マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

アフガニスタンのラピスラズリ


f:id:Mitreya:20210831140310j:image
▶8月30日、アフガニスタンからのアメリカ軍撤退が、期限まで1日を残して完了した。アメリカがアフガン戦争を始めたのは、2001年9月11日のアル・カイダによる同時多発テロに対する報復がきっかけである。それから20年の長きにわたり、アメリカ史上最長の戦争が続いたが、結局は対戦相手であるタリバンに屈した形となって戦争は終わった。

▶さて、同時テロを引き起こしたのは、アル・カイダであって、タリバンではない。当時アメリカは、テロの首謀者であるアル・カイダオサマ・ビン・ラディンの引き渡しをアフガンのタリバン政権に要求したものの断られた為、頭に血が上ったブッシュがアフガン攻撃を始めたのが、そもそもの発端である。従って、アメリカの戦争目的は、アル・カイダつぶしであり、タリバンを攻撃したのは、二次的な目的のはずだった。

▶2011年5月、同時テロ首謀者のビン・ラディンは、オバマ政権時のアメリカ軍によって殺され、アル・カイダの組織そのものも弱体化した。その時をもってアメリカの戦争目的は一旦は達成されたはずだが、アメリカは、その後もアフガン民主政権への支援の名のもとに、ズルズルと反政府組織タリバンへの攻撃を継続した。戦争目的を見失ったアメリカにとっては、撤退に代わる選択肢は残されていなかったというべきだろう。

▶太平洋戦争終了後の連合国による占領を除けば、外国による支配を受けたことのない日本から見ると、アフガニスタン(※この地域に居住する民族)とは、想像を絶する国である。紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアに編入され、前4世紀にマケドニアアレクサンダー大王による遠征をきっかけに北部にギリシア人が入ってきて、その後は北方遊牧民月氏や隣国のペルシア人によって支配された。8世紀以降は、イスラム帝国モンゴル帝国、トルコ系ティムール王朝による絶対的支配を忍従し、18世紀の初めにようやく土着民族であるパシュトゥーン人によるアフガン王家が成立した。しかし、19世紀の末に帝国主義イギリスとの戦争に敗れてイギリスの保護国となった。

▶20世紀(1919年)になってようやくイギリスの支配を離れ、王制のアフガニスタン王国が成立するも、1973年にはクーデターにより共和制となった。その後社会主義政権に移行するが、内戦が勃発し、1979年以降のソ連によるアフガニスタン侵攻につながった。ここら辺までくると、私にもやっとなじみが出てくるが(※そう言えば1980年のモスクワ五輪は、アメリカの要請を断れず日本はボイコットしましたよね・・)、とにかく簡単に言えば、アフガニスタンは凄まじい歴史をもった国である、ということだ。

▶私が現在このようにアフガニスタンについて書いているのは、実は、アフガニスタンが「シルクロード」を語る上で、切っても切り離せないほど深くつながっているからだ。古代シルクロードは、パミール高原より西方は、大きく三つに分かれ、最終的にシリアを経由してローマまでつながっていたことが分かっている。最も北の道は、サマルカンド、ブハラを経てカスピ海の北側を通る道、中央の道はアフガニスタン北部を通って、そのままカスピ海南端のテヘラン(イラン北部)に向かう道、そして最も南の道は、カブール、カンダハルを経てイラン南部(旧ペルセポリス)につながる道であった。

▶これらの道を使って交易がなされたが、古代インドに発生した原始仏教は、この道を通って西と東に伝播した。仏教は釈迦(ゴータマ・シッダールタ)によって東インドで開祖され、次第に西遷して紀元前後にパキスタンアフガニスタンにまたがるガンダーラ地方に到達し、ここにおいて初めて仏像が作られることになった。この地方は、ギリシアの影響が強かったことから、初期の仏像はギリシア色の濃い造形となっている。
f:id:Mitreya:20210831141245j:image

