マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

増え続ける富士登山


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▶富士は日本一の山だから、少しでも山に興味があるなら、一生に一度は登ってみたいと思う人は多いかも知れない。その富士登山だが、今年から入山規制が強化されるという。既に山梨県側の吉田登山口では7月の山開きに合わせ、利用者の上限を一日あたり4千人に制限することが決まっており、吉田口を利用する場合は事前にインターネットでの受付が必要になるという。富士山もいよいよルーブル美術館バチカン美術館並みに、予約なしには入山できなくなってきたということか。

▶もっとも静岡県側から登る場合は登山者数の制限はしないということらしいが、かわりに事前に専用のウェブサイトに登山計画を登録することが求められており、その登録内容は登山口のスタッフが確認し、山小屋に宿泊予定がない登山者には登山の自粛を求めるという。要するに、山小屋に泊まらずに山頂まで一気に往復する登山の仕方(これを弾丸登山と呼ぶらしいが)は、ケガや高山病のリスクが高いのでやめて欲しいということのようだ。しかしこれは場合によっては揉めそうだ。

静岡県側の対応はシステムを活用した社会実験の側面もあるので、ある程度揉めることは想定内かもしれないが、一部のベテラン登山者は不快な思いをする可能性はある。一般に静岡側の富士宮ルートを取った場合、ベテランの登山者なら8時間程度で往復できるので、朝早く出発するなら山小屋に泊まる必要はない。ただ富士登山の場合、昼間に単純に山頂まで往復するケースは稀で、多くの人は山頂で御来光を拝んでから下山することが目的なので、その場合は深夜登山が必須となる。であれば、宿泊前提の登山規制はやむを得ない措置かも知れない。

▶というのも、2013年に富士山が世界遺産に登録されてから外国人を含め登山者は増加を続け、ベストシーズンの富士山頂付近は銀座の歩行者天国並みの混雑となる。なかにはハイキング気分の軽装で富士登山にやってくる外国人旅行者や若者もいて、何らかの規制をかけなければ早晩大きな事故が起こりかねない状況なのだ。特に、前日に東京を発って夕方から夜中にかけて不眠不休で富士山に登り、翌朝に御来光を見てから直ぐに下山して東京まで戻る「弾丸登山」は、以前から問題視されていた。

▶かく言う私は還暦直前の2013年の夏に、学生時代の友人に誘われて彼と二人で富士山に登った。この時は、山小屋の手配を含めて経験者の彼に全面的に頼って富士宮ルートから登った。彼のアドバイスに従い、標高2400mの登山口で早い昼食をとってから、さらに1時間ほど身体を高度順応させた後に、登山道に入った。

▶富士山の場合、いったん登り始めるとアップダウンはなくて全てが登り道となる。とにかく高山病にかかるのが怖いので、最初から休み休み登ったが、これは結果的に良かったようだ。登り始めてすぐに森林限界を超えてくると見晴らしが一気に開ける。天気も薄い雲がかかってはいたものの登山には申し分なくて、快適な登山となった。用心深い友人が携帯用の酸素スプレーを持参していたので、時々酸素を吸わせてもらったが、こちらも役に立ったような気がする。6合目を過ぎると右側に宝永火口が見えてくる。ここまで約1時間。

▶6合目を過ぎると遠くに山頂が見えてくるが、山頂まではほぼ一直線の登りとなる。富士宮ルートを登る登山者の列が、さながら蟻の行列のように見える。しかし登ってみて実感するのは富士山が紛れもない火山であるということだ。とにかく、足元は溶岩と火山性の砂ばかりで、植物を見ることが極めて少ないのだ。登ることさらに1時間あまりで新7合目の山小屋に到着。

▶ここから元祖7合目の山小屋まで更に1時間。友人と励ましあいながら登った。前後には家族連れを含めて多くの登山者が登っている。我々のペースは比較的遅かったようだが、富士山に登るのはこのくらいがいいようだ。時々振り返ると下界の景色が素晴らしいが、とにかく登りは足元だけを見ながら慎重に足を運んでいく。元祖7合目の山小屋には午後3時過ぎに到着。ここを過ぎれは今晩の宿の8合目の山小屋が遠くに見えてくる。

▶元祖7合目で休憩をとってから再び歩き始め、やっとの思いで午後5時過ぎに8合目の山小屋に到着した。夏の午後5時はまだ十分に明るいが、山小屋の中には先着した登山者で一杯だった。押し入れを大きくしたようなベッドには、細長い座布団のような布団が5列敷いてあるので5人で寝るのかと思ったら、なんと7人で寝るのだという。しかも女性が一人入っていたのには驚いた。世界遺産に登録された富士山の山小屋はかくのごとく混んでいた。

