マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

日経平均が最高値を更新


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日経平均株価が、昨日の終値でとうとう34年前のバブル期の最高値を抜いた。3万9098円だった。本日の日経新聞は、1面のほぼ全てを使ってこの事実を伝えている。実際にバブルを経験した我々の世代の多くは、1989年末に記録したバブル期の最高値3万8915円がいかに異常な値であるかを知っていたので、再び日本においてこの値を上回る株価が出現するのは、一体いつのことだろう、それは次の世代なのか、あるいは次の次かと思わずにはいられなかった。少なくともこの30年間はずっと。

▶ところが昨年、投資の神様とも称されるアメリカ人のウォーレン・バフェットが来日して日本の商社株を大量に購入したことが知れ渡ってから、株価上昇に弾みがつき、その勢いは年明け後も変わらず、僅か2か月で5600円もの棒上げの状態となった。そして昨日とうとう歴史的最高値を更新した。バブル後の最安値はリーマン・ショック後の2009年3月の7054円なので、その時からみると現在の株価は5.5倍になっている。

イチローが262本の安打を放った時に84年前のジョージ・シスラーの257安打に改めて光があたったように、また大谷翔平の二刀流の活躍がベーブルースの二刀流を改めて思い出させたように、今回の日経平均の最高値更新は、あの30数年前のバブルの時代のことを鮮やかに思い出させる。それは懐かしくも苦い思い出だ。

▶1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで先進5ヶ国の蔵相・中央銀行総裁の会議が開かれ、ドル高是正策(=円高ドル安政策)が合意された。これがきっかけとなって始まった急激な円高と、それにともなう不況克服の為の金融緩和策が、日本に未曾有のバブル経済をもたらした。ジャブジャブの金融緩和に土地やマンションなどの資産価格が急上昇し、株価は急騰した。

▶一坪5万円ほどの千葉の田舎の土地が、瞬く間に5~10倍に上昇した。この時期に住宅を購入せざるを得なかった私たちの世代は、多額のローンを背負って、競うように住宅を買った。当時最も景気がよかったのは株高に潤った証券会社だといわれ、最大手の野村証券では、僅か3ヶ月の一般職の新入女子社員にも100万円以上の夏のボーナスが支払われたと喧伝され、うらやましがられた。サラリーマンは午前様帰りが普通になった。

▶1987年(昭和62年)も株価は上昇を続けた。その年の春だったか、私は生まれて初めて株を買った。当時住んでいた倉敷の駅前に山一證券の支店があり、そこのドアを恐る恐る入っていって口座を開いた。当時の株式の注文は、店頭か電話のみだったので、普通の人にとっては株式投資の敷居は極めて高かったのである。最初に買ったのは園池製作所という工作機械会社の株で、それから毎日のように僅かな値動きに一喜一憂した。こうなると仕事どころではない。結局、園池の株で5万円くらいは儲かっただろうか。

▶ところがその年の夏頃から株価の過熱に伴って騰落が激しくなり、10月19日のブラック・マンデーを迎える。その日、ニューヨークの株式市場では、ダウ工業株30種平均が508ドルも大暴落した。これは一度の暴落幅としては過去最大で、率にしてなんとマイナス22.6%である。

▶そして翌20日東京市場は、全株式売り気配で値が付かないという異常事態で始まった。この日、取材のため兜町を訪れた作家の清水一行は、「そこで目撃した全株売り気配というのは、下腹部に震えが沸き立つくらいの破滅の恐怖感があった」と書いた。彼はまた「資本主義崩壊のシナリオはこの実感であろうと一人納得した」とも書いている。この日、日経平均は1日で▲3836円(▲14.9%)も下落した。

▶暴落が起きたその日、私は胃袋が引きつる思いで山一に電話をかけた。とにかく持ち株を全部売ってくれというと、営業マンは、まだ為替が値段を保っているのでそこまで心配する必要はないなどと呑気なことを言う。しかし、とにかく全株売却してもらった。まだ30代で若かったし、金額的に大した損ではなかったが、それでも積み上げた儲けを全て吐き出しても足りなかった記憶がある。

▶しかしバブルというのは恐ろしい。株価は暴落後しばらくしてからまた上昇を始め、2年後の1989年末にとうとう3万8915円という天文学的値をつけることになる。この時の証券会社のコメントは、来年はすぐに4万円を抜いて、いずれは5万円に迫っていくことになるだろうと言っていた。しかし、歴史は非情である。この株価を更新するのに日本経済は「失われた30年」を経ねばならなかったからである。

▶さて今朝の日経新聞によれば、当時の日本企業の経常利益額が38兆円だったのに対し、現在は95兆円ある。当時の平均PER(株価が一株当たりの利益の何倍かを示す指標)は、61倍を超えていたが、現在は16倍にとどまっている。PERが61倍という意味は、当時の株価が企業が稼ぎだす年間利益の61年分も先取りしていたということで、これが異常でなくして何が異常といえようか。

