マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

クルマ修理の顚末記


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▶先日修理に出していたクラウンが返ってきた。このクルマは昨年夏に乗り換えた時、バンパーの左下と左側面ドアの下に擦ったようなキズがあったので、購入と同時に修理に出して、バンパーは再塗装、ドア下は部品を交換し、お蔭様でその部分は新品同様になった。代金は12万円程かかったが、もちろんその分は購入時に割り引いてもらっている。昨夏の修理が終わった時、修理業者から冗談まじりに「またぶつけるようなことがあればいつでも持ってきてください」と言われ、そうそうお得意さんにはならないよと苦笑いしたことを覚えている。

▶ところが4月初めの金曜に友人と成田にゴルフに行った際、帰り際にゴルフ場の駐車場に停めておいたクルマに戻ると、フロントガラスに「お疲れ様です。帰る前にフロントにお立ちよりください。」と言う張り紙がしてある。何事かと思ってすぐにフロントに行くと、別の客が車庫入れの際に私のクルマにぶつけたことが分かった。驚いてクルマを確認すると、確かに右側の前照灯の下の部分のバンパーが大きく傷ついている。

▶おいおい冗談だろと思ったが、当てられたのは間違いない。この時は一緒にいた友人を成田駅まで送る予定だったのだが、その友人が私以上に興奮して「車庫入れでぶつけるとはけしからん」と怒っている。ゴルフ場の支配人が「相手の方は女性で、現在お風呂に入っているのでしばらくお待ちください」と言うと、友人がすかさず「風呂場に行ってすぐに出てくるように言ってくれ」と更に息巻いた。

▶とにかく仕方がないので友人と二人でレストランのコーヒーを飲みながら待っていると、風呂から出たくだんの女性がやってきた。大変恐縮している態で「私の不注意でこんなことになり、まことに申し訳ありません」と平身低頭している。見れば40代くらいのセレブ女性で、住所を確認すると都内の良い所に住んでいることが分かった。彼女はテスラでこのゴルフ場に来たのだが、運転が下手なのでぶつけたのは今回が初めてではないという。まったく私にとっては運が悪かったとしか言いようがない。

▶相手が全面的に非を認めているので、事故のことをそれ以上責めても仕方ないと思いこちらも矛を収めようと思っていると、先ほどあれほど興奮していた友人が私より先に「いやあ、こういうミスは誰でもありますよ。とにかく帰りの運転の際は気をつけた方がいいですな」などと調子のいいことを言うものだから驚いてしまった。随分と若い女には甘い奴だ。とにかくあとの処理は修理工場と相手の保険会社に任せることにしてその場は別れたが、成田まで送っていく途中でその友人が「修理が終わったら彼女に連絡をとってメシでも誘ったらどうだ」と言ったのには思わず口をアングリ。

▶翌日は土曜日だったが、昨年お世話になった近くの修理工場にクルマを持ち込んだ。担当者は私の顔を覚えていて、クルマの車検証のコピーなどは昨年渡してあったので、すぐに修理の見積もりをしてもらった。こすりキズなので塗装のやり直しかと思ったが、結局バンパー交換になった。まあ、相手の保険会社も問題ないと言っているのでその方向で修理してもらうことにした。

▶最近のクルマは、バンパーに色々なセンサーを装着してあるので、バンパー修理には結構神経を使うのだそうだ。ベンツなどは塗装の仕方でセンサーが狂うこともあるらしい。そして先週の木曜日に部品の手配が整ったので修理工場に入庫。翌日バンパーを外したところセンサーは問題がなかったのですぐに交換作業が完了した。土曜日にクルマを引き取ったが、バンパーが新しくなったので、昨夏に塗装のやり直しをしたところも含めて全てキレイになってしまった。不幸中の幸いである。しかし、こういのも事故車扱いになるのだろうか・・・。

▶クルマを引き取る際、修理工場の担当者からは「何かあればまたどうぞ」と言われたが、そうそうお世話になる訳にはいかないと思いながら家まで戻った。なお、その後くだんの女性とは連絡をとっていませんので、念のため。

 

 

 

今年も桜を見ることができました


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▶春は花見、秋は紅葉狩りという定番の行楽を毎年のように繰り返してきて、はてさて一体何年になるだろう。今年は関東地方の開花が昨年より大幅に遅れたため、3月末に計画していた花見は殆ど空振りに終わってしまった。それでも4月の第一週には家の近くの桜も満開になり、私も散歩がてらに今年も桜の花の下を歩くことができた。それにしても、花の下に立ち止まって写真を撮っている人などを見かけたりすると、誰しも桜に対する思いは同じなのかなと思ってしまう。

