マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

シルクロードと「敦煌」

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▶昭和34年、作家の井上靖は小説「敦煌」を発表した。昭和34年と言えば、今から60年以上も前の話になるので、この発表自体が既に歴史の一部となっているようなものだが、私はこの本を学生時代に文庫本で読んだ。その本は長らく私の前橋の実家に置いてあったが、一昨年、実家を片付ける際に処分した。実家には、私の買った本の外に、若くして亡くなった妹の読んだ本も残っていて、これらの本を断捨離することには躊躇する気持ちはあったが、思い切って処分した。

▶処分はしたものの、同じ本を再び読みたくなるというのは、実はよくある。仏教伝来とシルクロードに興味を持っていることについては、既にこのブログに書いているが、昨年から関連する本を手あたり次第に読み漁っているうちに、私は再び「敦煌」を読んでみたくなった。そして、今年の3月に再び新潮文庫敦煌」を買って読んだのだが、この本が私のシルクロードへの関心の原点となっていることを、改めて実感した。

シルクロードは、西安に始まり、約600キロ西方の蘭州で南から北に向かって流れる黄河にぶつかる。その黄河を西に渡るとそこはもう砂漠地帯で、「河西回廊」(※河とは黄河のこと)と呼ばれる地域に入るが、昔からここには、シルクロードに沿って河西四郡と呼ばれる代表的な四つのオアシス都市が点在している。それぞれ東から順に、武威・張掖・酒泉・敦煌であり、現在では中国の甘粛省に属している。

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敦煌は、河西回廊の最も西に位置するオアシス都市で、中国から見た場合、ここから先を「西域」と呼び、現在は中国の新疆ウィグル自治区に位置づけられている。一方この地域は、世界史的にみると(現在の中国領を含め)東トルキスタンと呼ばれている。シルクロード敦煌において北ルート(天山北路・天山南路)と南ルート(西域南道)に分かれることから、敦煌は交通の要衝であり、また中国の西域経営の西の拠点でもあった。西域に点在するオアシス都市国家をめぐって、月氏匈奴遊牧民族と、漢や唐の中国政権が支配権を争った長い歴史があり、それがシルクロードを巡る物語を複雑なものにしているのだ。

▶漢代には、敦煌の西に二つの関所が置かれた。(※一説には、ここが万里の長城の西の端だったというから、気が遠くなるような話ではある・・)北を玉門関、南を陽関と言った。唐の王維の七言絶句に、「君に勧む、さらに尽くせ一杯の酒、西の方、陽関を出ずれば故人なからん」という一節があるが、確かにここから先は、誰も知っている人のいない、まさに不毛の砂漠地帯であったのだ。

シルクロードにおいて敦煌が名高いのは、莫高窟(ばっこうくつ)と呼ばれる仏教遺跡があるからで、私の関心も、むろんそこにある。莫高窟は、別名「千仏洞」と呼ばれており、紀元4世紀頃から約千年の間、ここ敦煌近郊の鳴沙山の崖に、次々と石窟(仏教寺院)が穿たれたが、現在分かっているのは492窟のみである。NHKシルクロード特集では、これまで何度か莫高窟が紹介されているので、既に目にされた人も多いと思うが、それぞれの石窟に描かれた壁画や仏像の様式が、時代の変遷とともに変化していく様が面白く、それがまた仏教が西から東に伝承されていくことの証左となっていることが、たまらなく興味をそそる。

▶さて、今から120年以上前の清朝末期の話だが、この莫高窟の石窟の一つに王円籙という道教の坊さんが住んでいた。1899年のある日、アヘンを吸うための火種の線香を、壁の割れ目に差し込んでおいた王円籙は、煙が壁の内部に吸い込まれていくのを見て、壁の中に空洞があることを発見する。驚くなかれ、その空洞(部屋)には、天井に届くほどの古文書がぎっしりと詰まっていたのだ。王が住んでいたのは、現在の第16窟で、発見されたのはその耳洞である現在の第17窟である。

