鑑賞したので、バスで法隆寺駅に戻ったのは昼近かった。JRで奈良駅まで戻り、駅前で軽く昼食をとって、バスで西ノ京の唐招提寺薬師寺に向かった。奈良交通のバスは、市内をゆっくりと抜けて行く。停留所で乗り降りする人は、観光客ではなく、圧倒的に地元の年寄りの方達だ。バスは、遠くに平城京旧跡を見ながらしばらく走り、メイン道路を右折して唐招提寺に入っていった。

唐招提寺前の停留所で降りたのは、私一人だった。早速拝観料を支払って中に入った。門を入るとすぐ目の前に金堂が見える。初冬ではあったが、まだ紅葉が少し残っており、昼下がりの日に映えて美しいが、なんといっても唐招提寺はその金堂の美しさが一番だろう。唐招提寺は言わずと知れた鑑真和上が、天平の時代に(759年)開かれた寺で、現在は律宗の総本山と説明書に書いてある。

▶鑑真は、遣唐使で海を渡った留学僧の栄叡と普照の求めに応じて、日本の仏教徒に戒律を授ける為に、日本に渡ることを決意し、自らの命を賭して10年の間に5回の渡航を試みたが、ことごとく失敗した。しかし、不屈の精神で(※文字通り、不屈の精神とはこのような時にこそ使うに相応しい言葉である・・)ついに6回目にして屋久島までたどり着くことに成功し、大宰府を経て奈良に到着したのは、天平勝宝6年(754年)のことだった。この間の経緯は、井上靖の「天平の甍」に詳しいが、まったくもって、偉大な精神を有する人物ではある。

唐招提寺金堂は、その時から現在に至るまで、変わらずここ西ノ京にあるのが素晴らしい。金堂正面の柱は、中ほどが僅かに膨れるエンタシスの構造になっており、法隆寺の柱と同じく、遠くギリシャの建築に見ることができる様式だ。この様式が、本当にギリシャから伝わったものなのか、あるいは偶然に一致する形になったのかはよく分からないが、奈良がシルクロードの終点であるとい言われる意味も少しわかったような気がしてくる。

▶金堂を抜けて御影堂に回ってみたが、こちらは現在修理中で参観することはかなわない。有名な鑑真和上座像はこの中に安置されているため見ることはできなかったが、金堂裏の開山堂に、お身代わりの像が安置されていて見ることができるので、そちらに行った。近づくにつれて読経の声が聞こえてくる。中を覗くと、10名近い僧侶が、狭いお堂の中で、お身代わりの像に向かっての法要の最中であった。僧侶の唱える読経の荘厳さと、目の前にある鑑真の姿に引き付けられて、その場にいられることの有難さを感じながら、私はしばらくそこに佇んでいた。

唐招提寺を出て、土塀や用水路に囲まれた鄙びた道を薬師寺に向かって歩いた。この道には時折バスが通るが、静かな道で、あちこちに古都の雰囲気が残っていてなかなか風情がある。大正時代や太平洋戦争前のあわただしい時期に、まだ舗装されていないこの道を、幾多の文人達が歩いたことがあるはずだが、それらを思いながら20分も歩くと、前方正面に薬師寺が見えてきた。

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改修中の薬師寺東塔

薬師寺は、古刹であるが、伽藍は基本的に新しい。天武天皇が妻(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、飛鳥藤原京に創建したのが680年と言われており、その後の平城京遷都に伴い、現在の西ノ京に移転したもので、それ以来現在の地にある。私が入場したのは北口からで、徒歩で入る参拝の順路としては一般的だが、どちらかと言えば裏口から入るイメージだ。入ると目の前に食堂で、そこを抜けると右手に講堂を望み、正面の回廊の中に塔が二つ見える。左が古い東塔で、右奥が西塔だ。

▶その東塔は、改修中であった。薬師寺は、創建以来幾多の火災で、多くの堂宇を焼失しており、奈良時代から続く建物で今に残っているのは、この東塔のみである。この塔を見た米国の美術研究家のフェノロサが「凍れる音楽」と評したという伝説がある。三重塔であるが、各層に裳階があるので、六重塔に見えるのが面白い。改修中なので周囲が塀で囲まれており、近づくことも難しく鑑賞するには困難が伴った。一方、新しい西塔は、天平時代の様相はかくばかりだったのか、と思わせる如く聳えており、これはこれで見ごたえがある。基本的なつくりは東塔と同じようだが、よく見ると細部に違いがある。

