マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

ナポリにやって来た!


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▶8日は、列車でナポリに行く。午前11時15分にローマのテルミニ駅を出て、12時半にナポリ中央駅に到着した。利用したのはイタリア新幹線で、ローマ・ナポリ間を1時間と少しで移動出来るのでいたって便利である。ちょうど昼時なのでテルミニ駅で旨そうなピザを買い込んで車中で食べるつもりでいたが、周囲を見たら誰も仲間がいないのはやや意外。少し恥ずかしかったが、買ってしまったものは食べなければならない。

ナポリはローマから南東に220km程の位置にあり、古くは独立した都市国家だったが、ローマの台頭であっさり征服された。ただローマの支配下に入ったのは結果的に良かったようで、その後のナポリの繁栄はローマによってもたらされたと云われる。イタリアは火山国なので日本と同様に地震が多く、私の滞在中にも小さな地震があったが、大きな被害が起こるとローマ皇帝は陣頭指揮で復旧に務めたと記録に残る。立派なものである。

▶「ナポリを見てから死ね」と言うことわざがあるので、期待してナポリ中央駅に降りた立ったが、期待はいささか外れた。天候が良くなかったこともあるが、駅前の広場には多くの外国人がたむろしており、ローマの印象とはだいぶ異なる。イタリアもアフリカからの不法移民問題を抱えると聞くが、昨今のナポリの状況は、あるいはそう言った事情を反映しているのかも知れない。
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▶宿舎にしたのは駅前のアパート・ホテルで、部屋に入るまでに4度も鍵の架かった扉を開ける程に安全面では徹底していた。内部は広くとても清潔で、滞在の為の設備が全て整っていて申し分ない。しかしトイレがシャワールームを挟んで男性用と女性用に別れているのは、どういう意味だろうか。

▶天気予報をみると、翌日以降は不順な天候が続くので、午後はまずはフォロ・ロマーノで失くした傘の代わりを探しに街を歩いた。ナポリには日本のコンビニのような店はなく、そもそもどんな店が傘を扱っているのか分からない。何店かそれらしき店先を覗いては諦めかけた矢先に、観光客用の土産物屋の奥の目立たない場所に傘を見つけた時は正直ホッとした。話は飛ぶが、翌日雨が降り出したとたんに、街角のあちこちに黒人の傘売りが湧き出るように現れたのには思わず笑ってしまった。需要があれば供給もあるものだ。

▶傘を買ったその日は晴れたり曇ったりの天気だったが、散歩がてらナポリ湾まで行ってみる。最初に見えて来たのがヌオボー城という古城で、何となくナポリに来た感じがしてくる。そしてナポリ湾が見渡せる海岸に出たら俄然視界が広がった。ナポリ湾を隔てて彼方に大きな山が見えるが 、もしかしてと思ったらそれがベスビオ山であった。
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▶ベスビオ山は標高はそれほど高く感じないが、長い裾野の右側が海岸線まで届いているように見えて山と海が見事につながっている。その姿が何となく故郷の赤城山を彷彿させるのが懐かしい。知っての通りこの山は有史以来幾度も噴火を繰り返しているが、最も有名なのは今から2千年近く前に起こった西暦79年の大噴火である。

▶この時は、麓にあった古代都市ポンペイの全市域が一夜にしてベスビオ山から噴出した火山灰の下に埋まるという悲劇が起きた。そのポンペイには明日行く予定であるが、雨の予報なので既に1日延期することにしている。しかしこうしてナポリ湾越しにベスビオ山を眺めていると、否が応でも期待は高まって来る。しかし雨でなければいいが・・・。海風が冷たく、少し寒くなってきたので宿舎に戻った。

▶と言う訳で翌日は雨になった。傘をさしてナポリの国立考古学博物館に行く。誰でも考えることだが、雨の日の観光は屋内がいい。よって雨の日にもかかわらず多くの観光客が博物館に押寄せた。この博物館には多くの古代ギリシャ・ローマの彫刻が展示されているが、ローマ時代の彫刻の多くは遺跡から掘り出したもので、しかも殆ど例外なくギリシャ彫刻の模刻である。
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▶模刻はすなわちコピーなのだが、当時のローマ人が如何にギリシャ美術を愛していたのかが良く分かる。一方、オリジナルのギリシャ彫刻は、現在失われてしまったものが多く、そう言う意味では今日こうしてギリシャ彫刻を鑑賞出来るのは、多くはローマ人のお陰と言っていいだろう。塩野七生が言う通り、ローマ人は良いものなら自分達の文化に躊躇なく取り入れた。その度量の大きさこそがローマ帝国が長続きした理由の一つだ。

