マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な60代「男おひとりさま」の日常を綴っています。

風に吹かれて・・・


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▶学生だった頃、小遣いを貯めて買ったギターで最初に覚えたのは、PPM(ピーター・ポール&マリー)の「風に吹かれて」だった。平易ではあるが深淵な内容を示唆する詩を、PPMは哀愁味のある調べにのせて歌ったが、この歌をボブ・ディランが作詞・作曲して自ら歌っていると知ったのは、しばらく経ってからだった。しかもボブ・ディランは、岡林信康高田渡など、その後の日本のフォーク歌手に大きな影響を与えており、まさに日本のフォークブームの源流に位置する歌手とも言えるが、それも後から知ったことである。

ボブ・ディランは、1941年生まれのアメリカのシンガー・ソング・ライターで、2016年に歌手として初めてノーベル文学賞に輝いたことで世界中を驚かせた。しかも彼が最終的に受賞するかどうか不明だったため、世界中の人をヤキモキさせたことは記憶に新しい。そのディランが歌った「Blowing in the Wind(風に吹かれて)」は、1963年にリリースされた。アメリカの公民権運動に触発されてディランが作ったとされているが、全体としてみると反戦歌に聞こえる。だからこの曲は、その後に続く時代を象徴する歌であって、詩もメロディーも素晴らしいので、PPMはもちろん、多くの歌手にカバーされ今日に至っている。

▶以下、ディランの「風に吹かれて」を私なりに訳してみた。

どれだけ長い距離を歩いたら 人は人として認められるだろう 
一体いくつの海を越えたら 白鳩は砂の上で休めるだろう 
どれだけの砲弾が飛び交ったら 人は撃つことを止めるだろう 
友よ、その答えは風の中に舞っている 

山は今のまま一体何年存在し続けるだろう 削られて海に流されるまで
一体何年かかるだろう 人々が自由を手に入れるまでに
人は何度顔を背けるだろう 見るべきものを見ないふりをして
友よ その答えは風の中に舞っている

人は何度空を見上げれば 本当の空を見ることができるだろう
人は一体いくつ耳を持つことができたら 人々の悲しみの声を聞けるようになるだろう
どのくらい多くの人が死んだら あまりに多くの人が死んだことに気づくだろう
友よ その答えは風の中に舞っている 

▶私は、「Blowing in the Wind」を風の中に舞っていると訳したが、日本では風に吹かれていると訳すのが普通だ。「風に吹かれて」という言葉のインパクトは強烈で、小田和正エレファントカシマシ森高千里などが独自の「風に吹かれて」という同名の曲を作っている。もちろんこれらはディランの「風に吹かれて」のカバーではない。

▶さて、ここまで書いてきたのは、昨日21日のNHKクローズアップ現代を見ていたく触発されたからだ。21日に東京で一仕事終えて(途中、駅前の居酒屋に寄って)家に戻ったのは午後7時半だった。テレビをつけると、クローズアップ現代にサザンの桑田佳祐が出ていた。極めて珍しい。

▶何のことかと見ていたら、66歳になる桑田が、同じ歳のミュージシャン4人(佐野元春世良公則野口五郎、Char)に声をかけ、5人共同で新曲「時代遅れのRockn roll Band」をリリースしたとか。その曲の歌詞の一部にはNo More, No warというくだりがあり、いささか時代遅れだが、平和への思いとして、音楽人として声を上げるなら今しかないという趣旨のインタビューだった。

▶66歳の5人は私の年齢に近いが、いずれも若々しい。時代遅れと謙遜しながらも本音は第一線で走り続けたいという彼らの思いとその姿を見ながら、まだまだ自分も老け込むのは早い、十分に若いではないかと、とても自信をもらった気分になった。そしてその後、桑田がギター一本で、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を自分の訳で歌い、桑子アナがハモったのだ。エンタメ番組として見ても素晴らしかった。これが本当にクローズアップ現代なのっ、てね。