▶若い時は単純に花の美しさを愛でていたのだろうが、年を重ねて現在のような年齢になってくると、美しさを愛でるというより、桜の花に人生の儚さを重ねるようになってくるから不思議である。伝説の美女と言われた小野小町は「花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに」と詠んだ。小町も花に我が身の移ろいを見たのだろう。
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▶近くの桜は見たとはいえ、近所の散歩だけでは何となく物足りない気分が残ったのも事実で、思案の挙句、11日は父母の墓参りを兼ねて前橋の珊瑚寺(菩提寺)まで出かけて行った。この寺は境内一面に桜があって、満開から散り際がとりわけ美しい。当日はまさに満開だったが、墓を訪れる人は殆どなく、私は周囲に咲き誇る桜を独占した。近くには道の駅があって、いつもはこちらで花を買ってから墓参りをするのだが、この日はあいにく売店が休日閉鎖だったので、近くの山に生えていた水仙を摘んで父母に供えた。水仙と桜が同時に見られるのも珍しい。

▶墓参りを済ませてから前橋市の中心部まで下りていった。そのまま千葉まで戻ってもよかったが、久しぶりに子どもの頃に行ったことのある敷島公園に行ってみる気になった。この公園は、前橋市の中心部から北西に少し離れた利根川際にあって、県営野球場やボート場などがあり、市民の憩いの場となっている。子どもの頃には遠足に来たり、親戚の従弟たちとボート場でボートを浮かべてよく遊んだものだ。
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▶桜が咲く敷島公園を散策していると、時間が50年前にタイムスリップしそうだった。ボート場に隣接して広大な松林が広がっているが、私がまだ小学校に入る前に、父母と妹と4人で、この松林にピックニックに来たことを思い出した。その時は偶然にも近所に住むお爺さんも自転車で遊びに来ていて、私たちの輪に加わったことを覚えている。どういう訳か我が家にはその時の写真が残っていて、そのスナップ写真の出来栄えはプロ級なのだが、さて一体誰に撮ってもらったのだろう。

▶11日は敷島公園からまっすぐ千葉まで戻った。今年の花見はこれで終わりかと思ったが、実はそうではなかった。週明けの15日の月曜日に、今度は南会津湯野上温泉に行った。ここには気に入った温泉民宿があって、たまたま15日が空いていたので骨休めをするつもりで予約を取っておいたのだった。当日は宇都宮まで東北道で行き、ここで降りてインター近くの餃子専門店で昼食をとってから、会津西街道を使って湯野上温泉まで行った。


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湯野上温泉は、JR湯野上温泉駅の駅舎の桜が有名で、何年か前の4月に妻とここを訪れた時、たまたま満開の桜が散り始めたところで、私たちは桜吹雪の下で写真を撮った。今回行くと、鉄道写真ファンと思しき人たちが、満開の桜を背景に列車の写真を撮ろうと集まっていた。時刻表を見ると、列車が来るのはまだ30分以上も後のことだが、彼らは自分の位置を確保して動かずに待っている。私は早々と宿に引き上げて温泉に入った。

▶翌16日は、ここから70㎞ほど先にある「三春滝桜」を見に行った。この桜は樹齢千年ともいわれる紅シダレ桜で、山梨の「山高神代桜」岐阜の「根尾谷薄墨桜」と並ぶ日本三大桜の一つであるから一見の価値がある。実はここも妻と一度来ているが、その時は残念ながら葉桜だった。今年は満開となったのが10日前後で、14日までは満開が続いたようだが、この日は既に7割方散っていた。ただ滝桜の裏山に咲くソメイヨシノは今まさに満開だった。


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▶樹齢千年と言えば、人間に例えれば何歳くらいだろうか。幹回りが10mはあろうかと思われるシダレ桜だが、何本もの添え木に支えられて、やっと立っているといった風情である。周囲は黄色の菜の花が満開で、背景のソメイヨシノもあでやかであるだけに、僅かに花が残った主役の滝桜の姿が何ともけなげな感じがする。満開であればこんな感じではないだろうと思いつつも、やはり千年の時の流れには抗えない。いずれこの桜も倒れる時がやってくるだろうが、果たしてそれはいつのことだろうか・・・そんなことを思いながら滝桜を後にした。
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▶結局今年も桜を見ることができた。桜はいいものだ。年を取ればとるほど花見の味わいが増してくる。来年もまた見たい、そして見ればきっと昔のことを思い出すだろう。

「さまざまのこと思い出す桜かな 芭蕉

 

「太子河」満州本渓湖100年の流れ


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▶先日本棚を整理している時に、「太子河」という大判の本(A4版で380ページ)を見つけた。太子河と聞いて俄かに分かる日本人は極めて少ないと思われるが、中国東北地方(旧満州)を流れる河の名前である。この本は、かつて私が義父からもらったものであるが、もらった後もページを殆ど開かないまま、我が家の本棚の最下段に眠っていたものである。奥付を確かめると1992年11月の発行とあり、発行元は本渓湖会とのこと。義父は編集委員会のメンバーとして、この本の発行に深く関わっていた。