▶簡単なカレーの夕食をとって午後6時過ぎにはベッドに横になった。おりから山小屋の屋根を雨がたたきだした。富士山の天気は実に変わりやすい。遅れて高校生の集団が山小屋に到着したが、そのうちの一人が高山病に罹り苦しんでいる。どうもこのまま下山するかのような話であった。その晩は私たちはイワシの缶詰のようになって寝たが、雨の音を聞きながら疲れていたのかすぐに眠ってしまった。

▶目覚めたのは午前0時過ぎだった。既に多くの人が起き出して出発の準備をしている。午前1時過ぎに8合目の山小屋を出発して山頂へ向かう。山頂へ向かう道はヘッドランプの行列だ。防寒具をつけて登るのだが、真夏なのにとにかく寒い。そして午前4時前にとうとう山頂に到着。寒さにふるえながら御来光を待ったが、残念にも山頂周辺は雲に覆われていて御来光を拝むことはかなわなかった。それでもしばらくすると周囲が明るくなって夜が明けたことが分かった。

▶お鉢回りをしたあと富士山測候所に立ち寄ってから下山に移ったが、下山は登り以上に大変だった。最後は膝が震えてバス停まで歩くのが大変だった。富士山に二度登る必要はないが、一度でも登ったことは良かった。富士山を眺める機会は意外に多いが、眺めるたびに、自分はあの頂上に立ったのだということを実感をもって思い出すことができるからである。誘ってくれた友人に改めて感謝したい。

 

 

インプットとアウトプット


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▶弁護士を卒業した友人の一人が、よく本を貸してくれる。都内で会食をした際など、カバンから本を取り出して、今度これを読んで面白かったので、君も是非読んでみたらと熱心に言う。彼が紹介してくれる本は近現代史に関する本が多く、基本的にハズレがないので、言われた場合は素直に本を受け取って読むことにしている。彼が私に本を貸してくれるのは、私の読後感が聞きたいからで、次に会って本を返す時などにお互いの意見を交換することになるが、要するに、ささやかな読書会みたいなものかも知れない。

▶若い時は意識することはなかったが、最近よく思うのは、人はアウトプットするためにインプットするということである。現役で仕事をしている時は、インプットとアウトプットが必然的・無意識的に結びついていた。仕事のアウトプットとは金を稼ぐということにつながり、良質なアウトプットをするには良質なインプットが必要となるが、これはサラリーマンから個人事業主や芸人や芸術家にいたるまで変わらない。このインプットとアウトプットの繰り返しが、より高次の段階に達することを熟練と呼ぶ。

▶作家で有名な読書家であった立花隆は、生涯で3万冊の本を読み100冊の本を書いたと言われている。立花が読んだ3万冊の本(インプット)は、彼の100冊の本(アウトプット)の源となっている。言葉を返せば、彼は100冊の本を書くために3万冊の本を読んだ。しかしいかな読書家の立花隆とは言え、純粋の興味本位のみで3万冊の本は読めないだろう。立花は本を書くために本を読む。立花にとっては本を読む行為は、本を書くという社会的行為と無関係ではありえない。よく無人島に流された時にどんな本を持っていくかという問いがあるが、果たして人は無人島で本当に本が読めるものだろうか。

無人島ではないが仕事を辞めて引退生活に入るとアウトプットの機会が激減する。すると今度はインプットをする気持ちが萎えてくる。引退したら好きなことを思う存分しようと思っていても、実際に引退するとその好きなことが見つからない。人間はいくら年をとっても能力を発揮(アウトプット)する場があると嬉しいもので、その最も原初的な形態が他人とのコミュニケーションの場に他ならない。だから、興味ある話題に関して自分の意見や感想を聞いてくれる良い聞き手を見つけられたら、幸せである。

▶好きなことが見つからずにヒマを持て余している人は、自分がどういうアウトプットをしたいと思っているかを考えたらいいのではないかと思う。私の友人が本を貸してくれるのは、彼が私の読後感を聞きたいからだと冒頭に書いたが、本当を言えば彼が自分の意見を私に聞いて欲しいからに他ならない。彼は自分の興味に合致した話相手を探しているが、会話は一方通行では成り立たないので、まずは自分が相手にとって良き聞き手となる必要がある。アウトプットの場を作るというのは、それなりの人間関係スキルが求められるのだ。


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▶昨年私は入門用のアコースティック・ギターを購入した。手が小さいので小学生でも使えるような大きさの代物にしたが、気に入っている。学生の頃、フォークギターの弾き語りをしていたことがあるが、それ以来50年近くもギターを触っていないので、全くの初心者である。このギターを購入したきっかけは、行きつけの居酒屋さんの常連さんと酒を飲みながら手拍子で歌を歌った時、意外にも好評?だったので、それならギターでも弾けたらさらに受けるのではないかと思ったからである。

