▶こんな絵にかいたような侵略が、21世紀の世の中にあるのだろうかと、思わず自分の眼を疑ってしまう光景だ。ロシアの隣国ウクライナへの侵攻である。プーチン率いるロシア軍は、北京五輪が終わったあとの2月24日に、突然隣国へのミサイル攻撃を開始し、同時に配備済の地上軍をウクライナ領内へ侵攻させた。これまでプーチン大統領は、ウクライナに対して軍事圧力をかけていることは認めても、軍事侵攻することは考えていないと公言していたので、加熱する西側報道にもかかわらず、私は軍事侵攻の可能性は低いものと勝手に考えていた。
▶だから、バイデン米大統領が、「プーチン大統領は、既に軍事侵攻を決断した。私は確信している。」と発表したときも、それをもって西側世論に警告を与えるという以上の意味はないと思っていた。だって、それはそうだろう。そもそもロシアにとって合理的に考えた時、果たしてウクライナへの軍事侵攻にどういうメリットがあるというのか。言葉を変えれば、莫大な人的・経済的なコストを支払って軍事的にウクライナを制圧したところで、ロシアに現実的なメリットが残るとでもいうのか。少なくとも日本人である私には、プーチン大統領の考えは、まったく理解できなかったからだ。
▶2月24日の侵攻開始後、一週間が経過したが、ここにきて分かってきたことが二つある。一つは、プーチン大統領の誤算である。彼は、ロシア軍が本気で攻め込めば、首都キエフは数日で陥落し、ウクライナのゼレンスキー大統領以下は、すぐにどこかへ逃げて行くだろうと思っていたふしがある。加えて、国際世論の反発も、かつてのチェチェン紛争、グルジア戦争、クリミア半島の奪取、シリア空爆などの時も、動員した軍事力の大きさや攻撃の苛烈さに比べて、世界的に見れば大した反応がなかったので、今回も大した影響はないだろうと高を括っていたように思われることだ。もちろん、事前に米国やNATOが、直接動くことはないというメッセージが届いていたことも背景にはあるだろう。
▶しかし、開戦から一週間が経過し、これらの予想が必ずしも正しくなかったことが、判明しつつあるようだ。キエフは未だ陥落しておらず、国際世論の反発がこれほど激しいものだったとは、プーチンの想定外だったはずだ。それが証拠に、プーチンの眼付には不安の色が見えるし、それが核抑止力の行使といったトンデモ発言につながっている。だいたい、テレビに映る自らの閣僚と信じられない程の距離を置いて会議を開催しているプーチンの姿は、異常で滑稽でさえある。会議の最中に、裏切った閣僚からピストルで暗殺されないように用心しているのではないかと、勘ぐってしまうほどだ。
▶さて、もう一つ改めて分かったこと。それはアメリカの情報収集能力の高さだ。やはり、バイデンは全てを知っていたし、その上での予防線の張り方も一流だ。彼は、アメリカが参戦する可能性はないと、早い段階から公言していた。そして、プーチンの侵略があった場合の対抗策について、かなり早い段階から西側主要国とは連携をとっていたはずだ。アメリカの参戦がないと見込んだプーチンが、安心してウクライナ侵攻に踏み切ったというのは、そうだろう。この面で、アメリカの戦力が抑止力となりえなかったのは事実だ。
▶しかし、アメリカが自国の軍事介入を曖昧にしたまま、それでもプーチンが侵攻を開始し、その後に、アメリカとしては経済制裁で対抗すると発表したとすると、何が起こったか。おそらく、プーチンからは更にナメられ、世界におけるアメリカの存在感は劇的に低下し、バイデンの政権基盤も危うくなったことだろう、と思う。その意味で、バイデンの判断は良かったかどうかは別にしても、少なくとも現実的だったのだ。本気の喧嘩をする気のない者が、虚勢を張り、それが裏目に出た場合が最もいけない。弱者には、弱者の戦い方がある。もちろん、アメリカのことではないが。
▶改めて思うが、アメリカの情報収集能力は、世界一だろう(たぶん)。ついこの間も、同盟国であるドイツのメルケル首相の携帯電話の通話を傍受していることがバレて問題化したが、これなどは寧ろお笑いの類だ。アメリカ政府は否定しているが、米・英・加・オーストラリア・ニュージーランドを中心に、エシュロン(ECHELON)というシステムが、全世界の通信を傍受・分析しているというのは、公然の秘密となっている。ただ、日本がどこまで恩恵を受けているのか、あるいは被害にあっているのか、私は知らないが。
▶第二次大戦時、真珠湾攻撃は間違いなく探知され、アメリカ上層部に報告されていたことは、映画「トラ・トラ・トラ」で描かれていた。朝鮮戦争勃発時に、金日成が突然38度線を越えて南朝鮮に攻め込んだということになっているが、戦後にアメリカが公表した資料からは、マッカーサーは金日成の動きを、事前に正確に把握していたことが分かっている。
▶イギリス人の天才数学者アラン・チューリングは、大戦中ドイツのエニグマの暗号機の解読に成功し、チャーチル首相はドイツ空軍がイギリスの工業都市コベントリーを空爆する情報を詳細に把握していながら、ドイツに対して暗号が解読できていることを秘匿するために、コベントリーへの空爆を放置し、結果的に多くの市民が犠牲になった。戦後、この秘話はチャーチル自身の回想録によって明らかになった。当時から、アメリカやイギリスの情報収集能力は、並みでなかったし、結果も非情だ。
▶このように書いていると、なんだかロシアの情報収集能力が低いと言っているように聞こえるだろうが、実際のところはどうなのだろうか。ただ、いくら正確に情報が収集され分析されたとしても、その情報を使って判断するトップの判断如何で、歴史の結果が大きく変わってしまうと言うのは、皮肉にも本当のことだ。正しい情報が、必ずしも正しい判断につながるとは限らない。
▶プーチンは、現代における最大の悪者になった。サダム・フセインやオサマ・ビン・ラディンの比ではない。狂ったとしか思えないプーチンの為に、多くの無辜のウクライナ人が、今日ただいまも、戦火の下で震えている。
▶ところで、かつてソ連のフルシチョフ書記長がキューバに核ミサイルを持ち込んで、ケネディ大統領との間であわや核戦争が勃発するかも知れないという事態に発展したことがある。所謂キューバ危機だ。しかし、ソ連に言わせると、そもそもはアメリカがトルコにミサイルを配備したことが原因となっている。キューバ危機は、双方がミサイルを撤去することで解決しているので、フルシチョフにしてみると、危機を起こしたことの「元は十分に取った」という事実は、意外に知られていない。(※トルコのミサイル撤去は、密約だったようだ。)
▶冷戦体制崩壊後、東欧諸国は、オセロの駒が次々と裏返るようにNATOに加盟した。これを見たプーチンが、乾坤一擲の賭けに出たというのが、今回の図式だと私は思っている。プーチンが怯える心情は、分かると言えば分かるし、分からないと言えば全く理解のほどを超えている。しかし、理由の如何はあれ、一刻も早く現下の戦争は終わりにして欲しいというのは、世界中の人が抱いている思いだろう。
▶それにしても、時間が経ってウクライナでの戦闘が終了した時、東ヨーロッパは、一体どんな世界になっているのだろうか・・・。