▶義父は大正10年(1921年)の3月生まれなので、生きていれば今年で103歳となる。しかし平成6年(1994年)10月に、自宅で昼寝中に心筋梗塞で急逝した。当時まだ73歳と若く、ポマードをつけた豊かな頭髪には白髪が1本もないのが自慢の義父だったので、妻から知らせを聞いた時は心底驚いた。実は亡くなる2週間前に、義父の先導で岐阜中津川にある先祖の墓を自宅近くの小田原市営霊園に移したばかりで、この時は私と妻も会社を休んで墓じまいを手伝ったのであるが、その直後に施主であった義父が亡くなるのだから、人の運命は分からない。

▶さて、私と義父の間にはちょっとした因縁があって、それは私が妻と結婚したあとに次第に分かってきたことなのだが、当時妻との結婚を前にして私はある製鉄会社への就職を決めたのだが、その際義父が思いのほか喜んだことがあった。しかしなぜ義父がそんなに喜んだのかは、当時の私は全く分かっていなかった。ところで私は就職後に製鉄所の会計課原価計算掛に配属されたが、実は義父も若いころ製鉄会社に勤務していた経験があり、しかも同じように一時期経理業務を担当しているのである。この事実は、今回「太子河」を読んだことにより判明した。

▶義父一家は、昭和14年に北海道(⇐岐阜中津川)から満州に渡り、義父は父親と弟と共に「本渓湖煤鉄公司」に入社した。この公司(こんす=会社)は、大正4年(1915年)に日本の財閥大倉組が旧満州の本渓湖(現在:遼寧省本渓市)に中日合弁で建設した製鉄会社で、昭和14年当時は、満州国と大倉組の合弁会社として、主に日本海軍向けに低燐銑(純銑鉄=燐分が低い高級な銑鉄)を供給する戦略的位置づけの製鉄所を経営していた。大倉組は、日中戦争の最中の昭和15年に、本渓湖宮の原地区に新たな製鉄所の建設を決定し、義父はこの時の建設本部の経理係の要員として採用されたのである。

▶義父は昭和17年に22歳で応召され本渓湖を離れたようであるが、詳細は分からない。いずれにしろ、昭和20年8月に日本が敗戦を迎えた時、本渓湖には約8000人近い日本人製鉄関係者が残っていて、ソ連軍と中国軍(共産党軍と国民党軍)が交互に進駐してくる中、全ての財産を捨てて命からがら日本に引き揚げることになったようである。残された製鉄所は、一時期ソ連軍の略奪にあって主要な設備を殆どソ連に持っていかれた為操業を停止したが、戦後しばらくして中国政府のもとで本渓鋼鉄集団有限公司として再出発する。

▶本渓鋼鉄集団は、2021年に中国遼寧省の鞍山鋼鉄集団(旧昭和製鋼所が起源)と合併して、粗鋼生産能力が6300万トンにも及ぶ巨大鉄鋼集団の傘下に入った。この鉄鋼企業は、アルセロール・ミタル、宝鋼集団に次ぐ世界第3位の規模を誇る。ちなみに私は20年程前に本渓鋼鉄に近い鞍山鋼鉄集団の鞍山製鉄所を見学させてもらったことがあり、この時は瀋陽(旧奉天)も訪れて昔日の満州の面影の一端を知ることができたが、この時すでに義父は亡くなっており、残念ながら土産話をすることはかなわなかった。

▶話は少し戻るが、昭和47年にかつて本渓湖煤鉄公司に関係した人たちを中心に「本渓湖会」が結成され、新橋の新橋亭で第一回本渓湖会が開催され、義父も参加した。義父はその後も会の中心メンバーの一人として活躍したが、どういう訳か義母や娘である私の妻は義父の活動には興味を示さず、義父はもっぱら私にのみ本渓湖にいた頃の話をしようとした。ただ私も当時はまだ若く、本渓湖と言われても全くピンと来なくて、義父の話をやや上の空で聞いていたような気がするが、今考えればもったいないことをしたと思っている。

▶ところで、義父は戦後仕事が色々変わったが、昭和20年代の末頃に神戸の摩耶興業という鋼材加工会社に勤めていたことがある。義父は程なくこの摩耶興業を離れたが、摩耶興業時代には取引先の製鉄会社とはかなり親しい関係にあった。その後この摩耶興業とS鋼材とA特殊鋼の3社が、くだんの製鉄会社の社長の肝いりで合併してK商事という会社に大同団結する。昭和52年に私は製鉄会社に就職するが、実はその会社はK商事の親会社となっており、義父はこの間の経緯をよく知っていた。義父が私の就職先を喜んだのは、そういう歴史があったからなのだ。