▶ギターが手元に届いてから、YouTubeの動画を見ながらコードの弾き方を復習し、少しづつアルペジオの練習を始めた。昨年は常連さんのT氏の家にお邪魔したとき、習い始めのギターを持参して適当にかき鳴らしたら、皆さんからお世辞の言葉を頂戴したのが嬉しくて、その後はがぜんヤル気になった。こういうような場がないと、ギターの練習には身が入らないし、私がギターの練習をするのは、誰かに聞いてもらいたいからだ。

▶インプットのないアウトプットは不可能で、アウトプットのないインプットは虚しい。身近に良きアウトプット相手(聞き手)がいるということは幸せで、それが配偶者であればなお良いが、世の中そうはいかない事情も多い。話し相手がいないと本を読んでも新聞を読んでも面白く感じられない。ゴルフなども一緒にラウンドしてくれる友人・知人がいれば、たまには練習場に行こうという気も起きる。

▶話は変わるが、このブログも書き始めてから既に3年になる。毎週1本のブログを書いてアップロードすることが最近の仕事になっているが、正直言ってシンドイと思うことが多い。しかしよくよく考えると、この日記がわりのブログは私にとって貴重なアウトプットの場となっており、ブログがきっかけとなって人間関係が熟成する効果もあるから止めるにやめられない。見返りが見えないようにみえて、相手にも自分にもメリットがありそうだ。

▶今日は朝から雨が降っていて風も強い。それでも夕方には、近くの居酒屋でメンバーの一人のU氏の喜寿のお祝いをしようということになっている。話の内容はいつもながらのことだが、ここは私にとって貴重なアウトプットの場でもある。ただし注意しなければいけないことがある。飲みすぎである。

五月の連休のひととき


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▶5月5日の朝は午前4時過ぎに目が覚めた。玄関前に新聞配達人のバイクが止まったようだ。ポストに新聞を投げ入れる音が聞こえる。我が家には一昨晩から次女一家が泊まっているが、この時刻だとまだ誰も目覚めてはいないらしく、家の中はいたって静か。まもなく孫たちが目覚めれば、すぐに騒がしくなるだろう。しばらくベッドの中でNHK・FMを聞く。日曜の朝5時からはクラシック音楽を聴くのがここのところの楽しみだ。今日は珍しいファゴットの演奏だった。

▶6時になったので階下に下りて居間のカーテンを開ける。たちまち庭に植えたカエデの新緑が目に飛び込んできた。柔らかそうな薄緑の若葉が風に揺れ、そこに朝日があたっている。心が休まる瞬間だ。見るとカエデの葉先が少しピンク色に染まっている。小さな竹とんぼのような二枚の羽をつけたカエデの種子が葉先についているのだ。ピンク色に見えたのは羽の部分で、もう少しすれば、風にあおられた無数の小さなピンクの竹とんぼが、我が家の空に舞うことになるだろう。

▶今年も3日の夕方には、子どもたち3家族が勢揃いした。いつもなら家で手巻き寿司などでもしながらパーティー兼夕食となるのだが、今回は皆の要望で近くの焼肉屋に行くことにした。5月の午後5時はまだ十分に明るくて、大人7人と子ども7人(内、1人は新生児)が、晴れた五月空の下を焼肉屋まで歩いた。中一の男の子が筆頭の7人の孫たちだが、皆が仲良しなのはありがたい。

焼肉屋では3月に出産したばかりの次女を除く大人たち全員が生ビールで乾杯。今夜の費用は全て私持ちということになっているので、大人たちは勿論のこと孫たちも負けずに焼肉を頬張り、遠慮なく追加注文が相次ぐ。とにかく値段を気にせずに注文できるというのは誰にとっても(※支払者を除く)嬉しいことなのだろう。2時間半ほど焼肉屋で飲んで食べて騒いでから家に戻ったが、私たちが引き上げる頃には、焼肉屋は満員となっていた。

▶その晩は、家に戻って飲みなおし、明日の早朝から予定があるという長男一家は泊まらずに午後9時過ぎに東京の自宅まで帰って行った。浦安に住む長女一家も、その晩は泊まったが、翌朝6時半には早々とクルマで帰った。孫たちが成長するにつれ、それぞれの休日の予定が優先してくるので、全員がスケジュールを合わせて我が家に泊まりにやってくるのが次第に難しくなってくるのだが、なんとか都合をつけてこうして集まってくれるのはありがたいことだ。