▶つまり、アフガニスタンパキスタンを含む)は、現代につながる仏像の発生地とも言える訳で、仏教の伝来を深く知ればしるほど、アフガニスタンとの結びつきは強まるのである。有名なバーミヤンの石窟と大仏は、現在のアフガニスタンの首都であるカブールから西方に100数十キロ離れた所に位置しており、何世紀にもわたってシルクロードを旅する人々見守ってきたが、残念ながら2001年に偶像を嫌うタリバンによって無残にも破壊されてしまったことは記憶に新しい。

アフガニスタンを知る上で、最近もう一つ新しい知識を得た。私がNHKの文化講座「シルクロード物語」を聴講していることは、このブログにも既に書いているが、先々週の金曜日の講座で、ソグド人によるラピスラズリの交易について知る機会があった。ソグド人は、古代から8世紀頃までシルクロード交易の主役を務めた民族のことだが(※NHKの番組では「消えた隊商の民」として紹介されている)、そのソグド人が、ラピスラズリの生産と販売にも大きく関わっていたのではないかということが、最近分かってきたのだという。

ラピスラズリとは、日本名で瑠璃とも言われる濃い青色の貴石で、これを原料とした青色顔料をウルトラマリンと称して、古くから絵画や工芸に使われてきた。例えば、ツタンカーメンの黄金のマスクに使われている青色や、フェルメールの絵画に多く使われる青色はラピスラズリである。また、ラピスラズリ製の工芸品は、正倉院の御物や中尊寺金色堂などにも使われている。

▶そのラピスラズリは、現在ではいくつかの鉱山から採掘されるが、少なくとも古代から中世にかけて使われたラピスラズリの生産地は、唯一アフガニスタンである。アフガニスタン中央部に東西に走るヒンズークシ山脈の北麓(バダフシャン地方)に、北に向かって流れるコクチャ川という川があり、その源流域にあるサレ・サン鉱山からラピスラズリが採掘され、もちろん現在も採掘されている。

▶コクチャ川は、北に流れてアムダリア川に合流するが、このアムダリアと更に北を流れるシルダリアに挟まれた土地をソグディアナと称し、古代からここにソグド人が住んでいた。ソグド人が絹織物の交易に深く関係していたことは、法隆寺の「四騎獅子狩文錦」の古代錦のことにも書いたが、彼らは絹だけでなく玉や鉱物、貴石も商っていたのだ。

▶イラン西部のスーサという町の遺跡から発掘された遺物の中に古代の碑文があり、それには、紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシアのダレイオス一世が建てた宮殿の建設に関す事柄が含まれていることが分かっている。しかもそこには、「ここで加工されたラピスラズリとカーネリアン(紅石、インドのグジャラート産)は、ソグディアナから運ばれた」との記述がある。最近分かってきたことから、ソグド人はラピスラズリを運んで販売するだけでなく、鉱山の採掘にも関わっていたのではないかと思われている。

▶講師の中村先生は、ソグド人が絹だけでなく、アフガニスタンラピスラズリの生産・販売にも古くから関わっていて、その結果としてエジプトやヨーロッパや中国、日本にまで、それが伝わって来ているというのは、極めて面白いと力説しておられた。私もそう思う。ちなみに、2019年、アフガニスタンで現地の何者かの理不尽な銃弾によって倒れられた中村哲医師が、自らの人生をかけて取り組まれた灌漑用水の開拓事業は、南東部を流れるクナール川の流域で行われていたが、このクナール川を遡るとヒンズークシ山脈に突き当たり、その山を越えた先にサレ・サンのラピスラズリ鉱山がある。


f:id:Mitreya:20210831140407j:image
▶さて、ラピスラズリのことをネットで調べていたら、アフガニスタン産の原石が販売されていることを知った。ラピスラズリの原石は、ソ連がアフガンに侵攻した後に乱獲されて市場への放出量が一時的に増えて、価格が下落したという。その後、タリバンが採掘現場を押さえて現在に至っているというが、本当のところはよく分からない。私はネットでその原石を見ていたら急に欲しくなって、思わず買ってしまった。現在手元にあるのがそれだが、かつてソグド人が採掘し、現在またタリバンが採掘に関わっているとされるサレ・サンのラピスラズリが、こうして私の手の上に乗っているというのも、現地に気楽に行ける状況ではない現在では、感慨深いものがあり、掌でそれを握りしめながら、シルクロードの本を読む毎日である。