▶そして義父が亡くなってから14年後の2008年に、私は製鉄会社を辞めて系列の商社に移った。当初私は義父の件はまったく忘れていたが、この会社の前身がかつて義父も関係していたことのあるK商事であることを改めて思い出して、その偶然の重なりに私自身もかなり驚いた。

▶改めて「太子河」を開いて読む。この本は、かつて満州本渓湖に暮らした人々の喜怒哀楽の思いが詰まった本であり、本渓湖会の活動の一つの集大成として編集されたものである。私の義父は、編集委員会代表として、この活動に参画した。それは今回初めて知ったことである。大部の本の中に赤のボールペンで印がついている箇所が幾つかあるのを発見した。いずれも義父が直接関係していた項目で、掲載している白黒写真には自分が写っているところが赤〇で囲んであり、義父の字で説明書きも書いてある。その僅かな説明書きを読みながら、これはまさしく、私に読んでくれと義父がわざわざ残してくれた、私へのメッセージなのだと改めて思った。

日中友好の架橋に(第一回本渓湖会後の礼状)

○○○○(義父の名前)

秋冷の候、この度の本渓湖会と130名もの大勢の人が一堂に会し、30年振りに旧交を温め、懐かしい本渓湖の楽しかった生活の追憶を新たにした一刻を過ごし得たことは、偏に旧大倉鉱業のご理解のもとに、主催者関係各位の並々ならぬ御努力の賜と心より感謝いたします。・・・・以下略・・・それだけに、これから始まる日中国交が末永く友好を保つためには、私たちの一人ひとりが次の世代に真の友好の在り方を、体験を通し教え伝えなければならないと思います。・・・・・御礼方々、私見を混じえ歓びの感謝の意を書き綴りました。

中央建物○○○○様

空振りが続く日々


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▶先月の28日に東京で昔の会社の同僚との飲み会があった。この日程が決まったのは2月中旬のことで、日程からも分かるように、花見が前提の飲み会である。地球温暖化の影響か、東京地方では毎年桜の開花が早まっており、昨年は3月18日には既に開花している。さすがに3月28日では花も散っているかも知れないとは思ったが、目前にはイタリア旅行が計画されていたので、花見は花見として帰国後に改めて検討しようと思っていた。

▶15日に帰国すると別の友人からメールが入った。25日~26日あたりが桜が満開になりそうなので、もう一人の友人と3人で花見でもしないかとの誘いである。お互いの日程を検討すると27日しか予定が合わず、しかも当日午前は日比谷で私の定期健康診断(含む胃内視鏡)の日程が入っていたので、開催のハードルはかなり高い。しかし、私の検診終了後まで待っているから一緒に飲もうという2人からの大変有難い申し出を無碍に断る訳にもいかず、昼間の飲み会が決定。この時点で27日と28日の連チャンで花見の予定が確定した。ただその後、開花予報はどんどん後ろにズレていく。

▶27日は晴れて暖かった。午前10時過ぎから健康診断が始まったが、当初の見込みよりも時間がかかり、内視鏡検査が始まったのが午後12時半。検査では軽い麻酔を使用するので、終了後もベッドで30分程気持ちよくまどろみ、全部終わったのが13時半。早速メールをチェックすると、日比谷公園の桜は1~2輪ほどしか咲いていないので、直接飲み屋に来られたしとのことだった。場所は日比谷シャンテ近くの店で、一階が魚〇本店、二階が牛〇本店で、二階で既に飲み始めているのですぐに来いとのこと。

▶電話番号もなく、牛〇本店ではよく分からないので、正確な店名を教えてくれと再三メールするも、分からなかったら近くに来てからもう一度メールしろとのつれない返事だ。困った奴らだと思いつつも、仕方ないので日比谷シャンテまで歩いてウロウロしていたら意外と早くその店を見つけた。

▶店名は確かに「牛〇本店」で、一階は「魚〇本店」だった。こんな名前の店が本当にあるんですね。あまりにバカらしいので思わず笑ってしまう。それにしても、友人はよくこんな店を見つけたものだ。結局2時間ほどそこに居たが、花見とは全く名ばかりの、しかも誘ってくれた友人の一人が途中で急用で帰ってしまったりして、店名と同じく、いたって締まりのない飲み会となった。しかし、まあこれはこれで許せる。

▶翌28日は、曇りで夕方から雨の予報だった。予定どおり午後6時過ぎを目途に九段下の地下鉄の出口に集まる。昨日は暖かかったのに今日現在も桜は全く咲いておらず、左手の武道館へ繋がる道も閑散としている。千鳥ヶ淵の入り口に待機している警備員さんも、手持無沙汰状態だ。あいにく雨も降り出してきたが、皆さん花より団子を優先しているためか比較的明るい顔をしている。花のない千鳥ヶ淵を歩くより、せっかくだから靖国神社の桜の標本木でも見てから飲もうということになり、早速神社の境内に入って行った。