▶最後まで残った次女一家は、4日は千葉市の動物公園に遊びに行き、午後3時に疲れて帰ってきた。たまたま4日は妻の月命日だったので、全員で墓参りがてら近くの回転寿司屋に行くことに。ところが疲れの影響か、回転寿司屋では次女が突如頭痛を訴えだして困った。私の妻も若い頃からの頭痛持ちだったが、次女の肩を揉んでやるうちに妻のことを思い出した。幸いにも次女の頭痛は大したことはなく、寿司屋を出る頃には回復してきた。家を出る前に念のため服用したカロナールが効いたのかもしれない。

▶5日は朝食が済んだあと次女一家も引き上げて行った。我が家にも平穏な時間が戻ったので、今こうしてブログをしたためることにした。あいかわらず庭のカエデの若葉が美しく輝いている。
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那須と会津のゴルフ旅


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▶連休前の23日から2泊3日の日程で、近くの居酒屋に集まる常連さん達と那須高原にゴルフに行ってきた。行ったのはドーミー・インを経営している共立グループが展開する「ウェルネスの森・那須」というゴルフリゾートで、ここは常連の一人であるS氏の紹介。メンバーは気の合う男性5名と居酒屋の女将を含む女性2名で、もう一人の常連メンバーであるU氏はゴルフはやらないので、残念ながら今回は不参加である。

▶幹事役をしてくれたのはまだ現役で建設会社で仕事をしているH氏で、彼は日ごろから仕事で培った段取りの技をこの日の為に惜しみなく発揮。なお当然のことながら会社を休んでの参加であるからして、H氏がいかにこのプロジェクトに入れ込んでいるのかが分かろうというもの。ちなみに女性の一人はくだんの居酒屋の女将で、彼女は自分の店をスタッフに任せての参加で、こちらも気合十分。

▶費用のことや現地での行動も考えて、那須まではクルマ2台を連ねて行った。1台はT氏が提供してくれたセルシオで、運転は還暦越えの若手のH氏が担当。H氏より年上の私は助手席に、長老格のT氏とS氏は後席に陣取った。もう1台は同じく還暦越えのK氏が運転するアコードで、K氏には女性陣2人を乗せていってもらうことにした。ちなみに女性陣の女将とOさんの年齢は不詳。

▶当日は朝8時前に千葉市内を出て、京葉道路から外環道を経て東北道に入った。平日なので外環道は混んでいる。H氏が運転する排気量4300㏄のセルシオは快調で、抜群の乗り心地。途中佐野藤岡SAでアコードと合流し、昼前には那須に入った。H氏の提案で、最初にホテル近くのスーパーで今晩の部屋飲み用の酒を調達、その後ホテルの前にあるレストランで全員でランチをとった。その後ホテルにチェックイン。
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ウェルネスの森・那須のホテルはクラシックな雰囲気で、部屋も広い。ここには9ホールのゴルフコースが付属していて、空いているので好きな時にゴルフが楽しめそうである。9ホールなので、ワンラウンドする場合は同じコースを2度回ることになるが、同じホールに異なるティーグラウンドとグリーンが用意されているので、飽きることはない。というか、シニアゴルファーにとってはこのくらいが丁度いい。

▶その日の午後からのハーフラウンドは途中で雨が降り出したりして少し気をもんだが、無事終了。早速ホテルの温泉に浸かってからレストランで夕食をとった。夕食はフレンチのフルコースでしゃれている。夕食後は、部屋に戻って買い込んだ酒で二次会と相成った。K氏が持ち込んだスピーカーにYouTubeをつないで懐かしのメドレーを聞きながら酒を飲む。私も自慢の声はりあげて「南国土佐をあとにして」を熱唱するうちに最初の夜は更けていった。

▶翌日は朝から雨が降っている。ゴルフはとてもできる状況ではないので、終日観光に切り替えることにした。さてどうするか。当初は那須周辺を散策することも考えたが、それだけでは時間がもたない。地図を見ていて猪苗代湖が比較的近い所にあるので、猪苗代湖野口英世記念館の見学を思いついた。次いで会津若松鶴ヶ城まで足を延ばせば終日観光ができるかもと思い皆さんと相談し、決定。雨の中を午前9時半にホテルを出発。