▶桑田は、答えは風に吹かれているという歌詞の意味を、若い時は「答はそれぞれの胸の中にあるのだろう」と解釈していたが、最近はディランは「答なんてない、あるんだったら言ってみな」と言っていると思うようになったと。桑田は50年も前から「風に吹かれて」を知っているが、まさかこの時代のこの時に自分で新訳をつくって歌うとは思わなかったと言っていた。

ウクライナでは、今この時も、悲しみの声が充満している。そうだよね、それにしても人間て、哀しい存在だよな・・・と思った瞬間だった。

趣味のバイクツーリング


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▶季節のよい春と秋には、愛用のバイクを駆ってツーリングに出かけるのを趣味としている。現在乗っているバイクはスズキ・バーグマン200で、2017年9月に購入した。最初に購入したのはホンダのビッグスクーター フォルツァ250で、これは自動二輪免許を取得した56歳の時のことだから、今から12年前になる。その後は調子に乗ってマニュアル車のホンダCB400も買ってしまい、一時バイクは2台となった。

フォルツァは、ビッグスクーター(とにかくデカイ)全盛時のバイクなので、機能がテンコ盛りだった。ABS装置や走行時に聴くことが可能なオーディオまで装備されていたから、250CCにも関わらず車重が250kgもあって、取り回しは大変だった。だが、このバイクには忘れ難い思い出がある。

▶2011年3月11日午後、東日本大震災が発生した。当時私は、勤めていた会社で災害対策を司る任にあった。発生から丸2日経った14日の朝、突然の停電で、JRや私鉄が全面ストップする。前日まで泊まり込んでいた東京の本社から、やっとのことで千葉の自宅に戻ったばかりの私は、今度は東京に出る方途を失った。しかし何としてでも東京に行かなければならない。そこで、危険を承知でこのバイクで大手町にあった会社まで駆けつけたのだ。

▶ヘルメットにジーパン姿で会議室に飛び込んできた私を見て、周囲の連中は目を丸くしていたが、本当のところ私は、(災害対策はさて置き)まだ新しかったバイクで東京まで通勤できるのが楽しくて仕方なかった。ちなみに、このバイクには一度だけ嫌がる妻を後ろに載せたことがある。この時妻は、帰りの高速道路(館山道)上で愛用のサングラスを落としてしまい、戻ってすぐに拾ってきて欲しいと私を困らせたのだった。

▶その後、私の興味は2台目として購入したCB400に移ったので、フォルツァには次第に乗らなくなった。仕方なく買った店に引き取ってもらったが、トラックに積載されて引き取られていくフォルツァを見送るのは、正直寂しかったものである。

CB400というバイクは、オーソドックスなスタイルで、操作性とパワーと環境性能が極めて高いレベルでバランスするホンダの誇る中型バイクだ。現在に至るまでその高い評判は継続している。しかし、残念なことに厳しい排ガス規制の関係で、今年の秋には生産中止になることが決定している。搭載する400㏄4気筒エンジンには、ホンダ独自のVtec機構が内臓されている。

▶このVtecは4輪車を前提に開発され、次いで2輪にも展開されたが、CB400のエンジン機構は4輪車とは別モノだ。CB400は4気筒(シリンダーが4本)にもかかわらず、エンジン回転数が5500回転未満では2バルブが停止して2気筒として振る舞い、それ以上に回転数を上げると4バルブが復活し、4気筒として段違いのパワーが発揮される仕組みとなっている。

▶実際、高速道路上などで時速105キロを超えてくる(回転数5500以上)と、段違いの加速性能を見せるのだ。私は臆病だから140キロ以上は出したことはないが、Vtecが作動し始めた時の異次元に入ったような加速感は凄かった。中型バイクとしては日本一だったのではないか。