靖国神社の本殿は既に夕闇に沈んでいた。参道の脇には提灯が飾りつけられていて、一部には明かりが灯っているので、雰囲気は悪くはないが、小雨も降っていて、人は殆ど歩いていない。二の鳥居をくぐった先からは柵で止められて本殿には行けず、右手にある桜の標本木は暗くて殆ど見えない。近くにいた警備員さんに様子を聞いたが、やはりまだ開花していないとのことだった。それでもめげずに、その警備員さんにスマホを渡して、参加者が集まって集合写真を撮ってもらった。要するに花は関係ない。

▶その後は市谷駅近くまで歩いて、予定している店に入った。今年の花見は完全に空振りだったが、飲み放題つき8千円の飲み会の方は大盛り上がりで、午後10時過ぎにお開きとなって家に戻ったら12時近かった。これもこれで結構。

▶翌3月29日、とうとう東京で桜が開花した。しかし、昨年と比べて2週間近く遅いので、各地の桜まつりの実行委員会も空振りが続いている。私の家の近くの通りでも自治会が毎年桜まつりを開催しており、その際は桜が舞い散る道路は歩行者天国となり屋台も出て大賑わいとなる。今年は30日と31日が桜まつりだったが、千葉ではまだ桜が咲いておらず、先日クルマで通ったら、何も咲いていない道を封鎖して、屋台が出店していたが、さすがに花がない桜まつりはいただけない。

▶空振りはまだまだ続く。年度が変わった4月1日は、以前から予定していたゴルフのコンペがある日だった。直近の天気予報は決して悪くなかったので、ゴルフが終わったら同伴メンバーを私の行きつけの居酒屋に招待するつもりで、前夜遅く居酒屋の女将にテーブル予約の電話を入れておいた。ところが朝起きたら今にも降り出しそうな天気で、クルマでゴルフ場に向かっている最中に本格的な雨となった。

▶結局午前8時のスタート前には中止が決定し、私はレストランでコーヒーだけ飲んで家に戻った。しかし、戻った頃には雨が上がり、天気はみるみる回復してきた。することがないので午後はゴルフ練習場に行ったが、ゴルフに続いてやる予定だった居酒屋での飲み会の方はキャンセルとなり、その旨を女将に電話して了解してもらったが、女将さんからは「残念だったわね」とねぎらってもらった。こういうこともある。

▶そして今日は、東京で夕方6時から以前の職場にいた頃の同僚2名が退職するというので、彼らの退職祝いの飲み会が企画されていた。ところが午前10時前に幹事をしてくれている先輩から電話があり、主賓となるべき一人の同僚の母親が急逝したので、彼の参加が取り消されたとの知らせだった。そして最終的にこの飲み会もキャンセルとなった。つい先ほどのことである。それにしても空振りが多い。

▶そういえば、3月のイタリア旅行中に次女が二人目を出産したので、3月中に二度ほど次女の家まで孫の顔を見に行く予定があった。しかし、一度目は次女が新型コロナに感染したので1週間延期となり、二度目は次女の旦那の実家で不幸があったので更に延期された。よくよく考えると、これほど短期間に空振りが重なるというのも珍しい。そして今週末は三度目の正直で孫の顔を見に行く予定なのだが、空振りにならなければいいが・・・。

 

 

イタリア旅行を終えて

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▶3月15日の午後4時半過ぎに、JL408便で成田まで戻った。前日の昼過ぎにローマのフェミチノ空港からルフトハンザでフランクフルトまで飛んで、そこからJAL便に乗り継いだが、途中の乗り継ぎ時間も含めると、何だかんだで20時間近くかかった計算になる。とにかく、無事にJALに乗り込んだ時は、長かった2週間のあれこれを思い返し、正直ほっとした。機内でCAにウェルカムシャンペンをサーブしてもらったが、その旨かったこと。

▶今回のイタリア旅行は、3月2日に離日し、3日にローマに入って、14日にローマを発つ日程なのだが、途中8日から12日まではナポリに滞在するというやや変則的な行程をとった。その分移動や宿泊の手間が複雑化し、トータルでは若干費用や時間がかかったが、帰国時の乗り継ぎのトラブルを回避し、確実にJAL便に搭乗できることを優先した結果、敢えてこのような日程とした。結果的に列車の移動や飛行機の乗り継ぎは極めてスムーズで大きな問題は起こらず、それ以外にも、旅の最後に再びゆっくりとローマ市内観光をすることができたので、これは本当に良かった。

