マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

イエスの復活に思う

▶子供の頃、日本基督教団の前橋教会に通っていたことがある。当時は昭和30年代の後半で、私はまだ小学2~3年生だった。母の実家は、篤実な浄土真宗の檀家であったが、どういった訳か、まず母の妹(叔母)が入信し、次いで年の離れた弟(叔父)が、洗礼を受けてキリスト教徒になった。親鸞に帰依していたはずの母の実家だったが、不思議なことにキリスト教には寛容で、母を通じて私もまず教会が運営する日曜学校に行くことを勧められた。

▶子供が毎週日曜に教会に行くためには何らかの動機付けが必要だが、私にとっては、当時高校生だった若かった叔父(※私は「あんちゃん」と呼んでいた)や、年の近い母の実家の従兄たちと、日曜学校が終わったあと近くの前橋公園で遊べることが、唯一の楽しみだったような気がする。従って、通ったのは実質2~3年だったが、よくしたもので、今でもキリスト教に対する興味だけは続いている。

▶私が好きだった叔父は、20年近く難病に苦しんだ末、今から3年程前に亡くなったが、その時は、元気だった妻と一緒にお別れのミサに参列した。その席上、突然流れてきた讃美歌312番の「いつくしみ深き友なるイエスは、罪科(つみとが)憂いを取り去りたもう・・・」と歌っているうちに、イエスが本当に叔父の苦しみを救ってくれた気がして、涙が止まらなくて歌えなくなった。私はこの讃美歌のことをよく覚えていた・・。

キリスト教が成立したのは、今から約2000年前の一世紀の中頃と言われている。先日は、本棚の隅にあったキリスト教学者の赤司道雄氏の「聖書」(中公新書)を引っ張り出して、全く久しぶりに読んだが、読み終わって実に目からウロコが落ちる気分を味わった。

▶紀元一世紀のローマ支配下にあったユダヤ人社会において、ナザレのイエスと呼ばれる人が歴史上存在した(ようだ)。そのこと自体は、間違いなさそうであるが、残念ながら新約聖書以外でイエスの事蹟を明確に記載した歴史的文献(死海文書を含む)は発見されていないので、実証はされていない。新約聖書によれば、イエスエルサレムに近いベツレヘムで大工のヨハネの子(但し、母マリアは精霊によって身籠った)として生まれているが、育ったのはエルサレムから百数十キロメートルも離れたナザレという北方の町で、当時イエスはナザレの人と呼ばれた。成人になったイエスは、30歳頃に宗教活動を開始したが、結果的にその活動期間は1年半から3年程度と極めて短かった。活動はもっぱら北部地域において行われており、当時ユダヤ教の中心地であったエルサレムから離れていたので、ローマ時代の歴史家の目には止まらなかったことから、文献が残っていないようだ。イエスエルサレムに入ったのは、十字架に架かるわずか一週間前のことである。

▶イエスの実際の宗教活動の期間は、世界的な宗教の開祖としては極めて短く、これを知って私は大変驚いた。仏教の開祖でシャーキャ族の王子であった釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、29歳で出家し、35歳で成道し(覚りを得る)、その後80歳で亡くなるまで北インド地方を中心に宗教活動を展開した。その事蹟は多くの経典に書かれているが、歴史家や学者で釈迦(ゴータマ)の実在を疑う人はいない。(但し、釈迦の生年については諸説あって確定されていないようだ。)

▶イエスが十字架にかけられたのが西暦30年前後で、直弟子であったペテロやパウロなどの活動によって、キリスト教地中海世界で成立するのが20~30年後の一世紀中頃である。新約聖書に示されている肉体を持ったイエスの「復活」は、この間に起こったとされているが、それはあくまでも宗教的事実であって、生物学的事実とは異なることは言うまでもない。但し、復活という宗教的事実が一世紀中頃には広く地中海世界に行き渡っていたことを考えると、それは歴史的事実と言ってもいいかも知れない。大事なことは、イエスの復活はキリスト教の一部であって、復活がない限り、キリスト教も成立していないと言うことだ。