▶なお、考古学博物館ではポンペイ遺跡から発掘してきた貴重な品々や壁画も収蔵しており、その一部を展示しているが、やはり現地に行ってからこの展示を見た方が記憶に残る。確かに貴重な壁画ではあるが、それ自身が美術品と云うものではないので、壁画に感動するというものではなかった。もっとも私自身の想像力が欠けているが所以の話かもしれぬが。
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▶考古学博物館を出ても相変わらず雨が降っていて、外歩きにもいい加減嫌気がさしてきた。時間は早かったが観光は切り上げて宿舎に戻ることにする。地下鉄でナポリ中央駅まで戻ったら午後2時前だったがまだ昼食を食べていなかったので、駅前の食堂に飛び込んで、ワインとスパゲティーで軽く昼食を取った。
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▶部屋に戻ると冷蔵庫の中にビールがあったので、こちらもついでといった感じで飲んだら疲れと眠気がどっと出て、そのままベッドにもぐって寝てしまった。明日はポンペイだが、さすがにこの時間に寝たら夜中に目が覚めるから、ポンペイ行きの準備はその時にすればいいと思いつつ。

バチカン美術館とは何か


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▶先週の木曜日にバチカン美術館に行ってきた。世界中のどのガイドブックを見ても、ローマに行ったら必ず行くべしと書かれているように、この美術館は観光客にとっては必見の場所である。故に混雑することは当然覚悟の上である。ところで何が必見かと言えば、システィーナ礼拝堂ミケランジェロの壁画「最後の審判」と、通称ラファエロの間と云われる所にある一連の壁画だろうか。
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▶当日は午前9時過ぎに入館して午後3時前まで中にいたので、時間的にはかなり費やしているはずだが、今覚えているのは上記の壁画くらいで、それ以外の記憶が乏しいのはどうしたことだろう。あまりにも展示している美術品が多すぎるというのが一つの理由だが、館内が混雑しているので人の流れが美術館側によってコントロールされており、我々はさながらベルトコンベアーの上に乗って、次々に流れ来る美術を鑑賞している状態に置かれていることが大きい理由かも知れない。

▶私も入口でオーディオ案内をレンタルして臨んだが、今になって思えばそこには主体性がなく、鑑賞するというより、鑑賞させられているという受け身の姿勢に終始した感がある。一つ驚いたことがあるのだが、全て見たつもりが不思議なことに壁画以外の絵画を見た記憶がないので色々思い返すも、どうも私は絵画館に行っていないのではないかと思うようになった。バチカンでは絵画館も必見の場所の一つと云われている。

▶ここでは入口で渡されるA4一枚のシンプルな鑑賞のフロー図以外、館内案内図というようなものがない。ルーブルでは館内マップが配布されるので自分の好みに従って館内を自由に移動できるが、ここではゴールのシスティーナ礼拝堂に向かって、ただただ迷路のような館内を指示されたままに移動して行くのみである。途中に立ち止まってオーディオ案内を聞くことはできるが、更に混雑が進めば、それも不自由になるかも知れない。

▶絵画館に行っていないのではと思うようになった一方で、案内に従って移動しているのにそんな馬鹿なハズはないという思いもあり、今になっても正直分からない部分が多い。ただしスマホに一枚も絵画(壁画を除く)の写真が残っていないのは事実だ。まあ見ることは見たのだが、単に記憶がないだけかもしれぬが・・・。

▶もう一つ強く印象に残ったことがある。それは、これだけの美術品を集められるローマ教皇とは、一体どのような存在なのかという思いである。現在バチカンに収蔵されている美術品がどのくらいあるのかは知らぬが、その殆どは歴代教皇が金を出して自ら集めたか、あるいは各国の王や貴族(場合によっては一介の金持ちの個人も含め)から寄贈を受けたものである。
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▶要するに、これだけの冨を独占するローマカトリック教会というのは、私の宗教観としてはどこか異常に感じるのだ。イエスが亡くなって数十年の後、パウロなどの使徒の働きによって原始キリスト教が成立し、同じ頃に新約聖書が執筆された。中東イスラエルに始まったキリスト教は、ローマ帝国内で次第に力を蓄え、紀元313年にはコンスタンティヌス帝が発出したミラノ勅令によって公認される。