ナポリからローマに戻ったのは12日の昼頃で、その日はテルミ二駅近くの宿にチェックインしてから、市内北部にある広大なボルゲーゼ公園に向かった。ここには有名なボルゲーゼ美術館があり、カラヴァッジョの絵画やベルニーニの彫刻が必見なのだが、入場に予約が必須なことはバチカン美術館と同じで、あいにく私は予約は持っていない。しかし、とりあえず行ってみることにした。

▶この美術館は入場は2時間単位の時間制を取っていて、午後は1時、3時、5時が入場のタイミングとなっている。午後2時半にエントランスホールに行くと、でかでかと「当日のチケットは全て売り切れ」との張り紙がしてある。やはりそうだよね、と思いながら、それなら絵葉書でも買おうかと思い併設するショップに入った。ショップから出てきてふと見ると、「ラストミニッツ・チケット」と書いてある看板が立っていることに気が付いた。

▶この美術館は完全予約制が原則なのだが、聞けば、当日の混み具合で、時間と人数限定でフリーの客を入場させているようだ。この日は並んだ順に13人限定で、ラストミニッツとあるように、通常2時間の見学時間が大幅に制限され、今日は僅か45分しかないが、それでも良ければ並んでくださいとのこと。列の長さを見たら数人が並んでいるだけなので、迷わず並んだ。なお料金は、割引などなく正規の13ユーロだった。

▶午後3時から辛抱強く並んで入場を待つ間、予約券を持つ人達が次々に入場していく。こちらは45分と鑑賞時間が限定されているので、全部を回ることは初めから諦めて、絶対見るべきと言われる作品を幾つかネットで調べる。午後4時近くになって、やっと入場の許可が出た。これなら1時間は鑑賞する時間が取れそうなので、目当ての作品があるところまですっ飛んで行った。入場制限がかかっているので、館内は思ったより空いている。

▶真っ先に向かったのは「プロセルピーナの略奪」。これは17世紀初めのベルニーニ作の大理石彫刻で、冥界の王プルートウが、豊穣の女神の娘プロセルピーナに一目ぼれして、これを略奪しようとするギリシャ神話を題材にしており、神様だから許される訳ではないだろうが、とにかく二人の絡み合いが真に迫り、とてもこれが大理石から削り出された代物とは思えない出来栄えである。
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▶ベルニーニはイタリアのあちこちに多くの彫刻を残しているが、特に有名なのはこの彫刻と言われている。写真で見てのとおり、とにかく肉体の質感が生々しい。この作品だけで15分近く見ていたが、彫刻の出来栄えというならバチカンミケランジェロ作のピエタ像に匹敵するものだ。しかし、ピエタが聖マリアとキリストを題材にするなら、こちらはギリシャの神様とは言え、男と女を題材にした極めて人間臭いもので、精神性の深さというようなものは、ピエタには到底及ばぬように見えるのだが、さてどうだろう。

▶次に見たのは同じくベルニーニ作の「ダビデ像」。こちらは古代イスラエル王のダビデが巨人ゴリアテに向かって投石器で石を投げる瞬間を表したもので、旧約聖書を題材にしている。躍動する瞬間を見事に捉えているが、「プロセルピーナの略奪」のような生々しさには欠ける。彫刻も何を題材にするかで、印象が随分と変わるものだ。同じくベルニーニの「アポロとダフネ」もバロック彫刻の傑作とされ、こちらも時間をかけて見た。この像は土産物屋の絵葉書でも売れ行きが良さそうだが、やはり「プロセルピーナの略奪」にはかなわない。
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▶この他に、カラヴァッジョの絵画が何点かあり、こちらは光と影の描き方が独特で、いずれもバロック絵画を代表するものと言われているようだが、彫刻の鑑賞に時間をかけてしまったので、それほどじっくり見る時間が無かったのは残念であった。しかし、もともとそのつもりだったので、午後5時近くになって最後にもう一度「プロセルピーナの略奪」に戻って、この彫刻に挨拶してから美術館を退出した。ラストミニッツ・チケットを購入できたのは本当にラッキーであったと、今でもそう思う。

▶翌日はローマ観光の最終日。朝一番で昨日のボルゲーゼ公園に散歩がてら行ってから、スペイン広場、トレビの泉、トラヤヌスの記念柱、ヴェネツィア広場、フォロ・ロマーノコロッセオを見ながら歩いた。何だか随分前に見たような気分だが、トラヤヌスの記念柱を除き、いずれも数日前に見たもので、もう一度この目に焼き付けておこうと思いながら歩いた。
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そこからアウレリウスの城壁に沿って更に歩き、ローマを代表するサン・ジョバンニ・ラテラノ大聖堂、サンタクローチェ・イン・ジェルサレンメ教会(※舌を噛みそう)、サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂を立て続けに見学し、軽くピザでランチを取ってから、最後にテルミニ駅近くのローマ国立博物館に行った。