▶結果的に、当時の日本の株式時価総額は、全世界の株式時価総額に占める割合が驚くなかれ37%の高さに及んだのだ。ちなみに現在の日本株の全世界株に対する比率は6%程度だから、この面からも当時のバブルの凄さが分かるというもの。34年ぶりに現在の株価はようやく当時の株価に戻ったが、この34年間に日本企業は利益が2.5倍に増え、売上高に対する経常利益率も3%から6%に上昇した。失われた30年間は、実は無駄ではなかったということだ。

▶ただ34年という歳月は長かったと、改めて思う。この間私は、家を建て、子どもを育て、その建てた家を損失覚悟で売却して現在の家に引っ越し、そして仕事が変わり、毎年必ず妻と国内旅行に行き、時折は海外旅行も楽しみ、その妻に先立たれて退職と同時に一人暮らしとなり、現在に至る。ちなみに30数年前に始めた株式投資は、売り買いは殆どせずに現在も続いている。

 

再び、マイトレーヤの部屋から


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▶今日は令和6年2月19日。朝ベッドの中でラジオをつけると、アナウンサーが本日は二十四節季の雨水にあたる日だと言っていた。2月4日の立春からしばらくたち、これからは山に降る雪も次第に雨に変わっていく季節になっていくらしい。そういえばここのところ妙に生暖かい日が続いている。今日も季節外れの暖かさで、東京地方では4月上旬の気温となるようだ。

▶そうは言っても階下に降りて温度計を見ると15度くらいだったから、まだ暖房は必要だ。エアコンにするかストーブを点けるか少し迷ったものの、お湯を沸かすことも考えてストーブに火を入れた。我が家の居間にはトヨトミのレインボーという素敵な灯油ストーブが置いてあって、これに点火するとなぜかホッコリとした気分になるのがいい。

▶今日は取り立てて用事があるわけではないので、気分的にはリラックスしている。リタイア後の一人暮らしとはいえ、外出する用事がある時はそれなりにせわしなく、そういう日々が続くと、今日のような静かな日が恋しくなる。朝食はベーコンと野菜を主体としたコンソメスープを作って食べたが、これは胃に優しいのでおすすめ。ちなみに、ベーコンはふるさと納税でいただいた。

▶朝食の片づけを終えたあと、静かにジャズを流しながら、やおらパソコンを開く。目的はブログの執筆。最近は毎週アップするブログの内容を考えるのが仕事になってしまった。このブログを始めたのが令和3年の1月からなので、既に3年は経過したことになる。早いものだ。先ほど記事を数えてみたらナント234本もアップしているので我ながら驚いた。おおよそ1本あたり平均して原稿用紙5~6枚だから、既に1200枚以上書いていることになる。チリも積もればなんとやら、継続は力なりか。

▶ブログを書く効用は色々あるが、書くときには多少なりとも頭を使うので、最大の効用はボケ防止。もう一つは、一人暮らしの私のことを気にかけてくれている家族や友人・知人に対する近況報告のつもりで、まあ簡単に言えば定期的な手紙のようなもの。しかしある友人から、手紙にしては長過ぎて読むのが大変と苦情をいただいたので、これについては少し考え直す必要がある。

▶加えて、この人達は私の氏素性を知っているので、書くことには当然のことながら一定の制約があり、無責任なことは書けないので気をつかう。先日もベトナム出張のことを書いたら、長男から内容が具体的過ぎるとプライバシーに問題が出てくるので気をつけるようにとクレームが入った。ありがたい指摘なのですぐに一部訂正したが、老いては子に従えということか。

▶ブログは概ね1週間に1本アップするのを自分に課しているが、正直に言って私にとってはかなりの負荷である。最近は1本書き上げるのに3時間以上かかるのは当たり前で、下手をすると一日中パソコンに向かい合っている時もある。こうなると最近流行りのリモート・ワークをやっている気分になる。筆が進まない時は最悪で、とりあえず書き始めてはみたものの、途中でギブアップすることもままある。締め切りがある訳ではないが、こうなると更に必死にならざるをえない。

▶それでも200本以上続けているとそれなりに技量は上がってくるもので(※これは主観的な感想です)、これは本質的に小学生の作文の練習と変わらない。書き始める前には当然テーマを考えるが、これが第一の難関。格好のテーマが見つかると後が楽になる。ところがテーマが決まって書き出してはみたものの、途中で別のテーマを思いついたためにテーマが変わってしまうこともある。こうなると支離滅裂な文章にならないようにするのが一苦労だ。

▶ということで、この文章も結局何を言いたいのかよく分からないものになってしまったが、かの兼好法師も「徒然なる(ヒマな)ままに日暮し、硯(すずり=現代のパソコン)に向かいて、心に浮かぶよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ(妙に気分が高ぶる)」と言っているくらいだから、適当なところで切り上げることにしよう。

閑話休題。3月の初めから2週間ほどイタリア旅行に出かける予定で準備を進めているが、なんとかその前までには、事前勉強も兼ねて古代ローマについてのブログでも1本アップしてみたいと思うが・・・さて、できるだろうか。

 