▶雨の中のドライブは思ったより素敵だ。那須高原猪苗代湖の周辺の山々のまるで水彩画で描いたような樹々の芽吹きが美しい。この緑は関東では見られないねといいながら走った。11時過ぎに猪苗代湖北岸の野口英世記念館に到着。私は以前ここに来たことがあるが、その時とは記念館の様相が一変していた。どうも最近大規模なリニューアルがあったようだ。
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▶英世がまだ野口清作と名乗っていたころ、医学を目指して東京に向かう際に、実家の床柱に「志を得ざれば、再び此の地を踏まず」と刻んだのは有名で、記念館に移築された野口の実家には、この床柱が現在も残っている。野口は渡米後ロックフェラー研究所で医学者として成功し、アフリカで黄熱病で客死した後は、日本では偉人の一人として道徳の教科書にも取り上げられ、最後はお札の肖像画までになった。
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▶しかし、福岡伸一のベストセラー「生物と無生物のあいだ」という本には、野口の評価がアメリカと日本では正反対に近いという事実が記されていて、読むと唖然とする。この本で引用されているアメリカ人のプレセットによる「野口英世」や、渡辺淳一「遠き落日」によると、野口の研究成果(梅毒、ポリオ、狂犬病、黄熱病)と言われるもので今日意味のあるものはほとんどないという。加えて、野口自身のプレイボーイ的、放蕩的な性格は、関係者の間ではつとに有名であったらしい。福岡伸一は野口に対しては公平であるが、ことほどさように人の評価というのは難しい。

▶記念館を出てから隣の食堂で昼食を取ってから、会津若松鶴ヶ城に向かった。私たちは駐車場を出て傘をさして鶴ヶ城内を回ったが、桜の季節を過ぎた後の城内は、訪れる観光客も少なく静かだった。鶴ヶ城は深い堀と高い石垣の姿がとても印象的だった。f:id:Mitreya:20240428142425j:image
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鶴ヶ城からは私がセルシオを運転してホテルまで戻ったが、何だかんだで2時間近くかかって、ホテルに戻ったのは午後5時近かった。

▶その晩も食事後は全員で部屋飲みをした。私もしこたま飲んだ挙句、長老のT氏とワインの抜栓方法という具にもつかないことで口論を始めて皆に迷惑をかけたりして、まるで学生時代と同じ。結局皆が部屋に戻って寝たのは12時近かったのだから、恐るべくは最近のシニアだ。その中でも既に卒寿を過ぎているT氏の若さとバイタリティーたるや、驚きと言う言葉すらも霞むほどだ。

▶翌日は晴れて良い天気となった。午前中にハーフラウンドをしたが、皆さん軒並みにスコアを崩したのは、昨晩の飲みすぎのせいか。それでも無事にゴルフも終わり、優勝は幹事役だった若いH氏だったのには全員が納得。その後は私も運転に加わり東北道を走り、羽生パーキングで解散となった。家に戻ったのは6時過ぎだったが、何事もなく無事に戻れてよかった。

 

クルマ修理の顚末記


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▶先日修理に出していたクラウンが返ってきた。このクルマは昨年夏に乗り換えた時、バンパーの左下と左側面ドアの下に擦ったようなキズがあったので、購入と同時に修理に出して、バンパーは再塗装、ドア下は部品を交換し、お蔭様でその部分は新品同様になった。代金は12万円程かかったが、もちろんその分は購入時に割り引いてもらっている。昨夏の修理が終わった時、修理業者から冗談まじりに「またぶつけるようなことがあればいつでも持ってきてください」と言われ、そうそうお得意さんにはならないよと苦笑いしたことを覚えている。

▶ところが4月初めの金曜に友人と成田にゴルフに行った際、帰り際にゴルフ場の駐車場に停めておいたクルマに戻ると、フロントガラスに「お疲れ様です。帰る前にフロントにお立ちよりください。」と言う張り紙がしてある。何事かと思ってすぐにフロントに行くと、別の客が車庫入れの際に私のクルマにぶつけたことが分かった。驚いてクルマを確認すると、確かに右側の前照灯の下の部分のバンパーが大きく傷ついている。

▶おいおい冗談だろと思ったが、当てられたのは間違いない。この時は一緒にいた友人を成田駅まで送る予定だったのだが、その友人が私以上に興奮して「車庫入れでぶつけるとはけしからん」と怒っている。ゴルフ場の支配人が「相手の方は女性で、現在お風呂に入っているのでしばらくお待ちください」と言うと、友人がすかさず「風呂場に行ってすぐに出てくるように言ってくれ」と更に息巻いた。

▶とにかく仕方がないので友人と二人でレストランのコーヒーを飲みながら待っていると、風呂から出たくだんの女性がやってきた。大変恐縮している態で「私の不注意でこんなことになり、まことに申し訳ありません」と平身低頭している。見れば40代くらいのセレブ女性で、住所を確認すると都内の良い所に住んでいることが分かった。彼女はテスラでこのゴルフ場に来たのだが、運転が下手なのでぶつけたのは今回が初めてではないという。まったく私にとっては運が悪かったとしか言いようがない。