▶ローマ国立博物館で見たのは主に二つで、一つはローマ初代皇帝アウグストゥス像で、こちらは世界史の教科書では有名なもの。幸いなことに部屋には私以外誰もいなかったので、セルフタイマーを使って写真を撮った。もう一つの見どころは、彼の后であったリビアの居間に描かれていたフレスコ画。こちらは2千年の時を隔てて良くもこの色彩が残っていたものだと感心する。二つとも、今回の旅行の掉尾を飾るに相応しいもので、極めて感銘深いものであった。参考の為に、以下に写真を載せておく。
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▶15日の午後7時前には無事家に戻ったが、私の家にある全てのものが、私に「おかえりなさい」と挨拶してくれている気分だった。それにしても、人生の一つの区切りともなる、よい旅であった。

 

ナポリ最後の日


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▶春先のイタリア中部の天候は不順で、晴れていると思うと突然雷雨が襲ってきたり、逆に雨が見るみるうちに上がって、美しい青空が現れたりする。11日の月曜は実質的にナポリの最終日だったが、朝目覚めて部屋のカーテンを開けると、外は雨が降っていた。

▶昨日ポンペイに行ってきたので、何やら一仕事終えた感じで、元々この日は予備日として取って置いた日でもあるので、気分的にゆっくりしている。天気が良ければヴェスヴィオ山に登山電車を使って登るか(※その後調べたら登山電車は無くなっていました)、あるいはソレントにでも足を伸ばすつもりでいたのだが、この雨ではそうもいかない。部屋で溜まっているブログでも書こうかと覚悟を決めた矢先に、雨が上がってきた。

▶予報を確かめると相変わらず良くない。やはり遠くに出かけるのはやめて、ナポリ市内の良さそうな所でも行ってみようかと思い、急遽準備して出かけた。目指すは、ナポリ市内の西側にある小高い丘で、ここにはナポリ市内を見渡すように聳えるサンテルモ城と、隣接するサンマルティーノ美術館がある。行き当たりばったりだが、こういうのも悪くない。
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▶行く途中に、サンタ・ルチア海岸にある名所の卵城に立ち寄った。海岸に立つ要塞で、ここから海越しに見るヴェスヴィオ山の景色が良い。工事中の為中には入れないが、それでも入口に通じる正面道路からの景色はなかなかのものだった。青空が出てきたので何だか全てが美しく見える。ヨットハーバーまで降りて行ったが、地中海に停泊しているヨットも実に絵になりますな。ナポリの海はとても澄んでいた。
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▶卵城を後にして丘に登るフニクラーレ(登山電車)の駅まで歩く。フニクラーレと言えば思い出すのは「フニクリ、フニクラ」の唄で、あの唄はナポリ民謡だったかと納得。香港のビクトリア・ピーク程ではないが、気持ち良くケーブルカーで丘を登った。

▶終点のモルゲン駅を降りて少し歩くとサンテルモ城が見えてきた。近くで見るととんでもない迫力で迫ってくる。

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ここでの目的は、城の上から眺めるナポリの景色で、城の見学などさて置いて、屋上まで一気に登った。期待に違わず、ここから見るナポリとヴェスヴィオ山は最高と言っていいだろう。嬉しさのあまり必死で写真を撮りまくったものの、後で見たら全て同じような写真だった。
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▶景色を十分堪能したあと隣接するサンマルティーノ美術館に行ったが、ここで突然空が暗くなり雨が降ってきたから、ナポリの天候は怖い。これ幸いと美術館に入場したが、実にラッキーだった。この美術館は、修道院を改修して美術館にしたもので、国立美術館でもある。見どころは18世紀頃のナポリの風俗を人形で表現した「プレゼービオ」で、この説明は以下の写真を見てもらった方が早い。

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▶美術館を出る頃には雨も上がったので、フニクラーレで山を降りてからは、ナポリの下町をぶらぶらしながら宿舎まで戻った。ナポリに入った時の自分の評価は、決して高いものでは無かったが、こうして過ごして見ると、なかなか味わい深い街であることが分かってくる。美術館もいいが、こうしてぶらぶら街歩きをするのも悪くはない。
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ナポリ最後の夜だったので、駅前のホテルのレストランで食事をした。ここで食べたアサリのパスタは、イタリアで食べたパスタでは最も美味しかった。やはり良いレストランの食事はそれなり旨い。
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ポンペイの悲劇


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ポンペイは、ナポリから東南におおよそ25km程離れた所にある街である。西暦79年、ポンペイから10km程離れた所にあるヴェスヴィオ山が突然大爆発を起こした。降下する火山弾や火山灰の下で人々は逃げ惑ったが、その半日近く後に今度は大規模な火砕流が発生し、一瞬の間にポンペイ全域を呑み込んでしまった。これにより、ポンペイに残っていた人々は全滅。そしてその後も降り積もる火山灰によって、ポンペイは街の全てが埋まってしまったのである。
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ポンペイの悲劇の実相は、大噴火を目撃したローマ人の大プリニウスの甥の小プリニウスタキトゥスに書いた手紙よってかなり詳細に知ることが出来る。一方で、火山灰に完全に埋まってしまったポンペイは、その後次第に人々から忘れさられ、およそ1700年もの間放置されたままの状態となる。