▶私は、50年近く前に修学旅行でこの薬師寺に来ているが、その時は西塔はなく、東塔のみが立っていた。高校生だった私たちを前にして、一人の若そうな坊さんが、少し高い台の上から薬師寺の説明を面白おかしく話してくれたのを懐かしく思い出す。が、その時の坊さんこそ、現在の薬師寺を再建した高田好胤師その人であったことに気が付いたのは、実は最近である。

高田好胤師は、昭和42年に薬師寺管主に就任されているから、私達が行った昭和45年には、若く見えたが既に管主だったことになる。当時の薬師寺の印象は、塔はあるが田舎の寺という印象しかなくて、現在の西塔の場所にあった水鉢に、東塔の水煙が映るおなじみの写真だけが有名だったし、私に残る記憶もその程度のものでしかない。

▶その後50年近く経過して、薬師寺は大きく変わった。高田好胤管主が、100万巻の写経勧進(※最終的には600万巻になったという)をてこにして、昭和52年に金堂、56年に西塔と次々に堂宇を再建し、その後、中門や玄奘三蔵伽藍なども整えて現在の薬師寺を再建させたのだ。現在の薬師寺は、講堂や食堂なども含めて、ほぼ創建当時の姿にもどっているといわれているから、この50年の間に成し遂げた業績たるや驚嘆に値するものである。

▶私は、修学旅行以来、薬師寺に興味を持つことはほとんどなかったから、この間の事情は全く知らなかったが、昭和56年に西塔が完成した時に、テレビで話題になったことだけは覚えている。その時特に印象的だったのが、この塔を実際にゼロから建てた宮大工の西岡常一棟梁の存在で、彼こそ薬師寺再建のもう一人の立役者である。

西岡常一は、法隆寺の宮大工の家系に生まれた伝説的な棟梁で、おそらく最後の宮大工と呼んでもおかしくない人である。西岡棟梁のことを書きだすとキリがなくなるので気が向いた時にまた書こうと思うが、この人がいなければ、また現在のような形での薬師寺再建ができなかったであろうことは、おそらく誰も異論はないだろう。現在再建のなった堂宇の前に説明書きの看板が立っているが、私は講堂前の看板に大工棟梁としての西岡常一の名前を見つけた時、彼の名誉がこのような形で保たれていることに対し、素直にとても嬉しかった。

薬師寺は、堂宇もさることながら、安置された仏像もこれまた超一級である。金堂の薬師如来、日光・月光両菩薩も素晴らしいものである。法隆寺の飛鳥仏と違い、時代が下るにつれて写実性が深まり、仏師の技術も向上したのかもしれないが、眺めていて飽きることがないと言うのはこのことだと思った。誰が作ったのかも分からないこれら仏像は、現在国宝に指定されているが、和辻哲郎が東洋美術の最高峰だというのも分かる気がする。

薬師如来の裏に回ると、台座を見ることができるようになっている。この台座に、ギリシャペルシャとインドと中国の文様がそれぞれに刻まれている。一つの台座に四つの国際的な様式の文様が刻まれている事実は、この奈良の地がシルクロードのまぎれもない終点であることを示しているようで、極めて興味深いものであった。

薬師寺の仏像では、東院堂の聖観音菩薩像を外すことはできないが、私が行った時は、先に見るものが沢山あったので、ついつい時間をとることなく通り過ぎてしまった。その時、堂内で修学旅行生を相手に若い坊さんが話をしていたので、相変わらず薬師寺は変わっていないなと微笑ましく思ったりしながら先を急いでしまった。しかし、この像は翌年じっくり見る機会があったので、これについては別に記すことにする。

▶令和元年は私にとって妻を亡くした痛恨の年であった。妻が亡くなって3ヶ月が経って京都から奈良を周遊したことをダラダラと書いたが、寺院と仏像を見ることで自らの悲嘆の感情に少なからず変化を見つけることができたのには救いがあった。だから私はこの後の令和2年になって、結果として更に2回も奈良を訪問することになるのである。