令和のジイサン・バアサンの新年会



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▶先週は共稼ぎをしている長女の家の孫二人が熱を出したので、月曜の朝から私が急遽子守りに駆り出されることになった。専業主婦が当たり前だった時代は、孫が熱を出したくらいで祖父母が駆けつけるなどということは無かったハズだが、最近ではそうも言っていられない。もっとも、更に時代を遡ること三世代同居が当たり前だった頃は、孫の子守りはジイサン・バアサンの仕事だったから、現代の子育て事情がその頃に戻ったと考えれば納得がいく。要するに、手の空いている人間が手伝えばよろしい。

▶ところで私が子どもの頃のジイサン・バアサンは、腰が曲がっていて、朝からコタツでお茶を飲むというのが定番のイメージだった。私の父方の祖母は、昼間にコタツで近所の人とお茶を飲んでいる最中に脳出血で亡くなった。まだ70代の初めだった。板金職人だった母方の祖父は、70歳を過ぎても自宅にあった細工場(さいくば)で働いていたから、いわゆる隠居老人ではなかったが、私の目から見てもやはり年寄りのイメージはあった。

昭和16年に発表された童謡の「船頭さん」では、「村の渡しの船頭さんは、今年六十のオジイサン・・」と謡われ、井上陽水は、昭和47年に発表したフォークソングの「人生が二度あれば」の中で、65歳と64歳の両親が、コタツに入って縁の欠けた茶碗でお茶を飲む姿が哀れであると謳った。陽水のこの歌は、老人に対してあまりにもステレオタイプ過ぎるので好きではないが、それでも当時結構ヒットした。今では信じられないが、私が会社に入った昭和50年代の初めでも、勤め人の定年はまだ55歳~56歳だったのである。

▶2月11日の建国記念日に、八重洲のフレンチレストランを借り切ってランチパーティーが開かれたので、参加した。集まったのは大学時代のサークル仲間で、幹事さんの呼びかけに応えて20数名の男女が集まり、昼間からアルコール飲み放題で盛り上がった。参加者の殆どが古希を過ぎているのだが、全員が意気軒高なのは頼もしい。もっとも、体調が不良の人は欠席しているので、参加者が元気なのは当たり前か。

▶一人づつ近況報告したが、当日参加者の中に現在ガンを闘病中の人が複数名いたのには、ある意味驚いた。さらに仲間うちでガンの既往歴がある者や、既にガンで亡くなっている者(私の妻も含め)も何人かいるので、全体としてみると、まさに二人に一人がガンを患う時代に入っていることを強く実感した。

▶60代でジイサン・バアサンと呼ばれた時代でもガンはあった。ただその頃はまだ日本人の多くは脳血管疾患や心臓病などの成人病で亡くなる人が多く、ガンで亡くなる人は比較的少数派だった。その後徐々に成人病は改善されてきて、現在の日本は世界一の長寿国になった。そして定年は延長され、男女とも60代の前半は現役として仕事をする人が当たり前となってきている。これは人類史上初めての快挙で、断っておくが、高齢化は悲劇ではなく、まさに喜ぶべきことなのだ。ただ、それと反比例するかのようにガンに罹る人が増えている。

▶ガンは感染症と異なり、自分の細胞が変化しておこる病気なので、闘うといってもキリがない。この細胞の変化は、新陳代謝における突然変異としてある一定の割合で起こることが分かっているが、この割合は加齢とともに増加する。この仕組みは人間が生物である以上、老化と同じく避けようのない宿命だ。だとすれば、我々はある意味自分のガン細胞と自分で折り合いをつけていくしか道はない。それはあたかも、我々が自分の体内に棲む何兆個とも言われる細菌と共生し、折り合いをつけているのと変わりない。

▶11日は、フレンチレストランで2時間のパーティーが終了したあと、大半の人が当然のように二次会のカラオケに行った。現代のジイサン・バアサンは元気がいい。何年か前にガンを患った人も、現在ガンの闘病中の人も、そしておそらくこれからガンになる人も、皆同じように楽しそうに歌った。ある者は中島みゆきの「時代」を歌い、私は仕入れたばかりの吉田拓郎の「永遠の嘘をついてくれ」を歌った。コタツでお茶を飲むしか余暇のなかった時代と比べれば、随分と良い時代になったものだ。

▶そしてカラオケが終わって東京駅へ帰る道すがら、一人の女性が「今日はこれでもう終わりでしょうか」などと物騒なことを言い出した。当然ここで引き下がる訳にはいかないので、有志を募って東京駅構内のおでん屋でナント三次会を行うことになった。これは絶対ジイサン・バアサンの所業ではありえない。そこで更に1時間ばかり飲んでから、今度こそ本当にお開きとなって千葉まで戻った。

▶ただ私の場合、家の最寄りの駅で降りてから、いつもの居酒屋に顔を出したのだから、我ながらややあきれた感じもあるが、そこではいつもの常連メンバーが私を待っていてくれたのはやはりありがたい。ここでは殆ど酒は飲まなかったが、それでもビールとワインを少々をご馳走になったので、翌日朝起きたときはさすがに少し酒が残っていた。ジイサンになっても飲み過ぎれば一人前に二日酔いはする。

角換わり新定跡の出現か?


