マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

ブラタモリと前橋


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▶11日の土曜日、NHK総合の名物番組ブラタモリで、私の故郷の前橋が紹介された。お題は、「なぜ前橋は関東の華と言われたのか」というもので、前橋出身の私としては当然見逃しは許されない。で、新聞の番組欄でブラタモリを見つけたとき、早速録画予約を入れておいた。それに安心してしまったのか、放送当日は午後6時頃からYou Tubeを見ながら晩酌を始め、7時半からブラタモリがあるのをすっかり忘れてしまう。その晩は夕食の片付けを済ませてから、午後9時過ぎにはサッサと寝室に入ってしまった。

▶翌朝起きてスマホを覗くと、3人の友人から「ブラタモリで前橋のことが紹介されるから、是非見るように」という趣旨のメールが入っていた。しまったと一瞬思ったが、録画予約していることを思い出し一安心する。私が前橋出身であることは友人の間では知れ渡っている事実なので、気が利く友人連中が一人暮らしの私が番組を見逃さないようにと、わざわざ通知してくれているのだ。ありがたいことである。

▶友人の一人は大分出身の弁護士で、彼の司法研修所時代の実務修習地が前橋だったので、前橋には愛着があるのだそうだ。もう一人は倉庫会社の経営者だが、たまたま彼の会社が所有する倉庫の一つが前橋にあるので、彼も前橋をよく訪れるらしい。そして最後の一人は、私の行きつけの居酒屋で最近親しくなった新しい友人なのだが、彼はたまたま神戸の実家に戻っていて、私が前橋出身だということを知って連絡してきてくれたものである。皆さん、ありがとう。ブラタモリ、見ましたよ。

▶私が前橋に住んでいたのは18歳の春までだったから、前橋を離れてもう50年が経過したことになる。50年と言えば半世紀。よくも生きてきた気がするが、織田信長が好んだ幸若舞の「敦盛」の一節『人間(じんかん)50年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり』というように、人の世の50年は下天(天界の最下層)においては僅か一昼夜にしかならないというから、振り返れば50年もあっという間だった気がするのは当たり前か。

▶さて、ブラタモリが前橋をどのように取り上げるのか興味深く見始めたが、番組の冒頭、群馬県庁前の広場に立ったタモリが、いきなり「ここは前橋ですか?」とボケをかましたのには笑ってしまった。前夜高崎に泊まったタモリは車でここまで連れてこられて下ろされたばかりなので、ここは一瞬高崎ではないかと思ったらしい。しかしタモリの一言は、はからずも前橋という街の在り様をよく表している。前橋という街は、赤城山利根川があるという以外には、確かにこれと言って特徴がある街ではないからである。まあ、前橋を目的にここを訪れる人は、少ないでしょうねと思わず自虐的になる。

▶そうは言うものの、前橋で生まれ育った私としては、前橋に特別な愛着があるのは当然で・・父母の墓もあるしね・・だからブラタモリが取り上げてくれるのは嬉しかったが、その内容はおそらく既知のものだろうというような根拠のない自信はあった。ところが、実際に番組を見始めると、意外にも初めて知ることが多く、その映像や情報は懐かしくもあり、またとても新鮮で参考になりました。

▶前橋は関東平野の西北端に位置しており、北方に赤城山が控えているので、全体としてみると平坦な北に向かってなだらかに上っている地形である。しかし、JR前橋駅から北に400~500m離れた所にある上毛電鉄中央前橋駅に行く道には、途中に結構な長さの下り坂がある。なぜ赤城山に向かって北に上って行くのに下り坂があるのか、今までなんとなく不思議だった。

▶また、利根川沿いの現在県庁がある場所や、そこからほど近い中央児童公園から国道17号線に向かう道路も下り坂になっており、このことから現在の前橋市街中心部を南北に貫く17号線は明らかに県庁やJR前橋駅の位置する所より低い位置を走っていることになる。今回番組が明らかにしてくれたのは、県庁や前橋駅は前橋台地という高台の端に位置しているという事実だった。なるほどね。そういうことだったのかとガッテンした次第。

▶番組では前橋がなぜ関東の華と呼ばれたのかを説明する前に、大和朝廷時代の古代日本における群馬県の位置づけについて紹介する。群馬県が古墳の宝庫であるというのは知る人ぞ知る事実であるが、かつて前橋台地の端に集中して200基もの古墳があった(※現在は殆ど宅地に変わってしまっている)というのは、私にとっても驚きの情報であった。

▶私が通っていた高校は、当時前橋駅から徒歩圏内にあったが、高校のすぐ近くにも二子山という名の古墳があった。番組では朝倉町にある八幡山古墳を紹介していた。全長130mのこの古墳は前方後方墳(前も後ろも四角)としては全国4位の大きさで、4世紀中頃にはこの地方に相当の力を持った豪族がいたことを表しているとか。

▶時代が下って戦国時代になると、前橋城(※実は城があったのです。古くは厩橋城と呼ばれた)が関東地方を押さえる戦略的要衝となった。利根川に面した前橋城を巡って、上杉謙信武田信玄、小田原の北条氏がしのぎを削った。最終的に徳川家康江戸幕府を開設する際に、前橋城は平岩氏のものとなる。そして、その平岩氏の後に家康の家臣の一人酒井重忠がここを治めることになるのだが、その時家康が酒井に「そちに関東の華をとらせる」と言ったと伝えられている。

▶明治以降は、前橋は生糸の集散地として一世を風靡する。しかし、その前橋も昭和20年8月5日の晩のアメリカ軍の空襲によって灰塵に帰した。戦後の復興に合わせるかのように、かつてあった城は跡かたもなく消え去り、200基もあった古墳は住宅地に変貌し、駅近くにあった私が通った高校も、市内北方に移転した。番組の最後に映った利根川に面した「臨江閣」という建物だけが、かつての前橋の面影を伝えている。

▶番組は短かったですが、私にとっては味わい深い時間でした。なんだか前橋に行きたくなったな・・・。