マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

久しぶりの外房ツーリング(その2)

▶勝浦の民宿に泊まる。昨夜は10時過ぎに床についたら、直ぐに寝入ってしまった。夜中に目覚めると、何故かくしゃみが止まらない。そのうち、鼻水も止まらなくなった。すっかり忘れていた花粉症の症状だ。そういえば、昨日の花粉の飛散量は多いと報道されていたような気がする。でも、私はここ数年は花粉症の症状からは無縁だったので、自分では治っていたと思っていたのだ。周囲の人達にも、「花粉症は年をとると次第に軽くなるんだよ、なぜなら抗体免疫反応が弱くなるから」と、知ったようなことを言っていたが、そうではなかったらしい。

▶従って朝起きると、寝不足気味だった。遅い朝食をとって午前9時過ぎに宿を出る。親切な女将さんから、出際に自家製の梅干をいただいた。今日は外房の名所をいくつか回って午後の早いうちに千葉まで戻る算段をする。最初は勝浦にある「海中公園」と「鵜原理想郷」に寄ってみる。

▶勝浦海中公園には、その昔、家族を連れて行ったことがあるが、果たしていつのことだったろうか。この時は、実際に海中公園を見学した。沖合に設置してある鉄製の円筒型の灯台のような建物を降りていくと、いつしか水面下に達して、そこから海中の様子が見学できるようになっていたが、水の透明度が高くなくて、景色はあまり美しくはなかった記憶がある。今回は、写真だけ撮って引き上げた。
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▶海中公園から128号線に戻る道の途中を左折すると、鵜原理想郷に着く。ここは、かつては理想的な景観を売りにしてこのようなネーミングにしているとのことだが、実際はプラゴミが散乱していて、理想的とは程遠い皮肉な場所となってしまっているのは残念である。ここも写真だけ撮って引き上げた。


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▶次は「おせんころがし」に行く。128号線を更に鴨川方面に南下すると、行川アイランドの跡地のすぐ先の海岸沿いにそれはあった。「おせんころがし」は、外房地域のいわくつきの難所である。房総半島の勝浦から先は、特に山が海に迫っていて、江戸時代までは、勝浦から鴨川方面に抜けるには、海岸沿いを歩くしかなかったようだ。したがって、当時の道は、太平洋の波に洗われる崖の上にしがみつくように作られていて、ここを歩く旅人にとっては危険極まりない場所だった。

▶「おせんころがし」の名前は、この地方の「おせん」という少女が、父親の身代わりとなって、この難所にある崖の上から村人たちによって投げ落とされた悲話に基づいているとのこと。私が訪ねた場所は、海面から4~50メートルはある断崖の上で、そこは当時の旧道が走っている場所だが、そこに「おせん」の慰霊碑があった。
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▶しかし、さらに恐ろしいのは、昭和27年に、ここで母子三人が殺されるという「おせんころがし殺人事件」が起こったことである。犯人の男は、この事件を含めて合計7人も殺人を犯して、昭和34年に死刑が執行されているが、本当に身の毛のよだつような話である。昼間だからいいようなものの、暗くなってからはとても近づけるような場所ではない。しかし、この慰霊碑のすぐ傍に不思議なことに一軒ホテルがある。現在休業中との看板が出ていたが、まあ、ここで商売になるとはとても思えませんよね。

▶現在の国道128号線は、明治以降に内陸部をトンネルで結ぶかたちで作られたから、この旧道は忘れられた存在となっているが、行川のトンネルを抜けたすぐ先に、この旧道につながる入り口がある。ここからは舗装されているが、車ですれ違うのは大変な道だ。しかし、バイクなら大丈夫な感じだ。実際に断崖の上を走る細い道から、まさに太平洋の絶景を眺めることができる。後ろを見ると、断崖の中腹に細い道が刻まれているのがよく見えるが、現在は通行できない。その先が先ほど見た「おせんころがし」の慰霊碑がある場所である。私は、この旧道を走って小湊の日蓮宗大本山の誕生寺まで抜けた。
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▶昼前、鴨川のマクドナルドでコーヒーを一杯飲んで、そのまま千葉の自宅まで帰った。着いたら午後2時過ぎだったが、さすがに疲れた。