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▶2月4日の立春の日曜日、将棋ファンとしては見逃すことのできない対局が2局あった。一つは富山県魚津市で開催された第49期棋王戦の5番勝負第1局で、藤井聡棋王(八冠)に伊藤匠七段が挑戦するものである。そして4日の注目のもう一局は、毎週日曜日に放送されるNHK杯将棋トーナメントの準々決勝で、何とこちらも藤井NHK杯対伊藤匠七段という組み合わせである。同日に同じ組み合わせの対局が行われるというのは、偶然の一致とはいえ極めて珍しい。

▶このような椿事が起こりえるのは、NHK杯将棋トーナメントが事前収録された録画放送であるからである。ただし録画であるとは言え、対局の結果は放送までは秘密が保たれるので、テレビ観戦する楽しみが減じることはない。私は当日に棋王戦の第1局が指されていることは知っていたが、棋王戦のライブでの進行は知る術がないので、必然的にNHK杯戦をテレビ観戦することになった。

▶伊藤匠七段は、絶対王者の藤井八冠を倒すとしたらこの人ではないかとも言われる若手実力者の一番手で、昨年の竜王戦7番勝負も藤井対伊藤の戦いとなっている。しかしこの時は、藤井が4連勝で伊藤を退けており、藤井八冠の牙城は微塵も揺らぐことはなかった。伊藤は対藤井の急先鋒であると思われているにもかかわらず、これまで藤井には竜王戦も含めて6連敗と全く勝ち星に恵まれていない。それほどに藤井は強い。

▶4日のNHK杯戦が始まる直前の将棋番組(将棋フォーカス)では、タイミング良く藤井に挑戦する伊藤のことが取り上げられた。この時は伊藤の師匠である宮田利男八段がビデオ出演し「伊藤、無様な負け方をするとこれだぞ」と言いながらゲンコツを握った。幼い時から伊藤を見てきて伊藤の才能を信じて疑わない師匠の宮田にとっては、藤井に対して結果を出すことができない伊藤のことが心配でたまらないといった風情であった。

▶午前10時半に始まったNHK杯戦は、藤井の先手で角換わり戦法の陣形で指し手が進んでいった。現代将棋は、AIを使った序盤研究が驚くほど進化しているので、指し始めて50手くらいまでは両者ともノータイムで指し進めていくことが普通。局面を見ると既に中盤から早くも終盤戦ではないかと思われる内容だが、AIによる評価値では何と50:50の全くの互角。時間はまだ開始から10数分しか経過していないのが信じがたい。

▶両者70手目あたりから考える時間が増えてくるが、これからは事前研究の範囲を超えた力戦となってくる。ただ、角換わり戦法というのは、AIによる研究が最も進んでいる領域であり、AI同士の対戦を行うと、ほぼ先手が必勝となるということが分かっている。なぜ先手が必勝となるかは人間には到底理解できないが、とにかくそういうことのようだ。その角換わり戦法を現代最強の藤井八冠が先手で使ってきたのである。

▶案の定この将棋は、藤井が次第にリードを広げていって、93手という短手数で伊藤を投了に追い込んだ。なす術もなく負けた伊藤の顔が屈辱でひきつっているように見える。かつて小学生の棋戦で同い年の藤井聡汰を破り、その時負けた藤井は人目もはばからずに大泣きしたという逸話をもつ伊藤匠だが、非情にもこれで公式戦では対藤井に7連敗という不名誉な記録を作ることになってしまった。伊藤の心情たるやいかばかりであっただろうか・・・。

NHK杯戦で伊藤の屈辱的な負けが放送されていたまさにその時、彼は富山県魚津市で同じ藤井を相手に棋王戦第1局を戦っていた。先手は藤井で、戦法はNHK杯戦と同じ角換わり戦法で、指し手が進むにつれて次第に藤井が有利となっていく。しかしここから伊藤が入玉戦法をとったことから、さしもの藤井も伊藤を攻めあぐね、129手で持将棋が成立し、両者引き分けとなった。

▶終了後のインタビューで藤井は「伊藤さんの手のひらの上で戦っていた」のでどうしようもなかったと悔しさをにじませ、伊藤は「(入玉による)持将棋を目指す展開」だったことを認めた。タイトル戦で持将棋となることは極めて珍しく、初めから持将棋含みの引き分けを念頭においていたという伊藤に対しては、熱心な将棋ファンからは「消極的だ」「いさぎよさがない」「面白くない」などと論議を呼ぶこととなった。

持将棋というのは、お互いの王が相手の陣地に逃げ込んだりした為、お互いが相手の王を詰ますことができなくなった局面で、両者合意のもとに引き分けに持ち込む制度である。ただし終了時点で、自分が支配する王将を除く飛車や角の大駒を5点、それ以外の駒を1点として計算し、合計で24点以上を保持することが引き分けの条件で、条件を満たさない(自分の駒数が少ない)場合は負けとなるルールである。