▶私はCB400を愛したが、ネイキッドバイクとしては乗車姿勢の前傾がややキツイので、長距離では身体がガチガチになってしまう。これは私自身のライディングにも問題があったのだが、年齢も嵩んできて周囲も心配するので、もう少し楽なバイクにしようと思い、2017年に現在乗っているスズキ・バーグマン200に再び乗り換えた。

▶バーグマン200は、楽なバイクである。車体は最初に乗ったフォルツァより一回り小さい(車重は160㎏程度)が、排気量は200㏄を確保し、高速道路でも十分に流れに乗ることができる。スクーターなのでクラッチ操作の必要はなく、乗車姿勢もいたって自然である。もちろん名車とされるCB400程には所有欲を刺激されるものではないが、要するに疲れないバイクなので、この歳になっても安心して乗れるというのが最大のポイントとなっている。私はこのバイクに乗り出してから、今でもかなりの長距離を連続走行できるようになった。

▶そして昨日の土曜日。朝4時半に目覚めた私は、天気が崩れないことと予定が何もないことを確認した上で、北茨城の袋田の滝までツーリングすることを決断した。袋田の滝は以前CB400で行ったことがあるのだが、何せ遠い。明るいうちに戻れるか心配だったが、もうすぐ夏至で昼間は長いので、思い切ってバーグマンで行くことにした。

▶午前6時半に出発して、51号線を成田方面へ。成田で朝食をとり、鹿島サッカースタジアムの横を通って10時に大洗に着く。結構走った気分だ。大洗には苫小牧行きの商船三井のフェリーターミナルがあり、私はかつて妻と車でここから北海道に出かけたことがあるが、午前中のターミナルに人気は全くなかった。


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▶大洗から51号を水戸方面にしばらく走り、右折して6号線に入る。途中のマックでコーヒーを飲み、次いでガソリンを補充。6号から293号を経由し、常陸太田で349号線に入った。あとは延々と緑に囲まれた349号を北上する。実に気持ちいい。「道の駅さとみ」で小休止し、昼近くになって袋田の滝の道路標識が見えてきた。

▶ちょうど正午に、袋田の滝の少し手前にある「月居温泉」に到着。ここは2回ほど立ち寄ったことのある日帰り温泉。目的地まではもう一息の距離だが、焦らずにゆっくり温泉に浸かった。料金は450円で、来月から50円値上げするとのこと。昼間の温泉はガラガラで、アルカリ単純泉なので肌がツルツルするのが気持ちいい。

▶午後1時近く、袋田の滝に到着。入り口に近い「たきもと」という食堂にバイクを停めて軽く昼食をとる。鮎の塩焼きにノンアルコールビールを注文したら、おばさんがタケノコの煮つけの小鉢をサービスしてくれた。駐車代はタダで締めて700円は安すぎる。


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▶久しぶりの袋田の滝は、水量は少なかったが、壮観だった。入場料300円を払って200メートル程の地下トンネルを抜けると、滝の直下に出る。ここから見上げる滝の姿は圧巻。エレベーターで観瀑台に昇る。新緑に囲まれた滝は美しかったが、紅葉の時期にはさらにいいのではと思った次第。


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▶午後2時に袋田の滝を出発。本当は途中で「竜神大橋」を見物したかったが、道を誤ってしまった。時間の余裕もなかったので、ここは諦めて復路は予定外の118号線を通って水戸方面に戻った。袋田から大洗までは結構長く感じた。大洗から51号線で来た道を戻ったが、最後は大栄インターから東関道に入り、穴川まで高速道路を一気に走った。午後6時を過ぎて小雨が降ってきたが、たいして濡れることもなく、6時半に我が家に到着。12時間400kmに及ぶソロ・ツーリングの旅でした。

 

 

 