新約聖書には、四つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)がある。福音書とは、神の国が来るという良き知らせ(音信)を著したもので、良き知らせを福音と訳したものである。まず、マルコによる福音書が最初に書かれたと言われている。この福音書は、原マルコとも呼ぶべき資料に基づいて書かれたことが分かっているが、その資料は、次にマタイとルカが福音書を書く際にも使われている。マタイによる福音書には「ユダヤ人社会」において、イエスがメシアであることを正当化する志向がみえるという特徴があり、それが証拠に福音書の最初にイエス系図を示し、その一番最初に記載されているのがユダヤ民族の祖であるアブラハムである。

▶一方、ルカによる福音書は、一貫してヘレニズム的(※私の言葉で言えばキレイ事が多い)であり、ルカが想定している読者はユダヤ人社会ではなく、さらに広い世界の人を念頭に置いているようだ。そして、更に数十年経って最後に書かれたと言われるヨハネによる福音書は、極めて神学的な文書であって、その書き出しは、有名な「初めに言葉(ロゴス)があった。言葉は神と共にあった・・・」であり、旧約聖書の創世記を参考にしているが、それよりはるかに難しい。

福音書にはイエスの復活が書かれているが、復活した不滅のイエスのその後については書かれていない。私は、イエスを復活させたのは、イエスがキリスト(救い主)であることに(改めて)気づいた直弟子達だ、と思っている。その弟子達は、イエスがローマの官憲に捕まってからは、イエスを否定して一度は逃げるのである。一番弟子のペテロでさえ、官憲からイエスのことを知っているかと問われて、「知らない」と三度答えるのである。しかし、その後は彼らは気づいたのだ。イエスが本当にキリストであるということを・・・。それがイエスが復活に向かう瞬間だったのではないか。

▶弟子達は、十字架に架かったイエスを復活させる必要があった。キリスト教は、ナザレの人であったイエスを本当のメシア(救い主)として信じる宗教である。だから復活を信じることが信仰の証となり、復活したイエスは信者の心の中に生き続ける。そして、それは紛れもない宗教的な事実に発展していく。逆説的だが、イエスの死後、極めて短期間に地中海世界キリスト教が受け入れられていったという事実が、イエスの復活の宗教的事実を証明していると言えるだろう。

▶ところで、イエスも釈迦も、自分で書いたものは残していない。釈迦の教えは膨大な経典に記述されているが、その多くは「如是我聞」・・このように(弟子である)私は聞いた・・という文言で始まっている。新約聖書にはイエスの事蹟が記されているが、書かれている内容は福音書によって異なっており、それは各福音書が後代のイエスの弟子たちによる伝道を目的とした為の書であるからである。

キリスト教は、実は「パウロ教」だと唱える人がいるそうだ。新約聖書の書かれたことの多くは、パウロの思想が反映されているからだとのことだが、当たらずとも遠からずというべきか。そうだとすれば、大乗仏教における龍樹(ナーガールジュナ)や世親(ヴァスパンドゥー)と同じ位置づけになるのかも知れないが、これはこれで興味深い。但し、本日のブログのテーマからは外れるので、今日はやめておこう。



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▶昨日は、妻の誕生日だった。生きていれば〇〇歳だ。今日は午前中は雨が上がっていたので、花を買って墓参りに出かけた。墓に着くと、墓前には既に美しい生花が供えてあった。どなたか、妻の誕生日を知る人が、雨模様の中、昨日墓参りに来てくれたようだ。感謝してもしきれない。私が持参した花をそのまま供えると、墓前は更に豪華になった。妻の存在は、昨日墓参に来てくれた人の中にも、間違いなく生きづいているはずだ。私はそのことを改めて知り、少し福音をもらった気がして、嬉しくなって帰ってきた。