▶確かに初めから引き分けを目指す将棋というのは、いかにも消極的に見える。柔道などでは腰を引いて相手の技を食わないようにばかりしていると、指導というペナルティーを取られることもある。しかし、引き分けを狙うというのは野球でいう敬遠と同じで、考えようによっては立派な戦法である。ただ、星稜の松井秀樹が甲子園の高校野球で5打席も連続敬遠されたとき、相手の明徳義塾の監督が勝利至上主義であると批判されたのも事実で、このあたりは議論が分かれるところだろう。

▶しかし本件に関しYouTubeを見ていたら、以下のような指摘もあることが分かった。伊藤は、角換わり定跡が極めて先手有利であることを知っており、自分が後手番を引いた時、これにどう対応するかを日夜考え続けていた。そして藤井に7連敗した後、ついに持将棋に持ち込むことで引き分けを目指すことを考え出した。これはAIが誇る角換わり先手必勝の定跡を崩すことにつながる升田賞(新手の開発賞)にも匹敵する新定跡の出現であると。

▶やはり伊藤匠の才能は本物だった。もしその通りなら、誰が伊藤を非難することができようか・・・。

 

 

令和6年能登半島地震に思う


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▶2011年3月11日に起きた東日本大震災の対応で、ひと月ほど気忙しい日々が続いたが、それも一段落したその年の5月の連休に、妻を伴いクルマで北陸旅行に行った。当時、五木寛之の「百寺巡礼・北陸編」を読み終わったところだったので、そこに紹介されている十の寺のうち、阿岸本誓寺・妙成寺・那谷寺・瑞龍寺の四寺を訪れることを中心に計画をたてたのである。

▶5月4日は松本で高速を降りて国道158号線から国道41号を経て富山市内に入り、最初に瑞龍寺に行くもあいにく境内に入れず、その晩は富山市内に一泊した。翌5日は、朝早くに富山城址を散策してから北前船廻船問屋の旧家を見学、高岡大仏に立ち寄ってから昨日の瑞龍寺を改めて参拝。その後は、たまたま見つけた砺波のチューリップ園に立ち寄り、五箇山の合掌造りを見て志賀原発に近い羽咋まで走り、予約していたペンションに無事到着した。幸いにも天気は申し分のない絶好の観光日和だった。

▶そして6日は能登半島を一周する。まずは羽咋に近い妙成寺に行く。こちらは城のような作りの大寺で、能登の七尾に生まれた長谷川等伯(※国宝の松林図屏風が超有名)が無名だったころの絵画がこの寺に残っている。この寺を出て海岸線を北上すると、松本清張ゼロの焦点で有名な能登金剛の景勝地がある。私たちは、ここではクルーズ船に乗って海から奇岩を鑑賞してから、次の阿岸本誓寺に向かった。

▶輪島の阿岸本誓寺は真宗大谷派の寺だが、その茅葺の本堂がさびさびとした雰囲気を醸し出していて、いかにも奥能登の寺であるという感じがする。五木は北陸の寺の一番目にこの寺を挙げているが、なんとなくうなづける。そしてこの寺を出て輪島市内に向かう途中に曹洞宗大本山總持寺祖院を見つけた。この寺は何故か五木の百寺巡礼には取り上げられていないが、北陸を代表する名刹の一つである。この總持寺祖院は、横浜鶴見にある大本山總持寺に本山機能が移されるまでは永平寺と並ぶ曹洞宗大本山であったが、現在は鶴見總持寺の別院として祖院と呼ばれている。

▶2007年3月25日午前9時41分、能登半島沖を震源とするマグニチュード6.9の地震がこの地域を襲い、能登半島を中心に甚大な被害が発生した。この辺りはそれまで地震の空白地域とされていたが、突然の大地震に、全壊住宅が609棟、半壊1368棟のほか、地滑りや崖崩れが多発し、輪島の總持寺にも大きな被害があった。私たちが訪れた2011年当時、總持寺の本堂は、まだ修理が終わっていない状況だったのである。

▶その後私たちは、總持寺を出て輪島市内の朝市を見学。その後海岸沿いの国道249号線を走って珠洲市に入り、そこから能登町穴水町、七尾を過ぎて再び羽咋まで戻り、その晩は片山津温泉に泊まった。そして、翌7日午前に小松の那谷寺を参拝してから高速道路を一気に走って、その日のうちに千葉まで戻った。今ここにブログを書くにあたって、当時の写真を見返しているが、なんとも懐かしい思いにかられる。

▶そして2017年11月23日から26日にかけて、再び北陸に行った。この時もクルマで行ったのだが、23日早朝に家を出て、東名・名神から北陸自動車道を走りに走って、午後2時過ぎに福井の永平寺に到着。永平寺に行ったのは、その年の夏前に亡くなった母が、何かにつけて永平寺の名前を口にしていたことを思い出したからである。曹洞宗大本山永平寺は、予想した通りの立派な寺であった。その晩は山代温泉に泊まった。