▶相手が全面的に非を認めているので、事故のことをそれ以上責めても仕方ないと思いこちらも矛を収めようと思っていると、先ほどあれほど興奮していた友人が私より先に「いやあ、こういうミスは誰でもありますよ。とにかく帰りの運転の際は気をつけた方がいいですな」などと調子のいいことを言うものだから驚いてしまった。随分と若い女には甘い奴だ。とにかくあとの処理は修理工場と相手の保険会社に任せることにしてその場は別れたが、成田まで送っていく途中でその友人が「修理が終わったら彼女に連絡をとってメシでも誘ったらどうだ」と言ったのには思わず口をアングリ。

▶翌日は土曜日だったが、昨年お世話になった近くの修理工場にクルマを持ち込んだ。担当者は私の顔を覚えていて、クルマの車検証のコピーなどは昨年渡してあったので、すぐに修理の見積もりをしてもらった。こすりキズなので塗装のやり直しかと思ったが、結局バンパー交換になった。まあ、相手の保険会社も問題ないと言っているのでその方向で修理してもらうことにした。

▶最近のクルマは、バンパーに色々なセンサーを装着してあるので、バンパー修理には結構神経を使うのだそうだ。ベンツなどは塗装の仕方でセンサーが狂うこともあるらしい。そして先週の木曜日に部品の手配が整ったので修理工場に入庫。翌日バンパーを外したところセンサーは問題がなかったのですぐに交換作業が完了した。土曜日にクルマを引き取ったが、バンパーが新しくなったので、昨夏に塗装のやり直しをしたところも含めて全てキレイになってしまった。不幸中の幸いである。しかし、こういのも事故車扱いになるのだろうか・・・。

▶クルマを引き取る際、修理工場の担当者からは「何かあればまたどうぞ」と言われたが、そうそうお世話になる訳にはいかないと思いながら家まで戻った。なお、その後くだんの女性とは連絡をとっていませんので、念のため。

 

 

 

今年も桜を見ることができました


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▶春は花見、秋は紅葉狩りという定番の行楽を毎年のように繰り返してきて、はてさて一体何年になるだろう。今年は関東地方の開花が昨年より大幅に遅れたため、3月末に計画していた花見は殆ど空振りに終わってしまった。それでも4月の第一週には家の近くの桜も満開になり、私も散歩がてらに今年も桜の花の下を歩くことができた。それにしても、花の下に立ち止まって写真を撮っている人などを見かけたりすると、誰しも桜に対する思いは同じなのかなと思ってしまう。

▶若い時は単純に花の美しさを愛でていたのだろうが、年を重ねて現在のような年齢になってくると、美しさを愛でるというより、桜の花に人生の儚さを重ねるようになってくるから不思議である。伝説の美女と言われた小野小町は「花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに」と詠んだ。小町も花に我が身の移ろいを見たのだろう。
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▶近くの桜は見たとはいえ、近所の散歩だけでは何となく物足りない気分が残ったのも事実で、思案の挙句、11日は父母の墓参りを兼ねて前橋の珊瑚寺(菩提寺)まで出かけて行った。この寺は境内一面に桜があって、満開から散り際がとりわけ美しい。当日はまさに満開だったが、墓を訪れる人は殆どなく、私は周囲に咲き誇る桜を独占した。近くには道の駅があって、いつもはこちらで花を買ってから墓参りをするのだが、この日はあいにく売店が休日閉鎖だったので、近くの山に生えていた水仙を摘んで父母に供えた。水仙と桜が同時に見られるのも珍しい。

▶墓参りを済ませてから前橋市の中心部まで下りていった。そのまま千葉まで戻ってもよかったが、久しぶりに子どもの頃に行ったことのある敷島公園に行ってみる気になった。この公園は、前橋市の中心部から北西に少し離れた利根川際にあって、県営野球場やボート場などがあり、市民の憩いの場となっている。子どもの頃には遠足に来たり、親戚の従弟たちとボート場でボートを浮かべてよく遊んだものだ。
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▶桜が咲く敷島公園を散策していると、時間が50年前にタイムスリップしそうだった。ボート場に隣接して広大な松林が広がっているが、私がまだ小学校に入る前に、父母と妹と4人で、この松林にピックニックに来たことを思い出した。その時は偶然にも近所に住むお爺さんも自転車で遊びに来ていて、私たちの輪に加わったことを覚えている。どういう訳か我が家にはその時の写真が残っていて、そのスナップ写真の出来栄えはプロ級なのだが、さて一体誰に撮ってもらったのだろう。

