マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

人間の意識は幻想か・・・受動意識仮説・・・


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▶幼い頃から、昆虫には意識はないのに(※本当かどうかは別にして)、なぜ人間には意識というものがあるのだろうかと不思議に思っていた。少し長ずると今度は、私が自分であるということは自明の理として分かるのだが・・・だって、今こうして考えている私は、まぎれもなく自分であるとしか言いようがないからだが・・・なぜそのたった一人の私は、歴史上の過去ではなく、また遠い未来の世界でもなく、現在のまさにこの時代のこの場所に生まれて存在している理由(※意味と言ってもいいが)が分からず、不思議だった。

▶さらに、その私という意識(=精神)は、私の肉体が死ぬと同時に永遠に消えてしまうのか、それとも絶対的な虚無の空間に私の精神だけが永遠に漂い続けるのか、これについては父や母に聞いても答えてくれなかった。おそらく忙しかったからだろう(と思いたい)。ただ幸いなことに、私がこういった疑問に悩まされた時期は極めて短く、その後はこのような難問に心を惑わされることもなく生きてきた。馬齢を重ねるというのは、文字通りこういうことかもしれない。

▶昨年末は、2021年に80歳でなくなったジャーナリストの立花隆の著作を読んだ。生涯に100冊の著作をものにした「知の巨人」とも云われる立花は、晩年は人間の精神と脳の関係や死後の世界に興味を持ったようだ。私が読んだ本の一冊に「精神と物質」がある。この本は分子生物学者の利根川進ノーベル賞受賞者)と共著という形をとっているが、実態は利根川の研究内容や思想を、立花が理解し、語り直したものである。難解な利根川の理論を、ゼロから理解し自分の言葉で語ろうとする立花の気迫と能力は、文句なしに素晴らしい。

▶立花が利根川に聞きたかった究極の質問は、人間の「精神」は脳内の「物質」が作り出したものなのかという一点であり、利根川はその質問に対し、現時点ではその発生の機序を説明することはできないが、答えは「イエス」だろうと断言した。利根川の答は、科学者としての良心から消去法的に導き出した答えだろうことは、立花ならずとも私にもよく分かった。立花は利根川に対し、意識は幻のようなものではないかと軽く問うているが、この質問を利根川は受け流している。実は立花の疑問は、依然残り続けているのである。

▶人間の意識と脳の関係は、20世紀の終わりころまでには大体分かったというのが、脳科学者たちの言い分である。これに対し、デイビッド・チャーマーズというオーストラリアの哲学者が、脳科学者が分かったと言っているのは、脳内における情報処理の物理的意味が説明できるようになったと言っているに過ぎず、肉体を離れて精神が独立に存在しているかに見える「現象」は何ら説明されていない。脳科学者は、いわば「やさしい問題」を解けたと言っているだけで、本当に「難しい問題」は残り続けているのだ、と嚙みついた。1994年のことである。

チャーマーズは、脳と意識(=精神)の問題を二元論的に捉えており、この限りにおいては脳(=物質)がなぜ意識(=精神)を作り出すのかは永遠の謎のようにも思える。なぜなら、精神は物理的に観測できないので、科学者は扱いようがないからだ。チャーマーズは、だからこの問題は「難しい問題」なのだと言う訳だが、この議論はある意味出口のないトートロジー(同義語反復)だ。

▶精神を物理的に観測できないとは、例えば、私がリンゴを見て赤いと思ったとき、それがどのように赤いのかを表す物理量がないからだ。つまり、私が感じている赤の色は、あなたが見ている赤の色と果たして同じかどうかは証明できないということだ。私がリンゴを見るとは、リンゴの表面に反射した光(電磁波)が網膜に届き、そこからの極めて微弱な電気信号が神経を伝わって脳の一部に届き、脳内に「赤い」というイメージが発生したと解釈できるが、それがどのように「赤い」のかについては、脳をいくら調べても物理的に観測できない。(興奮している脳波の状態を計測できるだけである)