▶翌24日は有名な福井県立恐竜博物館に行く。途中、雪がちらつきだして、ノーマルタイヤだったので一瞬緊張したが、無事博物館に到着。大人も子どもも楽しめる恐竜博物館はさすがは福井が誇る博物館だった。午後は浄土真宗第八世蓮如が建てたとされる吉崎御坊に行く。天気は相変わらず霰が降るような寒い日だったが、暗い寒空の下の吉崎御坊は、如何にも北陸のイメージで、それはそれでなかなか風情があった。その晩は金沢市まで戻り、金沢の奥座敷ともいわれる湯涌温泉に泊まった。

▶25日は、お決まりの金沢兼六園を見てから、前回行けなかった大乗寺を参拝。大乗寺はうっそうとした大木が茂る中にあった。昔から「伽藍瑞龍、規矩大乗」と言われるように、大乗寺曹洞宗においては永平寺と並んで修行の寺として名をはせている。これで五木寛之の北陸十寺のうち、七寺を回ったことになる。その夜は、宇奈月温泉まで戻って泊まり、翌27日に千葉に戻った。

▶かくして、北陸・能登は私にとって忘れ得ぬ場所になった。その記憶の中に残る懐かしい能登半島の風景は、今年の元日に発生したマグニチュード7.6の大地震によって、ズタズタに壊されてしまった。輪島の朝市は、火災によって跡形もなく消え去り、前回の2007年の地震から何とか復興した總持寺祖院は、今度は壊滅的ともいえる被害に遭遇し、その状況がやっと一昨日からホームページにアップされ出したが、復興の見通しは全くめどがたたない。

▶私が訪れた總持寺以外の寺も、損壊被害が生じていることは間違いなさそうだが、私には知るすべがない。何より2007年の地震を乗り切った人々が、再び更に過酷な試練にさらされているのだと思うと、なんともいたたまれない気分になる。神も仏も肝腎な時には役に立ちそうもない。だとすると人は一体何にすがればいいのだろう。

地震が発生して1ヶ月が経とうとしている今朝は、テレビ各局が能登の現在の様子を映し出していた。人々の困難がじかに伝わってくる。一方、かくなる自分は自宅でこうしてテレビを見ながらのんきな暮らしができている訳で、そのことを思うと何だか申し訳けない気持ちになる。そこで少しでも被災者のたしになればと思い、重い腰を上げて郵便局に出かけて行き、赤十字に僅かばかりの寄付をしてきた。家に戻ると不思議なことに気分が少し軽くなった。神も仏もいない世界では、お互い助け合うことしか生きる道はないということか・・・。

 

令和のベトナム出張あれこれ


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▶先週はベトナムホーチミン市に行ってましたと書くと、観光旅行ですかと言われそうだが、実は仕事がらみの海外出張です。私が一昨年から関係している会社は、建設基礎杭を製造・施工する会社であり、海外にも事業展開している。ベトナムでは現地資本と共同で建設基礎杭を製造する別の会社を経営しており、私はかねてよりこのベトナムの会社を見学したいとの希望を持っていた。しかしコロナ問題もあって、なかなか実現できないでいたところ、この程ようやく訪問できる運びとなったものである。

▶月曜日の午後、成田発JAL759便に搭乗するため電車で成田空港に向った。電車は空港第二ビルに到着する直前にトンネルを通過するのだが、その景色が眼に飛び込んできたときに、突然自分がまだ若かった頃の海外出張のことが思い出されて、にわかに感傷的な気分になった。かつては海外出張と言えば成田出発に決まっていた。ところが最近飛行機を利用する場合はもっぱら羽田が主体となっており、こうして成田空港を利用するのは本当に久しぶりだったし、何より4年前に仕事を辞めた後、自分が再びこうして仕事で海外出張に行くようになるとは、思いもよらぬことだったからである。

▶久しぶりの成田空港は、かなり変わっていた。出入国管理がすべて自動化されているのは時代の流れだろうが、出国後のゾーンに並んでいる免税ショップが様変わりしているのには驚いた。コロナ影響で空港利用者が激減し、生き残ることができなかった店が多かったという事情もあるようだ。一方、空港内の外貨両替も減っている。こちらはコロナというより海外旅行でのキャッシュレス決済が普通になってきた影響が大きいのだろう。みずほ銀行は、成田と羽田空港内の両替店をすべて閉鎖すると先日発表した。

JALのラウンジの位置は相変わらずだったが、内装やサービス内容は変貌している。まあ、しかしこれは正常化したという意味もある。私が最も頻繁に海外出張していたのは2000年代前半で、当時は国際線に進出してきたANAの追い上げで、かなり激しいサービス合戦が展開されていた。ラウンジ内で提供されるシャンパンのレベルは高かったし、新刊本なども無償で提供されていた。ビジネスクラスの乗客には空港までのハイヤー送迎サービスが付随してくるなど、やや常軌を逸した感のある競争だった。その結果かどうかは知らぬが、JALはしばらしてから経営破綻した。