「おひとりさま」の飲み会


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▶以前勤めていた会社の人達と、楽しい交際が続いている。私が会社を辞めたのは令和元年6月だから既にそれから3年が経過しているが、3年経っても変わらずに昔の仲間たちとの付き合いが続いており、先日は私の家にそのうちの7人(私以外は全員が現役社員)が集まって楽しい一刻を過ごした。この3年はコロナ禍の期間に重なっており、感染対策上、人と人が直接会うのがとりわけ難しい期間だっただけに、こういった人間関係を変わらずに維持できているというのは、本当にしあわせなことであると実感した。

▶日本の会社というのはありがたいもので、取り立てて意識せずとも、会社に行っているだけで、ある一定の人間関係が自動的に形作られることになっている。もちろんこうした人間関係が全て幸せな関係である訳ではないが、贅沢を言わなければ会社生活の中で孤独や疎外感を感じることは少なく、逆に妙な連帯感が生まれたりする。なにより、会社に行けば給料がもらえるから二重にありがたい・・・と思っている人が多い。

▶何も疑問を持たずにこうした会社人生を過ごして定年を迎えた男性を待っているのは、こんなハズではなかったという突然の疎外感や孤独感・退屈感で、後輩たちからの「たまには会社に顔を出してください」などという言葉を真に受けて会社に行こうものなら、迷惑がられることこの上ない。まあこれは、当然の成り行きといえばそれまでだが、内館牧子はこういう男性が遭遇する悲哀を「終わった人」に面白おかしく書いた。

▶私の場合、会社を辞めたのと長年連れ添った妻を亡くしたのがほぼ同時だったので、問題は一挙に複雑化し困難化したが、今で思うになんとか「終わった人」になることだけは避けられたような気がしている。理由はいくつかあるが、私の場合、勤めていた商社において、プライベートな人間関係を作るに際して常にフラットな関係を作ろうと意識してきたことが大きいと思っている。

▶日本の社会はタテの関係が主体となると言ったのは東大教授の中根千絵で、彼女は漁師の寄合いも東大の教授会も基本的には同じだと喝破した。要するに、日本では何も意識せずとも組織の中(ソトではなくウチ)の人間関係はタテ型になりやすいということだが、これは経験的にあたっている。やっかいなことに、この特徴は男性に顕著なので、男性はグループを作るとタテ型にしたがるようだ。一方、制約のない全くのプライベートな場にタテの関係を持ち込むと、周囲から煙たがられる。こういうことに意識が向かない男性(特に高齢者)は、すぐに物事を仕切りたがるので女性に嫌われると言ったのはジェンダー論が専門の上野千鶴子で、私は彼女の本を読んでナルホドと思ったものだ。

▶亡くなった妻は、60歳を過ぎてから地域のスクウェア・ダンスのサークル活動にのめり込み、人生の最後を充実して過ごした。この時、彼女が言っていたことを今でもよく覚えている。このサークルでは、会の運営を巡って男性陣が対立して大変だった。「私はただ踊るのが楽しいのに、会社でもないのに、なんで男の人はああいう風に仕切りたがるのか不思議でしかたない。あなたも会社を辞めてから気をつけてね」と。

▶私が上野千鶴子の本を読んだのは会社を辞めてからだが、自分が現役で仕事をしているころから、妻に言われるまでもなく、プライベートな関係にタテの関係は極力持ち込まないように意識してきた。私は56歳の時に自動二輪の免許を取得して、もっぱら若い人たちに交じってバイク・ツーリングを楽しんできたが、ツーリングの仲間は、結果として私が最年長だが、基本的にフラットな構造となっている(ハズである)。

▶会社を辞めて1年経った頃から、近所の居酒屋に通い始めた。2年経ってこの店の常連さんと友達になり、定例で千葉市民ゴルフでゴルフを楽しんだり、先月の末には、銚子のゴルフ場に泊りがけでゴルフに出かけた。メンバーは男性中心だが、女性もいる。最高齢のT氏は来年で卒寿を迎えるが、氏も含めて人間関係が極めてフラットなことが心地よい。ちなみに、これを仕切っているのは店の女将であるが、男性は言われるがままで何の問題もない。