▶このようにポンペイは歴史上から忘れ去られた街であったが、18世紀になって一部の発掘が始まったことからその存在が世界に知られるようになる。そして更なる発掘によって、2千年前の古代ローマ時代の一つの街の生活実態が、あたかもタイムマシンででも見るかのように、現代の世の中に蘇ったのである。奇跡としか言いようがない。そこには当日逃げ遅れて倒れた人の姿までもが、まるで生き写しの人形の如く残っていたのである。
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ポンペイにはナポリからヴェスヴィオ周遊鉄道を利用して行った。予定日が雨の予報だった為、日程を1日ずらした。ポンペイに行った当日は曇りだったが、朝から時折強風が吹くあいにくの天気である。世界遺産でもあるポンペイ遺跡は、夏の観光シーズンなら大変な混雑となるが、オフシーズンのため比較的空いていた。多少のトラブルはあったが、駅前近くにある入場口より午前9時過ぎに無事遺跡に入場することが出来た。
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▶入場直後の印象は、ローマ市内のフォロ・ロマーノのような廃墟のイメージに近い感じがするも、中心部に進むに連れ、あまりにも整然とした古代の街並みが現れたので驚いてしまった。メインとなる通りには、およそ3.5m幅の石畳の車道が走り、その両側の少し高い所に1m弱の歩道が敷設されている。所々に車道を横切るように歩行者用の飛び石が置いてあり、両側には商店や住居が隙間なく続いている。
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▶石畳の車道には馬車がつけた轍の跡が、まるで線路のように残っているのがリアルである。この遺跡では考古学的調査によって、かなりの数の住戸の持ち主が判明しており、商店などは店先に窯やカウンターが設置され、人さえいれば直ぐにでも商売ができそうな雰囲気に、ただ驚くばかりである。
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▶説明書きによるよると、とある商店の店先で主人と思われる遺骨が発見されたが、周りにはコインが大量に散らばっており、おそらく売上金を持ち出そうとして、大火砕流に直撃され、逃げ遅れたのではないかと推測されている。
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▶庶民の住居でも間口に比べて奥行きがあり、水道なども引かれていた。一方、貴族の家は広大で、中庭や壁画に囲まれた多くの部屋がある。公共施設も充実していて、立派な競技場や劇場があるが、庶民が日常的に利用可能な浴場があるのは、ローマと同じである。ポンペイはワインを産する商業都市であり、西暦79年の時点では既にかなり栄えていたことが分かる。
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▶見学をしていて最も衝撃を受けたのが、公衆浴場の一角に展示されている逃げ遅れて倒れた人の人型である。このような人型が何故残っているのかといえば、火砕流で倒れた人の上に火山灰が降り積もり、長い年月の間に閉じ込められた人の身体は分解して失われたが、結果として化石化した周囲だけが残り、それが発掘された。

▶発掘後にその空隙に石膏を流すと、閉じ込め残られた人の身体が生き写しの人形の如く浮かび上がったのである。見るのも痛ましい光景ではあるが、ポンペイではこのような人型が10数体も発見されている。亡くなった当時のままの己の姿が、2千年の歳月を経てこのような形で再現されるようになるとは、あの世の本人もさぞかし驚いていることだろう。

▶広大な遺跡は全て見て回るには広過ぎるのだが、4時間近くかけると大方は見終わったので、最後に街の中心にある神殿跡まで戻った。ここから北方を見ると、何も無かったかのようにヴェスヴィオ山が聳えているのが見える。絶好のポイントなので多くの人がここから写真を撮っている。私もここから写真を撮った。思ったのは、人間の小さな営みに対して、自然の営みが如何に偉大であるかということである。
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▶遺跡の他に秘儀荘という名のヴィラがあって、ここでは貴重なポンペイの壁画を鑑賞出来るのだが、チケットを買ったにもかかわらず自分の間違いで行きそびれてしまった。ガイドブックの書き方が親切ではなく、心残りだったが、今回は諦めてナポリに戻ることにした。列車がナポリに向かって走り出すと、右手の窓からヴェスヴィオ山が見えてくる。

ナポリポンペイはヴェスヴィオ山を挟んで似たような距離にあるので、あの日の噴火の影響が南東方向ではなく北西方向に及んだとすれば、火山灰に埋まったのはポンペイではなく、あるいはナポリだったかも知れない。そんなことを思いながらポンペイを後にした。
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