▶JAL759便は、定刻より僅かに遅れて出発した。機体が滑走路に入ってから離陸するまでの僅かな時間、先だっての羽田の衝突事故のことが頭によぎったが、機体は無事に離陸したので一安心。6時間ほどのフライトでホーチミン市のタンソンニャット空港に到着した。今回の出張者は、私を含めて8名。会社が専門のアテンダントをつけてくれたので、ベトナムでの入国手続きやホテルまでの移動の手配は全てお任せとなっているのは有難い。昨年パリに一人旅をしたときとは雲泥の開きがある。

▶深夜の空港は大賑わいだった。空港ビルを出たとたんに出迎えの大群衆に囲まれたが、これはベトナム旧正月(テト)のために海外から帰国する家族を迎えきている人たちのものである。それにしてもすごい熱気だった。そして日付が変わる12時前にサイゴン川の畔に立つロッテホテルにチェックイン。後で分かったのだが、このホテルは前回(2016年)私がホーチミンに出張したとき泊まったホテルだった。

▶翌日からの仕事の内容は書くに及ばずだが、代わりに現在のベトナムについて少し言及する。私はこれまで何度かベトナムを訪れているが、毎回感じるのは市内の交通量の多さである。先だって馴染みの居酒屋の常連であるT氏からベトナム旅行記というのをいただいたが、これを読むとT氏は2004年のホーチミン市内のバイクと自動車の比率は50対1くらいとの感想を書いている。確かに昔はそのくらいの感じだったが、現在は自動車も増加し、車線の半分は自動車が走るようになった。しかし、それでもバイクの多さは圧倒的だ。

▶日本に来る外国人は、渋谷の交差点を横断する歩行者の多さに仰天して、日本人はよくも他人にぶつからずに早く歩けるものだと感心しているそうだが、ホーチミン市では、それが歩行者ではなくバイクなのだからさらに驚く。とにかく、前も後ろも横も50センチくらいの間隔でバイクが流れるように走る中を、時折歩行者が横断し、自動車が右左折し、中には逆行するバイクや歩道を走るバイクもいるのだから、この現状を何と表現すればいいのか。

▶東南アジアの国々の中で、バイタリティーを最も感じるのは、何と言ってもベトナムだろう。日本の平均年齢はモナコに次いで世界2位の48歳だが、ベトナムの平均年齢はなんと30歳。全人口の60%が30歳以下というのだからバイクの多さも納得がいくというもの。それにベトナム人は戦争に強い。かつてはモンゴルの侵略を撃破し、中国とも戦争をし、近くはフランスを独立戦争で追い出し、最後はベトナム戦争で世界最強のアメリカ軍に勝利した。ベトナム人は、本気を出せば恐い。

▶そのベトナムも、現在は経済の停滞に苦闘している。政府のかじ取りの失敗など要因は色々あるようだが、中国経済の停滞の余波を強く受けていることは感じられる。中国と同様、不動産や建設分野の停滞が著しい。ただし、中国の苦境が構造的なものなのであるのに対し、ベトナムの現在の停滞はおそらく一時的なものであると思う。理由はベトナムが依然として発展途上段階にあるからで、海外投資家から見ても、中国とは異なり、ベトナム投資へのハードルは低そうだ。

▶土曜日の朝7時50分発のJAL750便で成田に戻る。JALの機内で働くCAの人たちの姿が、こころなしか誇らしげに見えた。羽田の衝突事故におけるJALのCAの働きぶりは、世界から賞賛された。犠牲者が一人でも出ていたら、JALはどれほど信用を落としたことだろう。そして、JALの次期社長にCA出身の女性専務が就任することが決まった。飛行機を降りるとき、傍にいたCAにこのことの感想を聞いたら、実績はこれからですのでと言っていたのが印象的だった。昔JALのCAだった私の妻なら、どういう感想をもらしたことだろうか。

 

人生の下り坂、林住期を生きる


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▶今年の正月に古希を迎えた。思えば遠くに来たものだとの実感がある。10年前に還暦を迎えた時は、現役でバリバリ仕事をしていた時期だったので、ことさら自分の年齢を意識することなどなかったし、まだまだ充実した上り坂がこれからも続くことに疑いを持つことはなかった。それから10年。私は間違いなく人生の峠を越えた。そして今や自分が人生の下り坂を下っているのだということを、はっきりと自覚するようになった。

▶林住期という言葉がある。林住と臨終の音が似ているので誤解されやすいが、臨終期のことではない。私がこの言葉を知ったのは五木寛之の「林住期」という本においてである。古代インドでは、人生を次の四つに分けて考えていたという。すなわち、「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」である。この言葉を真に理解するには、当時のインドにおける人々の思想や生活の成り立ちを知る必要があり、それが必ずしも現代に生きる我々の人生の指針につながるものではないとは思うが、それでも知っておく意味は十分ある、と思う。

