マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

持統天皇とその時代

▶先日、NHKBS番組「英雄たちの選択」を見ていたら持統天皇が取り上げられていた。女性である持統天皇が何故英雄だったのかはさておくとしても、最近は、秋篠宮真子様の結婚問題がゴシップとしてメディアを賑わしたり、天皇家の長女である愛子内親王が成年皇族になられたりと、何かと皇室をめぐる話題に事欠かない。私は週刊誌を買って読むことはないが、新聞の週刊誌広告を眺めていると、毎週途切れることなく皇室ネタが掲載されているのは、ある意味驚きである。それだけ受け手である大衆側に情報ニーズがあるということなのだろうが、話題のほとんどが女性を中心に組み立てられていることが、いかにも現代の世相を反映しているようで面白い。
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持統天皇と言えば、百人一首の「春過ぎて夏きにけらし白妙の衣乾すてふ天の香久山」の歌を思い出す。この歌は、万葉集持統天皇御製の歌として載っているが、こちらは「春過ぎて夏来たるらし白𣑥の衣乾したり天の香久山」となっており、藤原定家鎌倉時代初期に編纂したとされる百人一首と僅かに趣きが異なっている。「夏来にけらし」は夏がきたらしいという意味で「夏来たるらし」と同意だが、前者は新古今調で優美な感じがある。

▶違っているのは「衣乾すてふ」と「衣乾したり」で、前者は「衣を乾すという」と間接的に香久山を表現しているのに対し、万葉集の「衣乾したり」は目の前にある情景として断定している。以上は白洲正子「私の百人一首」にある解説だが、彼女は持統天皇藤原京から指呼の距離にある香久山を直接見て歌った気持ちがよく出ているとして、万葉集の歌に軍配を上げている。私も、優美で技巧的な新古今調の百人一首より、万葉集の原歌の方が、大らかで雄渾な感じがあって好きだ。

持統天皇は、飛鳥時代の645年に天智天皇の皇女(母は蘇我氏の娘)として生まれ、後に天智天皇の同母弟つまり叔父の天武天皇大海人皇子)の皇后となり、天武天皇が亡くなったあと、第41代の天皇として即位した女性である。飛鳥時代は、日本が中国を中心とした東アジア世界の秩序に初めてどっぷりと取り込まれた国際化の時代(※遣隋使や遣唐使白村江の戦いがあった)であり、聖徳太子天智天皇天武天皇、そして持統天皇によって、天皇中心の律令体制という日本の国家体制が実質的に完成した時代でもある。

▶我が国では、これまで8人の女性が天皇に即位している。女性天皇として有名なのは、飛鳥時代初期の593年に初めて女性として即位した推古天皇がある。この時は聖徳太子蘇我馬子が側近として政治の実権を握っており、推古天皇自身の事蹟として後世に伝わるものは、殆どないと言っていい。その後に即位している女性天皇も、持統天皇を除けば似たようなもので、いずれのケースも政治の実権は有力な豪族や貴族、あるいは幕府など別のところにあった。

女性天皇に限らず、飛鳥以前は大王(天皇)中心の政治体制とはいえ、実質有力豪族(蘇我氏物部氏等)による集団指導体制と言ってよかったが、645年の乙巳(いっし)の変(※昔は大化の改新と言った)以降の天智天皇、672年の壬申の乱以降の天武天皇の時代を通じて、大王(天皇)を中心とした中央集権体制が大幅に強化され、最後の段階において、天武天皇亡きあと、その皇后が持統天皇として即位した。天皇という呼称もこの時代に定まった。持統が女性として敢えて天皇に即位した事情は「英雄たちの選択」にも詳しく語られているが、母親としての側面、そして政治家としての側面からの評価があり、極めて興味深い。

▶天武には持統以外の妻との間にも多くの子があり、皇太子を誰にするかについては多くの選択肢があったはずだが、持統皇后にとっては、天武との間に生まれた皇子は草壁皇子一人であり、彼女が草壁を皇太子にしたかったことは間違いない。通説では草壁は皇太子となったということだが、実は立太子されていないという説も依然して残っている。しかし、いずれにせよ草壁皇子天武天皇が亡くなってすぐに自らも亡くなってしまい、天皇に就くことはなかった。そこで、持統は、草壁の子である軽皇子(持統の孫)に皇位を継がせるべく、軽皇子(※後の文武天皇)が成年に達するまでは自らが天皇となることを決断する。