▶392年にキリスト教ローマ帝国の国教に格上げされるも、その僅か3年後にはローマ帝国自身が東西に分裂し、476年には肝心の西ローマ帝国ゲルマン人によって滅ぼされる。ところが、ここから当時既に力を持っていたローマ司教(司教区の長)が更に力を発揮して行くのであり、次第にローマ司教はローマ教皇と呼ばれ各地の司教を束ねる存在となっていくのである。

▶要するに、5世紀末にローマ帝国は倒れ(※なお東ローマ帝国は、その後ビザンティン帝国として生き延びるが、1453年にオスマントルコに滅ぼされる)ヨーロッパはキリスト教が支配する中世の時代に入って行くのである。

▶と云うことは、その後はローマ教皇こそが実質上の西欧の支配者だった訳で、十字軍を始めたのもローマ教皇なら、当時のローマ王ハインリヒ4世を破門にして3日間も裸足のままカノッサ城外に立たせたのも(※所謂カノッサの屈辱ローマ教皇である。この時期、イエス・キリストの現世における代理人であるローマ教皇は、世俗的にみればイエスを超えてしまったのである。

バチカンに残るルネサンス時代の多くの壁画には当時の教皇が描かれているが、その殆ど全ては教皇の事績を称える内容で、何のことはない、教皇自身が画家達に描かせているのだから笑ってしまう。それを批判することができないほど、当時のキリスト教なかんずくローマ教皇の権威と権力は大きかったと言うべきだろう。バチカン美術館は、ローマ教皇の何たるかを、21世紀に生きる我々に現在もそれとなく教え続ける、カトリック教会にとっては極めて貴重な場所なのである。

▶いささかシニカルな紹介となったが、ラファエロミケランジェロが凄いのは、そのような中世キリスト教のしがらみをこえて、芸術の力によって己の信じるところを伝えていることで、彼らがキリスト教を描くもキリスト教に媚びているような感じがしないのは、ミケランジェロの「最後の審判」やラファエロの「アテナイの学堂」を見れば分かる。それこそが、ギリシャ・ローマの時代に戻ろうとするルネサンス運動の真髄なのかも知れない。
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▶なお瑣末なことではあるが、丸善で購入した地球の歩き方の最新イタリア版(2020〜21)を見ると、バチカン美術館のオープン時間が午前9時となっているので、1時間以上前の午前8時前に行って列に並んだところ、8時過ぎから列が少しづつ動き出した。後で調べたら現在の開館時間は午前8時だった。

▶なお、それ以外にも各種料金や入場料が記載された数字と殆ど異なっており、コロナ影響かインフレ影響かは分からないが、イタリアに限らずヨーロッパが大きく変化していることだけは事実のようだ。

 

アッピア街道を歩く


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古代ローマを一言で表現するとしたら、最も相応しい言葉は「全ての道は、ローマに通ず」ではないだろうか。紀元2世紀のハドリアヌス帝の治世の頃には、北はイギリス、東は中東メソポタミア、西はスペイン、南はアフリカのサハラ砂漠以北まで、ローマはその領土を拡大した。ハドリアヌスは実際にその全ての地域に自ら足を運んで政治を行ったが、それを可能にしたのは石畳で整備されたローマ街道があったからである。

▶ローマにとって街道整備の最大の目的は、軍隊の移動の容易さを担保する戦略的なものであり、従ってローマにとっては整備された街道は防衛の生命線であった。それはまさに現代の高速道路に匹敵すると塩野七生は力説する。しかし写真で見るデコボコな道が高速道路とは、少し言い過ぎではないかと云う気持ちも手伝って、かねてよりローマ街道の一つを自分の脚で歩いてみたいと思っていた。

▶ローマの道といえば、やはりアッピア街道である。紀元前4世紀の終わり頃に財務官クラウディウス・アッピウスによってローマから南に伸びるこの街道の建設がはじまり、100年近くかかってイタリア半島南端のプリンディシまで石畳の道路がつながった。全長は580kmもあるが、日本で言えばさしずめ東名高速道路といったところか。