▶老人介護施設などでは、女性は仲良く会話を楽しんでいるが、男性の入居者は一人離れてテレビを見ているという図式が一般的だ。上野千鶴子は「おひとりさまの老後」でこれに言及しているが、私も亡くなった母が入居していた施設で同じような光景を目撃している。上野は、だから男は弱みを隠すな、女を見習えと言っている。私も基本的には彼女の意見に賛成だ。

▶私は50代初めまでは、製鉄会社に勤務していた。ここの組織は典型的な男性社会で、当然タテ関係が優先した。私自身、組織内ではリーダー型の社員で、闘争心も人一倍旺盛で自分の生き方に自信をもっていた。50代の半ばになって、結果としてこの会社から子会社の商社に転籍することになったが、これは私にとっては大いなる挫折で、自分の生き方を見直す必要にせまられた。それから10数年が過ぎた。

▶先週末に我が家に集まったのは、この商社時代の私の部下たちで、昼頃に各自が料理を持って集まり、夜までにワインを10本近く空けて、全員で後片付けをしたあと、次回を約束して皆が気分よく帰っていった。この日は金曜日で、私以外の参加者は、部署は異なるが全員が有給休暇をとって参加してくれた。そのうちの二人は、ナント子持ちの女性である。私は自分の人間関係作りが間違っていなかったと確信できて、気分がよかった。

 

 

 

浴室のリフォームはいつ?


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▶昨日は、5月にもかかわらず、列島を猛暑が襲った。どういう具合で気温が高くなったのかは知らぬが、とにかく関東地方では35度を超えた地点がいくつかあったようだ。我が家の居間の窓から、庭のカエデの株立ちが良く見える。よく見えるように、植木屋に頼んで植えてもらったので当たり前だが、そのカエデの新緑が日増しに濃くなって、今や伸びた枝の葉の重なりがいかにも重たそうだ。

▶四国遍路から帰ってもう一週間が過ぎたが、遍路の印象が強すぎた反動のためか、ここのところ精神活動が不活発だ。あるいは意識しない身体の疲れがたまっているのかも知れない。そうは言いながら、先週はなじみのリフォーム業者を呼んで、浴室のリフォームの相談をした。このリフォーム業者とは、私が現在の家を中古で購入した時に全面リフォームしてもらった時からのつきあいだから、もう10年以上になる。

▶この業者には、全面リフォーム後に台所のレンジフードを交換してもらったり、一昨年は一人暮らしに対応して、居間の造作を全面的に変更してもらったりしている。いずれもそれなりに費用はかかるのだが、私には不思議に抵抗感がない。現在の家は持家としては2軒目で、中古で取得したので仕方なくリフォームで対応したが、最初の家は、自分が設計(の構想)を行い、図面を工務店に書いてもらった。要するに、私は基本的に建築やリフォームが好きなのだ。

▶現在住んでいる家は、大手住宅メーカーが建てた出来合いモノだが、基本的な間取り設計が(珍しく)上手くできているので、使い勝手には概ね満足している。しかし、細かく見ると問題がない訳ではない。最大の問題は、階段のこう配が私には急過ぎる(※特に下りが危険だ)ことだが、こればかりはリフォームでは対応が困難なので、仕方なく手すりを使って諦めている。もう一つは浴室で、こちらはバスタブからの排水が悪いことである。

▶この家を買った当初に浴室の壁まわりをリフォームしたが、この時は排水の悪さを意識することはなかった。その後、次第に気になってきたので、パイプのつまりではないかと思い水道業者に診断してもらったところ、パイプのつまりではないことが分かった。正確には壊してみないと判断できないものの、おそらく配管の設計か施工が悪く、配管システムに不必要なトラップが生じているのではないかということだった。