▶事情が分からない王(※実は字が読めなかった)は、とりあえずその事実を敦煌の役所に届けたが、なにせ当時は清朝末期の混乱の時代だったから、役所からはそのまま保存しておけという以上の指示はなかったようだ。清朝末期は、列国が中国を食い物にしようとしていた時期であり、ヨーロッパや日本から中央アジア方面に数次に亘って探検隊が派遣された時期に重なる。1907年、イギリスの探検家のスタインがこの噂を聞きつけて敦煌にやってくる。そして、価値の分からない王円籙から、わずかな金額で29箱にもおよぶ古文書を買取り、それをロンドンに送った。

▶次いで、翌年、フランス人のポール・ペリオという東洋学者が敦煌に現れる。大学者のペリオは古文書の中身(漢文・サンスクリットチベット語)を読むことができたので、スタインが残した文書の中から選りすぐりの6000点を王円籙から買い取り、これをパリに送った。ここに至って清朝政府が動き出すが、時既に遅し。しかし、その時まだ8000点以上の文書が残っていたので、敦煌県の知事が集めてこれを北京に送った。これで全て終わったはずだが、実は王円籙は1912年に、日本の大谷探検隊に500巻近い写本を売っているというから、字を読めない道教の坊さんも、相当にしたたかだ。

▶思うに、当時の欧米列国や日本は、中国に対してやりたい放題だったことがよく分かりますね。例えば、敦煌の第320窟にある最も美しいと言われる盛唐時代の壁画の一部は、四角く無残に切り取られているが、これらは1924年に来たアメリカの調査団によって盗まれたことが分かっており、現物はハーバード大学フォッグ博物館に保存されているというから呆れる。NHKシルクロード特集では、やむを得ずその画像をもとの壁画に合成して放映していたが、全く酷い話ではある。

▶ところで、この膨大な古文書は「敦煌文書」と呼ばれ、イギリス・フランス・日本・中国の学者がよってたかって分析・整理し、幾多の世界史的発見がなされ、ここから「敦煌学」という言葉まで生まれた。しかし、100年経っても未だ全ての作業が終了していないというから、「敦煌文書」が、いかに貴重で膨大なものだったか分かろうというもの。

井上靖は、この「敦煌文書」の発見に想を得て、小説「敦煌」を書いた。文書は、誰が、いつ、どんな目的で隠したのか・・・。井上は、11世紀中頃の北宋の時代に、敦煌を含む河西回廊一帯が、チベット系の遊牧民族である西夏の手に落ちた混乱時に、この文書が隠されたと推理した。それを土台に置いて、シルクロードを舞台にした一大ロマンを書き上げたのだが、この面白さは、このようなシルクロードの歴史をある程度知ってから読むと、更に深まることになるのは言うまでもない。

▶物語は、科挙の試験に失敗した主人公の趙行徳が、開封の町の市場で全裸の西夏人の女が売りに出されている現場に遭遇するところから始まる。女を助けたことがきっかけとなって、趙行徳は西域へ行くことを決めるが、その後数奇な運命の果てに、当時漢人が治めていた敦煌にたどり着く。そして、そこに西夏の大軍が攻めてくるのだが、それと敦煌文書との関係は・・・ネタバレになるので、あとは読んでのお楽しみ。

▶1998年、この小説は、日中合作で映画化された。主演は、佐藤浩一と西田敏行で、私はビデオで見たが、高い城壁から身を投げるウィグル人の王女(当然、美女です。しかし、彼女は敦煌文書とは全く関係がありません)が印象的で、このシーンは宣伝映像にも多く使われたので、あるいは覚えている人も多いかもしれない。この美女の登場のさせ方がいかにも井上靖的で、要するにそれがシルクロードのロマンにつながるもとにもなっているのがミソ。

井上靖の小説には、西域物の他にも色々ある。今年の正月明けには、江戸時代に漂流してカムチャッカに流れ着いた大黒屋光太夫の史実をもとにした「おろしや国酔夢譚」を読み、「敦煌」を読んだ後は、飛鳥時代を題材にした「額田王」を読んだ。いずれも歴史物だが、大変面白かったので、お暇のある方は是非どうぞ。