アッピア街道が有名なのは、イエスとペテロが再会した「クオバディス」の逸話があるからだが、これについては既に前回のブログにも書いたので、ここでは省略する。さて行き方であるが、私の場合コロッセオ前のバス停から118番のアッピア街道行きのバスに乗って、ドミネ・クオバディス教会の前で降りた。そこはもうアッピア街道が始まっている。
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▶イエスとペテロが再会したと言われる場所に建設されたクオバディス教会は、予想に反して質素で小さな教会だった。それが本当に歴史的事実かどうかなどと無粋な問を発してはいけない。私は基本的にこの手の話は決して嫌いではない。さながら、青森八甲田山の秘湯の蔦温泉に、アントニオ猪木の墓があるが如く。(例としては不適切か・・)
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▶教会を出て石畳の道を南に向かって歩く。何やら四国遍路を再開した気分である。ここら辺の石畳は、形の同じ10センチ四方の石を規則的に敷き詰めているが、これはローマ市内でもよくある現代風の石畳である。しかし本来のアッピア街道は、大型の不整形の石を隙間なく敷き詰めたもので、道幅は4m以上もあって戦闘用の馬車が走ることが出来た。しかも両側には1m位の歩道がついている。
▶かつては道端に街路樹を植えることは禁止されていた。大きくなった木が根を張って街道を痛めることを嫌ったからである。ローマ帝国が全盛だった頃は、全線に渡ってメンテナンスが行き届いていたので、敷き詰めた石畳の間から草が生えるといったようなことはなかったらしい。塩野七生が高速道路だと言ったのは決して誇張ではなかった。
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※ちなみに、下の写真はその後行ったポンペイ遺跡の競技場の内部通路の敷石の状態です。風雨に晒されていない為か、全く隙間ない石畳が残っています。
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▶現代のローマ近郊とはいえ、アッピア街道の両側には緑の森が広がり、時折広大な牧場のような景色に出くわす。地図を見ると貴族の館跡らしい。かつてはローマの元老院の貴族達はアッピア街道沿いに広大な別荘(ビラ)を所有していたと言われるが、その名残が現代にも続いているのかと思ってしまう。
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▶また所々の道沿いに墓が築かれているが、これもまた当時の金持ちの風習だったようだ。金持ちと言っても貴族ばかりではなく、中には功なり名を遂げた解放奴隷の墓も並んでいて、古代ローマの階層の流動化を感じさせる。
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▶しばらく歩いていると前方からこちらに向かって近づいてくる二人連れの若い女性にすれ違った。私と同じようにアッピア街道の散策を楽しんでいるようだった。
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▶更に歩いていると近くから鐘の音が聞こえてきた。音の方を見ると何と羊の群れである。人は全く見当たらないので、恐らく放し飼いにされている羊なのだろうが、ローマの近郊の長閑な環境に驚くばかりだった。
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コロッセオからフォロ・ロマーノ、そしてアッピア街道と1日の行程としてはいささか強行軍で、この街道を2時間も歩いたらさすがに疲れが出てくる。時刻は午後3時を回った。頃合いを見計らってバス停を探して帰りのバスに乗り込んだ。バスは地元の高校生とおぼしき集団で大にぎわいだった。その後地下鉄に乗り換えローマのテルミニ駅まで戻り、そこからまたバスでアパートメントまで戻った。長い1日だった。

 

 

 

 

 

フォロ・ロマーノ


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イタリア半島の文明史は良くは知らないが、歴史に最初に登場するのはエトルリア人のようである。当時のエトルリア人の土木建築の技術レベルは高く、その後に続くローマ文明の多くはエトルリアの影響を大きく受けている。ちなみに、バチカン美術館には、エトルリア人が残した数々の美術の一端が紹介されているのは興味深い。