▶「学生期」というのは勉強を主体とする時期で、今でいう青春期である。次いで「家住期」に入るが、この期間は家を作り家族を養うために働く時期で、壮年期のことである。そして「林住期」とは、仕事を引退して家を出て1人静かに林の中に住む時期のこと。最後の「遊行期」は、死にゆくための準備をする期間である。「林住期」と「遊行期」の特徴は、家を出るということ、すなわち出家をするということを連想させる。

▶古代インドのバラモン教ヒンズー教も、そこから派生した釈迦の仏教も、生きとし生けるもの全ては、過去から未来永劫に至る輪廻転生の連環から逃れることはできないという前提に立っており、当時のインドでは生きて行くこと自体が「苦」であると認識されていた。この中にあって、釈迦は出家して「覚り」を得ることで輪廻転生(すなわち人生の苦しみ)から逃れることができると説いた。ただし、出家と覚りは必ずしも釈迦の専売特許というものではなく、当時の人達は皆同じような認識を持っていたのである。すなわち、覚りを得るためには、出家しなければならないということを。

▶「林住期」というのは文字通り家を出て林に住むということである。それは出家して覚りを目指すということを強く示唆しているが、これはまさに当時のインドでは理想的な人生の送り方とされた。王族であった釈迦は、29歳で妻と子供を捨てて出家し、6年間におよぶ苦行の果てに35歳で覚りを開いたとされている。ただし、全てのインド人の男・・・当時は女は覚りを得ることができないとされていた・・・が釈迦の真似をして30歳前後で出家してしまっては、働き手を失ったインドの社会は破綻するしかない。出家を勧める釈迦の立場も分からんでもないが、これは原始仏教が直面した最大の矛盾であると言っていい。なぜなら乞食同然の出家者を支えるためには、健全に働く多くの一般民衆が必要だったからだ。そして、それが大乗仏教を生む動きにつながっていくのだが、それはまた別の話である。

▶古代インド人や釈迦が歩んだ林住期とはいささか異なるが、五木寛之は、改めて現代日本における「林住期」の意味を説く。彼は「林住期」こそが人生のピークである可能性が高いと言う。人は人生の前半は良い暮らしを求めてしゃにむに働く。そこには自分とその家族の為だけでなく、働いて税金を納めることで社会の維持発展を僅かながらでも支えているという満足感がある。それは、苦しくとも走り続けるマラソンランナーが感じる高揚感や幸福感に近いのかもしれない。

▶だから、何も考えずに前だけ向いて元気に走り続けてポックリ死ぬのが一番いいんだと言う人がいるが、そう思う人の多くは、実際に自分が引退生活に入った時のみじめな姿(ヒマで孤独?)を想像したくないらしい。私の友人の一人は、60歳を過ぎてまだ現役で仕事をしている時に心筋梗塞で亡くなった。美空ひばり石原裕次郎も現役のまま50代で亡くなった。彼らは皆、ヒマも孤独も感じずに人生を閉じてしまったが、私は彼らの亡くなり方が理想的だったとはどうしても思えない。

▶現代の「林住期」は、実際に家を出て林に住むことではない。「家を出る」ということは、自分にまとわりついているしがらみを離れて自分の好きなことをする、そういう自由な時間を得る、そこにこそその人が本来的に求める人間性の回復があるということの隠喩なのだ。だから五木はもっと前向きにこのゴールデン・エイジを捉えろと言う。

▶私の母も妻も既に亡くなっているが、両名とも仕事を辞めてからの人生の充実ぶりは傍目にも凄かった。嫌だいやだと言いながら生命保険会社の外務員を続けて私を育ててくれた母は、70歳過ぎに仕事をやめてからは趣味だった俳句と墨絵の世界に没頭した。私の手元には、今も多くの母の作品が残っている。一方、銀行員だった妻は、こちらも早く仕事をやめたいといつも愚痴っていたが、無事に60歳で仕事をやめてからは、水を得た魚のようにスクウェア・ダンスの世界にはまりこんだ。彼女のクロゼットには今も30着近いダンス衣装が下がっており、私はそれを眺めるたびに、彼女の在りし日の高揚感溢れる充実した姿を思い出すことができる。

▶改めて自らの「林住期」を思う。人生の終わりはいつ来るかは分からない。ならば今できることは今始めることにしくはないといつも思う。運命のいたずらか、60代の後半に慣れぬ一人暮らしを始めることになったが、家族や友人・知人の助けもあり、無事にコロナの季節を乗り越えることができた。この間、足掛け1年半をかけて四国1200㎞の巡礼の旅を終え、昨年はパリに一週間一人で滞在し、美術館巡りもできた。3年前に始めたこのブログも、掲載記事は既に220本近くなり、自分の足跡を残すことに少なからず役立っている。また縁あって一昨年から、とある会社の社外役員を務めることになった。こちらの方は、時間的制約が少ないので、私の「林住期」を束縛する恐れはない。

▶ということで、今年の年賀状には、人生の下り坂は、友人達と共に、転ばぬように、楽しくゆっくり下っていくことにしたいと書いた。年明けから不穏な日々が続いているが、自分の「林住期」は、本当にそうありたいと改めて思っている。