▶確かに網膜に届く電磁波の波は観測できるし、それは数式で表されるから、再現可能である。テレビカメラはその原理を利用して赤い色をテレビ画面上に映し出すことができる。ただ断っておくが、液晶画面が映し出していると思われる映像は、異なった波長の電磁波の単なる集合体に過ぎず、しかも無数の点が数式に従い計算どおりに点滅しているに過ぎないはずだ。つまり、テレビ画面から出ている物理的な光(電磁波)には色や形などついていないのだ。色や形のない電磁波を網膜にキャッチし、その情報を脳がとらえたとき、初めて赤い色やリンゴの形が意識される(イメージとして生まれる)のである。この時の赤い色や形を表す物理量はない。ないものは観測できない。

▶それなら、意識とは一体何なのか。慶応義塾大学でロボットやシステムを研究している前野隆司教授は、「脳はなぜ心を作ったのか」という本の中で、心身一元論という前提に立ったうえで、科学的に考える限り、私達の意識というものには実体はなく、それは如何にクリアかつ本物らしく感じられようが、脳が生み出した幻想(イリュージョン)に過ぎないと言い出した。驚くことに、五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)によって感受された意識(=感覚)だけでなく、人間が考えるという意志の部分もイリュージョンと言うのだ。だとすると、「我思う、ゆえに我あり」と言ったデカルト先生も真っ青だ。

▶この本の中に紹介されているカリフォルニア大学のリベット博士の実験は衝撃的だ。リベットは脳に電極を取り付けた人について、「指を動かす」という意志を持ったタイミングと、それに従って実際に指が動くタイミングと、脳内に発生する電位差のタイミングを計測した。指を動かす意志は、時計上に順番に点滅する光を使って、どのタイミングで意志を発生したかを計測することにした。

▶結果は驚くべきものだった。意志が発生してから指が動くまでは0.2秒かかった。しかし、脳内に電位差が生じたのはナント意志が発生する0.35秒も「前」だったのだ。つまり、脳は「意志」が発生する0.35秒前に予備的に電位差を発生させていることになる。この実験は何度も追試験されたが、結果は変わらず。これをどう解釈するべきなのだろうか。

▶前野は、これをもとにして「受動意識仮説」を考えだした。すなわち、五感によって脳内に生み出される感覚(=意識と呼ぶもの)がイリュージョンであるだけでなく、我々の主体的判断のもとになっている人間の意志も、実は脳内で受動的に生み出されたイリュージョンに過ぎないと言うのである。前野によれば、脳は我々が思うより早く自律的かつ分散的に活動を始め、その結果が統合されて、あたかも自分の意志のごとき現象が遅れて発生するのだと言う。だとすると我々の主体性とはどこに行ったのか。

▶前野によると、五感によって感得された感覚が如何にリアルでクリアであろうが、それは脳が作り出した幻想であり、脳が働かなければ五感も働かないから全てのイメージは消え去るし、また人間の意志も受動的だというのは、直感的に信じるのは難しいが、こう考えると全ての説明がつくと言う。直感が間違っていたのは、天動説から地動説に移るのと一緒で、太陽や月や星が動くのは理解できても、当時の人にとって、まさかこの大地が猛烈なスピードで動いているということが信じられなかったのと同じだと。つまり、太陽や月や星が動いていると思えるのは錯覚(=イリュージョン)だったのだ。

▶あまりに衝撃的な内容ゆえ、言葉を失うが、宇宙がなぜ生まれたのかとか、宇宙が生まれる前はどうだったのかとかと同じレベルで難問と思われた人間の意識の問題が、「それは実はイリュージョンです」の一言でかくも簡単に片づけられてしまうとしたら、それは一体なんだったのかと思わざるを得ない。信じるべきか、信じざるべきか。もし意識が幻想であるとするなら、それによって引き起こされる人間の我執や、その結果生じるとされる苦しみも少しは軽くなるのだろうか。

▶般若心経には「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界」という文言が記されている。空の思想であり、物事に実体がないことを表しているが、それは前野教授が言っていることと同じなのだろうか。私の悩みは尽きない。