▶バスタブそのものは古びてはきているが、使えないわけではない。しかし、排水の悪さに加え、この浴室は設置後25年が経過し、リモコンの液晶が壊れてしまっていることや、給湯器そのものも通常の交換時期(だいたい10年~15年)を大きく超えてしまっているため、明日にも寿命が来てもおかしくない。もちろん現在の浴室を絶対的に使い続けられない訳ではないが、風呂好きの私としては、自分が一人元気で生活できているうちに、新しい浴室をエンジョイできるのがベストで、我慢して古い浴室を使っているうちに自分の寿命がきてしまっては元も子もない。ということで、今回リフォームすることを決断した。

▶さて、リフォーム業者に相談すると、一つ問題があって、それは給湯器の納期が不明で、最低でも半年は我慢して欲しいと言われたことである。現在、日本中で給湯器の更新が滞っているが、これは半導体不足と中国のコロナ対策に原因があるようだ。とにかく給湯器を発注してもいつ入るか分からない状態で、工事の計画が立てられない。在庫はないのかと聞いたが、給湯器専門業者も困っている程だから無理との返事だった。

▶ないと分かると俄然欲しくなるというのも人情で、浴室工事は別にして(排水問題も我慢はできる)、とにかく給湯器だけでも先行発注させてもらうことにした。なにせ、我が家の給湯器は25年選手なので、いつダメになるか分からないからだ。そういう事情なので浴室の仕様の方は、ゆっくり決めたらいいのだが、最近は資材の価格上昇が続いており、これも契約を早めた方がいいのではないかと思った次第。

▶すると翌日のことだったか、その業者から電話があった。見積もった据置型の給湯器ではないが、壁掛け式の同能力の給湯器が偶然にも見つかったので、それでよければ現物を押さえるが、どうかとのこと。据置タイプと壁掛タイプと違いはよく分からなかったが、半年以上も宙ぶらりんで待たされるよりは現物確保が優先すると思い、その機器を押さえてもらうことにした。

▶ということで、色々あったが、浴室のリフォームは進みそうだ。今週末には、早速TOTOLIXILショールームに出かけてみようかと思っている。さて、リフォームというと、まだ残っている課題があって、それは25年使った台所だ。これもいつかは実現しないといけないのだが、資金問題はさておいても、楽しみは少しづつ実現していった方がいいので、もうしばらくお預けにしておくことにしよう。

閑話休題。リフォームをする時、合い見積もりをとることは必須である。私も昨年2社から見積もりをとり、既にリフォームの相場は知っていた。今回は、改めて見積もりの取り直しをしたが、案の定、昨年の見積額よりは増加していた。価格は確実に上がっている。

 

四国遍路日記(4ー11)

▶今回の四国遍路も今日が最後となった。曇り空の下、鳥坂峠を超えて大洲市に入るだけの20㎞程度の歩行なので楽勝だが、宿に入る時刻が早すぎるので、2時間以上の時間調整が必要だが、ノーアイデアだ。すると峠に向かう途中で、数日前に会ったアメリカ人の青年と再会した。

▶彼の今日の予定を聞くと大洲市泊まりとのこと。余裕時間の使い方を聞くと、大洲市内の観光をするので問題ないとの返事だった。私は、四国の片田舎の街に観光するような所はないと思っていたが、彼から聞いてそれが間違いだと分かった。
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鳥坂峠を超えて大洲市内に入ったのは正午過ぎだった。大洲市は江戸時代に加藤氏が治める城下町で、市内を流れる肱川を見下ろす高台に大洲城天守閣が聳えている。城の下には古い街並みが残り、整然と区画された道路はレンガ敷が美しい。

▶この街で古くはNHK連続テレビ小説の「おはなはん」のロケが行われた。そして90年代にはあの「東京ラブストーリー」のロケまで行われているというから、業界では知る人ぞ知る有名地なのだ。全くの偶然の産物でこのことを知ったというのはラッキーこの上ない。
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(おはなはんロード)
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(東京ラブストーリー)

