マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

桜散る、そして神戸・・・


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▶昨日は4月1日で、既に関東以西では桜が満開となった。コロナにもめげず全国各地では入社式が開かれたとの報道があり、多くの新入社員諸君が、きっと将来の希望に胸を膨らませたことだろう。ここのところ曇り空が多かったが、今朝は朝から陽が差して気持ちがいいので、手早く掃除・洗濯を済ませ、庭に芽吹いたカエデの枝を眺めながらインスタントコーヒーを入れて飲んでいたら、ふいに昔のことを思い出した。斯く云う私も、今から45年前「めでたく」大学を卒業し、当時神戸に本社があった会社に就職したのだ。

▶あえてカギ括弧をつけたのは、本当にめでたかったからで、大学の卒業試験は意外にも難しく、卒業単位が足りないのではないかと最後までヒヤヒヤした。それが冗談ではない証拠に、つい最近まで、単位不足で卒業できない寝起きの悪い夢をよく見ている。しかし、自業自得とはこういうことだろう。なにせ、原因の一つは、当時からつきあっていた亡くなった妻にもあったからだ。

▶それはさておき、私達91人の新入社員は、昭和52年3月31日に神戸の住吉にあった会社の寮に集められた。その寮は、JR住吉駅の北口を出て大阪よりに少し戻ったところを流れる住吉川の川沿いにあって、私は満開の桜の下を寮まで歩いて行った。上州生まれの上州育ちの私にとっては、神戸は生まれて初めての経験だったが、これは確かに高校時代に読んだ谷崎潤一郎の「細雪」の世界にまちがいない、と思ったものだ。

▶寮の部屋は、8畳くらいの畳敷きの二人部屋で、同室はM君だった。私達は、ここから阪神春日野道にあった会社の本社に、新入社員研修のために一ヶ月間通った。研修ではご多聞にもれず多くの新入社員が寝てばかりいるので、研修担当の課長さんからはこっぴどく叱られたが、私を含めほとんどが馬耳東風だった。午後5時に研修が終わると、皆脱兎のごとく住吉まで帰ると言いたいところだが、実は真っすぐ帰る奴は殆どいなかった。それはそうだろう。

▶当時、4月分の給与は5月に支給されることになっており、当然寮費は後払いだったが、それなりの金をもって来ている者は殆どいない。しかし会社もよくしたもので、給料の前払いはできないが、希望するものには資金を無利子融資してくれるという。そこで、ほぼ全員が融資を受けた。また、研修中にバスで工場見学などするのだが、その日にはなんと出張日当まで支給された。ということで、懐具合がよくなった私達は、研修が終わると、三宮の街で飲んで帰るのが日課となった。

▶三々五々、グループを作って三宮の街を飲み歩き、寮に戻ってから報告会を開いた。当時よく行ったのが「ミュンヘン大使館」という名のビア・レストランで、最初に名前を聞いた時は、本当にドイツの大使館だと思った輩もいた。今回調べてみたら、なんとこの店は現在も残っており、サッポロビール系のレストランとして多店舗展開している。私達が行った店は、おそらく「神戸大使館」として現在ある店ではないだろうかと思うのだが、機会あれば是非行ってみたいところだ。

▶さて、一ヶ月の研修が終わると、私達は配属先の辞令をもらい、西と東に散っていくことになる。配属先は個人の希望は考慮するが、原則会社都合ということで、4月末に住吉寮の玄関脇に張り出された。その日も私達は三宮で酒を飲んで、住吉駅を降りて寮に戻っていったが、それぞれ自分の配属先がどこになるか心配で、心ここにあらずの心境だった。幸いなことに私の場合は希望が通って千葉工場の配属となったが、希望が通らなかった者は、その晩は大荒れで大変だった。

▶それでも、翌日は全員が荷物をまとめて、それぞれの配属地に向けて旅立っていったが、その時以来、私は住吉寮には行っていない。思えば45年前の4月に神戸で過ごした一カ月は夢のようだった。その後私は、千葉で結婚し、稲毛区園生にあった社宅で所帯を持った。すぐに長男を授かったが、昭和54年に、今度は妻と長男を連れて再び神戸に赴任することになる。住んだのは、夙川に近い芦屋市南宮町にあった社宅である。

▶その後阪神間には足掛け5年住んだが、楽しい良い思い出しか残っていない。海や山が近くハイキングにはことかかなかったし(なにせ、社宅から歩いて六甲山登山ができた)、甲子園球場西宮球場も近く、大阪や京都にも遊びに出るのはいたって便利だった。何より私も妻も若かった。長女が生まれる前は、妻に切迫流産の危険が迫り、私は仕事に介護にそれはそれで大変だったが、無事に長女を授かったのも良い思い出である。その後、私達は会社の都合で倉敷に移り、今度はここで次女を授かった。

▶ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず、とか。時はかく流れ、時代は大きく変貌した。会社の浮沈にあわせ、あの住吉寮は売却されて取り壊され、跡地には高級マンションが建った。そして家族で住んだ芦屋の社宅どころか、会社の本社自体も今や跡形もなく消え去り、私が親しく記憶の頼りとするべきものは、もはや神戸のどこを探しても見当たらず、そのことを話すべき唯一の相手であった妻さえもいなくなった。

▶飲みかけのコーヒーを片手に、庭を見ながらそんなことを考えていると足元が妙に寒い。タイマーが作動してファンヒーターが消えていた。やおらスイッチを入れると温風が吹き出した。やれやれと思いながら今度はテレビをつけると、ウクライナ騒ぎが続いている。灯油やガソリンだけでなく、多くのモノが値上がりしだした。コロナもまだ終息には遠そうだ。早く咲いた桜は、既に散り始めている。今年の4月も色々大変だ。桜だけは・・・しず心なく花のちるらむ・・か。