▶興味深いのは、持統が、天武天皇と自らの間に生まれた草壁皇子(⇒軽皇子)の血脈を残そうとしているように見えて、実は自らの血脈としての孫の軽皇子を残そうとしているように私には見えることだ。しかも持統には自らの政治的野心を実現したいとの強い思いもあり、それが他の女性天皇とは際立った違いとなっている。実際のところ、孫の軽皇子天皇に即位するまでの中継ぎとして持統の即位を説明するにはいささか不十分と言わざるを得ず、その政治的事蹟は、飛鳥浄御原令の実施、藤原京の造営、大宝律令の制定を通じて律令体制を完成させるなど、天皇中心の国家体制を彼女自身が完成させたと言われるにふさわしい事蹟の連続である。それまで中国から「倭」と呼ばれていたのを改めさせ、新たに「日本」という国号を定めたのも彼女である。NHKBSの番組「英雄たちの選択」が、持統天皇を革新者として描こうとしているのもここに理由がある。

▶そしてもう一つ。NHKでは報道されなかったが、持統天皇には際立った特徴がある。日本書紀は、持統天皇が亡くなって間もなく成立した日本の「正史」だが、実質的な編纂の開始時期は天武朝もしくは持統朝と言われている。どこの国でも「正史」と呼ばれるものは、それを編纂した時の政権の影響を極めて強く受けるものだが、持統天皇にとって、日本書紀こそは自らの即位と血脈の正当性を裏付ける証となっているように思えてならない。

日本書紀(および古事記)は、天皇家が神代の時代から続く家系であることを中心軸に編纂されている。神話では、天照大神(アマテラス)の孫が、日向の国の高天原に降りてくるところから日本の国が始まることになっており、これを天孫降臨と称している。万世一系という時の天皇制は男系が前提となっているが、日本の国は、女性である天照大神が原点であり、実際はその孫である天皇家の祖先が統治を始めたのだと、少なくとも日本書紀ではそうなっている。

持統天皇は、自らの即位にあたって、前代まであった群臣の協議・推戴による天皇即位といった儀式を取りやめさせ、自らを神に見立てて、天つ神に対する寿詞を唱えさせ、柏手を打たせたと日本書紀に書かれている。ここにおいて、持統は神と同格になっており、これは当時においては全く新しい天皇即位の形式であり、ここに持統天皇の政治的意思をみることができる。

▶さらに日本書紀では、高天原という記述があるのは、冒頭の天孫降臨を記述した場面と、もう一つは、持統天皇の諡である「高天原廣野姫天皇」の二か所のみであるというのも極めて興味深い事実だ。伊勢神宮式年遷宮を始めたのも、持統天皇だとの説もある。日本書紀は誰の意志によって書かれ、一体誰が天孫降臨神話を作り上げたのか、誰にとってこの神話は好都合だったのか、と考えだすと妄想が止まらない。

日本書紀の編纂が進んでいた時代は、持統天皇以降も女性が多く即位しており、しかも持統の孫の文武天皇は、父である草壁皇子と同じく若くして亡くなっている。これはおそらく近親結婚の弊害だろう。文武天皇の後継は、母であって草壁皇子の妻であった元明天皇天智天皇の皇女であって、持統の異母妹)が即位した。そして彼女は、文武の子であり自らの孫である首皇子を即位させるべく動く。そして妹であった元正天皇(※この女性は結婚していない)を経由して、見事に首皇子天皇に即位させた。大仏開眼で有名な聖武天皇である。女性天皇が孫に即位させるというのは、この時代の特徴かも知れないが、そういう時代背景の中で天孫降臨日本書紀が成立したのである。

▶昨年の暮れ、私は奈良に遊んだ。妻を亡くしてからの短期間で三度目である。12月2日の夕方、大和三山の一つである天の香久山に登った。翌日は明日香村の古墳や史跡を自転車で巡った。いずれの史跡も興味深かったが、近鉄明日香駅からそう遠くないところにある一つの古墳は、今回の話と関連がある。それは宮内庁によって天武天皇陵と持統天皇陵に比定されている古墳である。
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▶古代天皇の陵墓は比定するのが難しいらしいが、この陵墓はほぼ間違いなく天武・持統天皇陵であるようだ。持統天皇は、夫である天武が埋葬されている墓に、並んで埋葬されたということだが、天武と異なり天皇として初めて火葬され骨壺に入れられて埋葬されたことがわかっている。残念なことにその後の盗掘により、彼女の骨は近隣の地に撒かれて消失してしまったという。

▶明日香村に行った翌日、すなわち奈良旅行の最終日の朝、私は飛鳥藤原京の跡に行った。ここは現在も調査と旧跡の整備が続けられているところで、近くに奈良文化財研究所がある。藤原京跡の大極殿の跡には、その位置を示すために沢山の朱塗りの柱が立っている。そこに立つと、かつて持統天皇が見たのと変わらぬ大和三山(香久山、耳成山畝傍山)の景色が広がっている。

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▶同じ古都とは言っても、京都とは違う奈良の趣がそこには感じられた。近くの道端に香久山を背景にして一枚の歌碑が立っている。そこには持統天皇御製の「春過ぎて夏来たるらし白𣑥の衣乾したり天の香久山」の歌が記してあった・・・。
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