▶建築好きの私にとって最初に訪れた臥龍山荘は素晴らしかった。肱川沿いの崖の上に、川を見下ろすように贅を凝らした山荘が建てられている。庭は川を借景にして造られており、建物に劣らず見事である。明治時代の地元の貿易商が、惜しみ無い費用と時間をかけて作り出した(地元の大工棟梁の中野虎雄が凄い)この名建築は、既に国の重要文化財に指定されている。写真をご覧あれ。
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▶続いて行ったのは大洲城。こちらは平成16年に天守閣の復元工事が完了した。江戸時代の様式が忠実に再現された天守閣は一見の価値がある。
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▶宿に入ったのは午後3時で、宿泊者は私一人だった。宿の亭主と遍路について四方山話をしながらビールを飲んだ。亭主のアドバイスで、明日は午前中を13㎞離れた内子駅まで歩いた上で、その後松山空港から千葉まで戻ることにした。次回は内子駅から遍路を再開することになる。とにかく、今回はこれで終わりとしたい。

 

四国遍路日記(4ー10)

▶先週の火曜日に高知入りし、翌日から再開した遍路旅も今日で丸10日となった。前半は雨に祟られながらも、これまで既に250㎞以上は歩いた計算だが、打った(遍路ではこう言います)寺は僅か3ヶ寺だ。ところが今日は久しぶりに1日で3ヶ寺を打った。

宇和島市内の駅前ホテルが朝食抜きだったので、6時半にはホテルを出て、途中のコンビニで調達したおにぎりを食べながら(行儀は悪いが)歩いた。最初に行ったのは41番龍光寺で、8時半に到着。長い石段の上に寺はあるが、朝早くなので、遍路は疎らだ。
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▶龍光寺から次の42番仏木寺までは3㎞未満だが、境内下の駐車場から入る遍路道を見過ごしてしまい、先ほど登った参道の石段下まで戻ってしまった。そこから車が通る道を行っても良かったが、時間に余裕があるので「四国の道」と標識のある迂回路を行くことにした。

▶しかし実際はかなりの回り道で、地元の人に聞きながら進んだが、最後は田んぼの畦(※ここは道ではありません)を行くしかなくなった。途中、小さなヘビを踏んづけそうになったりして、漸く仏木寺に着いたときは時間が倍ほどもかかってしまった。
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▶ここから本日最後の43番明石寺までは10㎞だが、途中に歯長峠という難所を抜けなければならない。峠の手前で休憩所があったので立ち寄ると、テントを張って誰かが寝ている。そばには古びた菅笠と金剛杖が立て掛けてある。軽く声をかけたものの返事はなく、極めて不気味だ。

▶だいたい午前11時頃にテントで寝ているというのは尋常ではない。しかし強引に声をかけてテントの中の人を起こすのも悪いし、テントを覗いて人が死んでいたりしたら、もっと悪い。それでも近くのベンチで一人昼食を取ったが、どうにも落ち着かないので直ぐに休憩所を後にした。

▶この休憩所から歯長峠の遍路道に入るが、難路であることは分かっているし、どうにも縁起が良くない予感がするので、峠越えをやめて県道のトンネルを通ることにする。その後の疲れ具合を考えると、この選択は正解だった。

明石寺の手前で宇和高校の野球部の練習するグラウンド横を歩いていると、先生の号令一下、選手全員が私に向かって挨拶してくれた。なんという躾だ。先ほどまで引きずっていた嫌な感じが一気に解消した。宇和高校野球部の皆さん、ありがとう。

▶その後、43番明石寺に到着。明日もまだ歩きの行程は残っているが、寺打ちは今回が最後だ。午後3時ちょうどに宿に入った。
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四国遍路日記(4ー9) 宇和島編

▶JR新橋駅から内幸町方向へ路地を少し行った先に、「宇和島」という小料理屋があり、今から20年以上前の私がサラリーマンだった頃、この店でよく職場の同僚達と酒を飲んだ。カウンターと狭い小部屋がいくつかあり、だいたい一番奥の部屋で飲んだが、最初に注文する料理は、とりあえず「じゃこ天」で、最後に食べて帰るのは決まって「たい茶漬け」だった。