▶11日は敷島公園からまっすぐ千葉まで戻った。今年の花見はこれで終わりかと思ったが、実はそうではなかった。週明けの15日の月曜日に、今度は南会津湯野上温泉に行った。ここには気に入った温泉民宿があって、たまたま15日が空いていたので骨休めをするつもりで予約を取っておいたのだった。当日は宇都宮まで東北道で行き、ここで降りてインター近くの餃子専門店で昼食をとってから、会津西街道を使って湯野上温泉まで行った。


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湯野上温泉は、JR湯野上温泉駅の駅舎の桜が有名で、何年か前の4月に妻とここを訪れた時、たまたま満開の桜が散り始めたところで、私たちは桜吹雪の下で写真を撮った。今回行くと、鉄道写真ファンと思しき人たちが、満開の桜を背景に列車の写真を撮ろうと集まっていた。時刻表を見ると、列車が来るのはまだ30分以上も後のことだが、彼らは自分の位置を確保して動かずに待っている。私は早々と宿に引き上げて温泉に入った。

▶翌16日は、ここから70㎞ほど先にある「三春滝桜」を見に行った。この桜は樹齢千年ともいわれる紅シダレ桜で、山梨の「山高神代桜」岐阜の「根尾谷薄墨桜」と並ぶ日本三大桜の一つであるから一見の価値がある。実はここも妻と一度来ているが、その時は残念ながら葉桜だった。今年は満開となったのが10日前後で、14日までは満開が続いたようだが、この日は既に7割方散っていた。ただ滝桜の裏山に咲くソメイヨシノは今まさに満開だった。


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▶樹齢千年と言えば、人間に例えれば何歳くらいだろうか。幹回りが10mはあろうかと思われるシダレ桜だが、何本もの添え木に支えられて、やっと立っているといった風情である。周囲は黄色の菜の花が満開で、背景のソメイヨシノもあでやかであるだけに、僅かに花が残った主役の滝桜の姿が何ともけなげな感じがする。満開であればこんな感じではないだろうと思いつつも、やはり千年の時の流れには抗えない。いずれこの桜も倒れる時がやってくるだろうが、果たしてそれはいつのことだろうか・・・そんなことを思いながら滝桜を後にした。
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▶結局今年も桜を見ることができた。桜はいいものだ。年を取ればとるほど花見の味わいが増してくる。来年もまた見たい、そして見ればきっと昔のことを思い出すだろう。

「さまざまのこと思い出す桜かな 芭蕉

 

「太子河」満州本渓湖100年の流れ


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▶先日本棚を整理している時に、「太子河」という大判の本(A4版で380ページ)を見つけた。太子河と聞いて俄かに分かる日本人は極めて少ないと思われるが、中国東北地方(旧満州)を流れる河の名前である。この本は、かつて私が義父からもらったものであるが、もらった後もページを殆ど開かないまま、我が家の本棚の最下段に眠っていたものである。奥付を確かめると1992年11月の発行とあり、発行元は本渓湖会とのこと。義父は編集委員会のメンバーとして、この本の発行に深く関わっていた。

▶義父は大正10年(1921年)の3月生まれなので、生きていれば今年で103歳となる。しかし平成6年(1994年)10月に、自宅で昼寝中に心筋梗塞で急逝した。当時まだ73歳と若く、ポマードをつけた豊かな頭髪には白髪が1本もないのが自慢の義父だったので、妻から知らせを聞いた時は心底驚いた。実は亡くなる2週間前に、義父の先導で岐阜中津川にある先祖の墓を自宅近くの小田原市営霊園に移したばかりで、この時は私と妻も会社を休んで墓じまいを手伝ったのであるが、その直後に施主であった義父が亡くなるのだから、人の運命は分からない。

▶さて、私と義父の間にはちょっとした因縁があって、それは私が妻と結婚したあとに次第に分かってきたことなのだが、当時妻との結婚を前にして私はある製鉄会社への就職を決めたのだが、その際義父が思いのほか喜んだことがあった。しかしなぜ義父がそんなに喜んだのかは、当時の私は全く分かっていなかった。ところで私は就職後に製鉄所の会計課原価計算掛に配属されたが、実は義父も若いころ製鉄会社に勤務していた経験があり、しかも同じように一時期経理業務を担当しているのである。この事実は、今回「太子河」を読んだことにより判明した。

▶義父一家は、昭和14年に北海道(⇐岐阜中津川)から満州に渡り、義父は父親と弟と共に「本渓湖煤鉄公司」に入社した。この公司(こんす=会社)は、大正4年(1915年)に日本の財閥大倉組が旧満州の本渓湖(現在:遼寧省本渓市)に中日合弁で建設した製鉄会社で、昭和14年当時は、満州国と大倉組の合弁会社として、主に日本海軍向けに低燐銑(純銑鉄=燐分が低い高級な銑鉄)を供給する戦略的位置づけの製鉄所を経営していた。大倉組は、日中戦争の最中の昭和15年に、本渓湖宮の原地区に新たな製鉄所の建設を決定し、義父はこの時の建設本部の経理係の要員として採用されたのである。

