マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

50年目の白馬村「雪の荘」


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▶友人の一人が、お互いの50年を記念して秋になったら皆で白馬に行こうと言い出したのは今年の春のことだった。白馬とは長野県北部の長野五輪のジャンプ台があることで有名な白馬村のことである。コロナ騒ぎが続いている中での提案なだけに、実現のほどは大いに危ぶまれたが、当初の構想からみれば規模が縮小する形になったとは言え、何とか実現する運びとなったのは、言い出しっぺのT君の熱意の賜である。参加したのは私を含め有志4人。11月10日午前11時、我々は新宿発のあずさ17号に乗り込んで一路白馬村に向かった。

▶我々にとって白馬村とは、忘れることのできない青春の記憶が刻印された懐かしい所である。今から50年前の昭和47年、当時大学に入ったばかりの私は、文字通り学生時代最初の決断として、フォークダンスのサークルに入部することになった。フォークダンスとは、嫌そうな顔をしつつ、そのくせ胸をワクワクさせながら学校の体育の時間などで(戦後生まれの)誰もが一度は習った覚えのある、例のダンスのことである。

▶なぜにフォークダンスのサークルに入ることになったのかは、理由はあるにはあるが、まあ一時の気まぐれであるというのが正しい。しかし、その気まぐれが、友人との出会いや妻との出会いも含めて、その後の私の人生の大半を決定しまうことになったのだから、人生とは不可思議なものである。

▶さて、大学のフォークダンスサークルとは何か。それは、昔から世界の各地域に伝えられている民族舞踊のうち、比較的ポピュラーな舞踊や、既にあるポピュラー音楽に新しくダンスを振り付けた舞踊などの中から100~150曲ほどをピックアップして、約2年間でこれらを習得し実際に踊ってみようとするサークル活動である。練習は週2回、授業が終了後の2~3時間程度の時間を利用して、毎週1~2の新曲を覚えていく。

▶これに加えて、夏と春に1週間程度の合宿と称する集中練習がある。ここでは既に覚えた曲の復習に加えて、まとめて10~20曲の新曲を習得するのだが、その中には難度の高いバルカン地方や中東欧のメドレーダンスなどの長大な舞踊も含まれる。昭和47年の夏合宿は、冬にはスキーヤーで賑わう白馬村の大きな民宿を一軒借りきって行われた。それが最初の写真にも掲げた「雪の荘」である。練習場は、そこから歩いて10分程離れたところにある体育館で、確か当時はここも貸し切りだった。

▶参加したのは、18歳の新入生からベテラン先輩達を含めて大学生男女が50名程度。ちなみに、女子学生は全て他大学から参加していたというのはユニークである。その若い男女学生が、朝9時から昼食をはさんで午後4時くらいまでダンスに明け暮れるのだから、疲れはするが、これが面白くない訳がない。

▶受験勉強から解放されて青春のまっただ中に放り込まれた感のある私達にとっては、まるで加山雄三若大将シリーズの映画の中に描かれる大学生の気分そのものでした。練習が終わると、新入生は分担して音響機材を担いで田んぼ道を宿まで戻るのであるが、本当に楽しかったのは、それからである。

▶夏の午後4時過ぎは、まだ日が高い。我々は、民宿に引き上げると、着替えや洗濯などの雑用もそこそこに、先輩達に引き連れられて、近くにあった「マウント」という名前のレストランによく行った。「マウント」は八方尾根に上るゴンドラの発着場所に近く、おそらく冬はスキー客で賑わったはずであるが、夏場は、我々のような学生を相手にしていた。我々はここの二階に上がって、決まったようにビールを飲んだ。

▶そこにはジュークボックスが置いてあって、皆が競うように好みの曲をかけた。私は、たまたま先輩が選んだアルフレッド・ハウゼの「碧空」に魅了された。練習後の程よい疲労感に、ビールを飲んだ後の高揚感とタンゴが奏でる哀愁味がないまぜとなって私を包んだ。外はまだ十分明るくて、窓からは真夏の青空を背景にして、確かに八方尾根が輝いているのが見えた・・・はずである。それは当時の私達の姿そのものであったのかもしれない。

▶それから50年経った午後4時近く、我々4人は再び大糸線白馬駅に立った。駅前から白馬連山に真っすぐ伸びている道は、当時と同じである。駅前でタクシーに乗り込み、T君が行き先の「雪の荘」の名前を告げると、タクシーの運転手はすぐに分かった。民宿「雪の荘」は、ナント50年経っても健在なのである。そしてその建物は、50年前の記憶にある通りのものだった。

▶我々の訪問趣旨は、事前にT君が経営者の方に伝えてあったが、彼は先代の息子さんで、我々の意を汲んで気持ちよく受け入れてくれた。聞けば、建物はかなり増築されているものの、正面入り口の景観は50年前と全く同じであるとのこと。また、彼が幼い時に、大勢の大学生が宿泊して、入り口正面の広場でキャンプファイヤーをしていたのを見ていた記憶があるとも言っていた。彼の記憶と我々の記憶は、その点で一致している。

▶その晩は、食事を済ませてから、部屋で持参した焼酎を酌み交わした。酔うほどに話は弾んだが、飲んだアルコールの量は当時とは比べるまでもなく少ない。早々に二人づつの部屋に分かれて就寝したが、床に着いてからも、昔のことが思い出されて、隣に寝ている友人の寝息が聞こえるようになっても、目が冴えた私はしばらく眠ることができなかった。

▶翌朝、友人の一人が八方尾根下のバスターミナルから長野まで高速バスで出て、そこから新幹線で東京に戻ることになった。残り3人は、彼を見送ったあと、朝の山麓を散策した。我々がよく行った「マウント」もそこにあった。現在は一階は酒店として経営されているが、二階は廃店状態でクローズされている。名前は昔の通りだが、昔日の面影はなかった。50年という時間は、時に残酷でもある。
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▶その後はゆっくりと駅まで歩いた。駅までは真っすぐの下りの道だったが、私は、50年前の夏の日も全く同じ道を、サークルの女子学生達とおしゃべりしながら歩いていたことを懐かしく思い出していた。

▶その後、我々3人は信濃大町まで電車で戻り、そこからバスで扇沢経由、関電トンネルを抜けて、錦秋の黒部第4ダムから立山室堂に向かうのだが、それはまた別の話である。