▶いつだったか、この店が話題に上がった際、誰が最初にこの店を開発したのかという話で盛り上がった。その時名前が上がったのが私よりも一回り近く上の先輩のN氏だった。N氏に確認すると、高校の同窓の連中とたまに酒を飲む機会があり、その時この店を利用したのが最初だったとのことだった。N氏は、宇和島出身だったのだ。

▶その宇和島市内に今日初めて入った。実は本日の宿は宇和島駅前のビジネスホテルに決めてあり、朝出発した津島町の宿から16㎞ほどしか離れていない為、午前中に宇和島市内に着いてしまったのだ。本来はあと10㎞は先に行っておく必要があるのだが、残念ながら適当な宿が見つからず、やむを得ず宇和島市内に宿を取ったという次第だ。

▶という訳で、午後の日程がガラ空きになったので、市内巡りをする。最初に行ったのは天赦園。もともと宇和島藩の浜御殿があった場所に七代藩主伊達宗紀が自らの隠居の場として築造した大名庭園で、現在は国指定の名勝となっている。

▶市内中心部にある広大な池泉迴遊式庭園は、訪れる人も疎らで、もったいない限りだ。入園料は大人500円だが、65歳以上は300円なので、ありがたいの2乗だ。まるで3400坪の大名庭園を独占したような気分に入り浸ることができた。池のほとりにある茶室近くの藤棚の下で、休憩を兼ねて30分も佇んでいただろうか・・・長閑だ!!
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▶天赦園を出て直ぐのところに伊達博物館を見つけた。宇和島藩と伊達氏の関係とは何かとの思いもあって入館する。宇和島藩の初代は伊達秀宗とのことだが、彼は仙台の伊達政宗の長男である。なぜ政宗の長男が宇和島に来たのかという事情は、この博物館で知った。

伊達政宗は、豊臣秀吉の求めに応じて幼い長男秀宗を人質として提供する。関ヶ原の戦いの後、今度は徳川家の人質になった秀宗は、大阪冬の陣で父と共に軍功を上げるが、秀吉から一字を貰い豊臣秀頼とも近かったことで仙台伊達藩の家督を継ぐことを許されず、1614年に遠く離れた宇和島の地に、伊達氏別家として移封された。宇和島伊達藩は、この時に始まるのだ。

▶その宇和島藩は、江戸末期に脚光を浴びることになる。8代当主伊達宗城は、幕末四賢侯の一人として国政に関与することになるのだ。水戸の徳川斉昭徳川慶喜とも深い交流があり、宇和島にも当時の歴史資料が多く残っている。伊予宇和島藩がこのような位置付けの藩とはこれまで知らなかったが、こちらに遍路に来て少しは賢くなったような気がする。
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▶伊達氏博物館を出て宇和島城を見に行った。宇和島城藤堂高虎が築城を手掛けたもので、当時は珍しい海に浮かぶ城だった。80mの高台に天守閣を持つこの城は、二面が直接海に接していて、周りの掘も海水が入っていたのだ。現在は埋め立てが進んでしまったので、城は内陸にあるように見えるが、これもまた面白い。タモリが来たら喜ぶだろう。
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▶先輩であるN氏に導かれて、思いもかけず宇和島見物ができた。本当にラッキーだった。

閑話休題。このブログを書き上げてから(正直、大変な負荷です)、ホテルのスタッフに聞いて、宇和島駅から直ぐ近くの地元の銭湯に行ってきました。その銭湯で同じ風呂に倶利伽羅モンモンのヤクザのお兄さんが湯船に浸かっていました。昭和の銭湯は、宇和島では健在でした。

▶私はその後、近くの宇和島料理の店で、しこたま飲んで、無事ホテルに戻りました。今日は、亡き妻の誕生日です。