▶義父は昭和17年に22歳で応召され本渓湖を離れたようであるが、詳細は分からない。いずれにしろ、昭和20年8月に日本が敗戦を迎えた時、本渓湖には約8000人近い日本人製鉄関係者が残っていて、ソ連軍と中国軍(共産党軍と国民党軍)が交互に進駐してくる中、全ての財産を捨てて命からがら日本に引き揚げることになったようである。残された製鉄所は、一時期ソ連軍の略奪にあって主要な設備を殆どソ連に持っていかれた為操業を停止したが、戦後しばらくして中国政府のもとで本渓鋼鉄集団有限公司として再出発する。

▶本渓鋼鉄集団は、2021年に中国遼寧省の鞍山鋼鉄集団(旧昭和製鋼所が起源)と合併して、粗鋼生産能力が6300万トンにも及ぶ巨大鉄鋼集団の傘下に入った。この鉄鋼企業は、アルセロール・ミタル、宝鋼集団に次ぐ世界第3位の規模を誇る。ちなみに私は20年程前に本渓鋼鉄に近い鞍山鋼鉄集団の鞍山製鉄所を見学させてもらったことがあり、この時は瀋陽(旧奉天)も訪れて昔日の満州の面影の一端を知ることができたが、この時すでに義父は亡くなっており、残念ながら土産話をすることはかなわなかった。

▶話は少し戻るが、昭和47年にかつて本渓湖煤鉄公司に関係した人たちを中心に「本渓湖会」が結成され、新橋の新橋亭で第一回本渓湖会が開催され、義父も参加した。義父はその後も会の中心メンバーの一人として活躍したが、どういう訳か義母や娘である私の妻は義父の活動には興味を示さず、義父はもっぱら私にのみ本渓湖にいた頃の話をしようとした。ただ私も当時はまだ若く、本渓湖と言われても全くピンと来なくて、義父の話をやや上の空で聞いていたような気がするが、今考えればもったいないことをしたと思っている。

▶ところで、義父は戦後仕事が色々変わったが、昭和20年代の末頃に神戸の摩耶興業という鋼材加工会社に勤めていたことがある。義父は程なくこの摩耶興業を離れたが、摩耶興業時代には取引先の製鉄会社とはかなり親しい関係にあった。その後この摩耶興業とS鋼材とA特殊鋼の3社が、くだんの製鉄会社の社長の肝いりで合併してK商事という会社に大同団結する。昭和52年に私は製鉄会社に就職するが、実はその会社はK商事の親会社となっており、義父はこの間の経緯をよく知っていた。義父が私の就職先を喜んだのは、そういう歴史があったからなのだ。

▶そして義父が亡くなってから14年後の2008年に、私は製鉄会社を辞めて系列の商社に移った。当初私は義父の件はまったく忘れていたが、この会社の前身がかつて義父も関係していたことのあるK商事であることを改めて思い出して、その偶然の重なりに私自身もかなり驚いた。

▶改めて「太子河」を開いて読む。この本は、かつて満州本渓湖に暮らした人々の喜怒哀楽の思いが詰まった本であり、本渓湖会の活動の一つの集大成として編集されたものである。私の義父は、編集委員会代表として、この活動に参画した。それは今回初めて知ったことである。大部の本の中に赤のボールペンで印がついている箇所が幾つかあるのを発見した。いずれも義父が直接関係していた項目で、掲載している白黒写真には自分が写っているところが赤〇で囲んであり、義父の字で説明書きも書いてある。その僅かな説明書きを読みながら、これはまさしく、私に読んでくれと義父がわざわざ残してくれた、私へのメッセージなのだと改めて思った。

日中友好の架橋に(第一回本渓湖会後の礼状)

○○○○(義父の名前)

秋冷の候、この度の本渓湖会と130名もの大勢の人が一堂に会し、30年振りに旧交を温め、懐かしい本渓湖の楽しかった生活の追憶を新たにした一刻を過ごし得たことは、偏に旧大倉鉱業のご理解のもとに、主催者関係各位の並々ならぬ御努力の賜と心より感謝いたします。・・・・以下略・・・それだけに、これから始まる日中国交が末永く友好を保つためには、私たちの一人ひとりが次の世代に真の友好の在り方を、体験を通し教え伝えなければならないと思います。・・・・・御礼方々、私見を混じえ歓びの感謝の意を書き綴りました。

中央建物○○○○様