▶伝説によれば、古代都市国家ローマは、紀元前753年に狼に育てられた双子の兄弟の片割れであるロムルスによって建国された。有名な狼によって乳を与えられるロムルスとレムス兄弟のブロンズ像は、現在カピトリーノ美術館にある。但し先にあったのは雌の狼像で、双子の兄弟の像は、あとから付け加えられたものであることを今回知った。なかなか上手く組み合わせられている。ちなみに、私は46年前の新婚旅行の際に、この像の石膏レプリカをローマで購入したが、幾度かの引っ越しを乗り越えて現在も大切に保管している。
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▶その後古代ローマは次第に勢力を拡大するが、驚くことに紀元前509年に王制から貴族中心の共和制に変わる。日本はまだ縄文時代の末期で、イエス仏陀(お釈迦様)も生まれていない時代のことである。前3世紀になると、ローマではホルテンシウス法が成立して、貴族と平民の力が逆転する民主政治が発展するが、紀元前1世紀の中頃に、ユリウス・カエサル(英語名:ジュリアス・シーザー)が地中海と西ヨーロッパ全体を制覇して権力を握り、古代ローマは実質的に帝政の時代に入って行くのである。
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フォロ・ロマーノは、このカエサルの時代を中心とした古代遺跡のことで、当時のローマのさしずめダウンタウンと言った場所にあった建物群の遺跡である。意外だが古代ローマの中心部は比較的せまく、無理をすれば全て歩ける範囲にある。ローマの地形は起伏に富んでいて、中心部には七つの丘があり、そこは絶好の土地でもあったので、皇帝や貴族の舘もここに集中していた。
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フォロ・ロマーノとは、日本で言えばさしずめ霞ケ関の機能があったパラティーノの丘と、神殿など(靖国神社か)が置かれたカンピドリーオの丘、そして少し離れたエスクィリーノの三つの丘に囲まれた水捌けの良くない低地を再開発して造られていて、この様子は現在コロッセオからヴェネツィア広場を通る大通りから見ると良く分かる・・・とはいささかブラタモリ的な解説となる。
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コロッセオを見学後、隣接するこのフォロ・ロマーノに入って行ったが、この時頼りにしたのが「ローマ人の物語」をベースにした観光ガイドブック。とにかく詳しいのでこれが役にたった。おそらく普通に見学したのでは単なる古代の廃墟を見た印象しか残らないだろうが、塩野七生に案内されている気分で楽しく回ることができた。ここでは46年前に妻の写真を撮ったが、その記憶を頼りに撮影場所を特定することもできた。
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▶写真を撮りながら一通り遺跡を巡り終わった頃、突如空がかき曇り雨が降り出した。その雨は見る見るうちに雹となって土砂降り状態に変わったのだから観光客はたまらない。傘を持たない地元の高校生達は、雹と雨に打たれてずぶ濡れの状態で、一時はどうなることかと緊張が走る。傘を持っていた私も近くにあった建物の下に逃げ込んだ。この騒ぎは10分程で雨が上がったので事なきを得たが、春先のローマ天候はかくの如く変わり易い。
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▶天気が回復したのは良かったが、私はこの時のドタバタで、持参した傘をフォロ・ロマーノのどこかに置き忘れてしまった。大事な傘なので必死に来た道を戻って探したが見つからない。ガイドブックに集中していたせいかも知れないが、情けない話だ。しかし諦めてフォロ・ロマーノを後にした。天気が定まらないので、どこかで傘を買わなければならないが、どうしたものか。

 

 

 

コロッセオ


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▶ローマに来ていると、時差が原因か年齢のなせる業かは知らぬが、夜中の3時頃に目が覚めてしまい、その後は寝付けない。もっとも近くのリストランテで午後6時頃に夕食を取ってしまうと、疲れと酒のせいですぐに眠たくなる。そして午後9時にはベッドに入ってしまう毎日だから、夜中に目覚めるのは何の不思議もない。

▶今朝(6日)も真夜中に目覚めてしまったので、ベッドの中で今日の行動パターンを考えていた。天候は晴れたり曇ったりだが、にわか雨の可能性もありそう。事前に計画していた目的地で残っている主要なところと言えば、コロッセオフォロ・ロマーノバチカン美術館、アッピア街道。残り2日では難しい気配だ。バチカン美術館は早朝並ぶしかないが、コロッセオは予約しか方法がない。

▶ものは試しとコロッセオの予約専用のホームページを開いて空き枠の状況を調べた。最近のスマホは画面を自動翻訳してくれるので簡単に目的画面を探すことが出来る。まさか本日の空き枠は無いだろうと思いながら検索すると、9時10分に26人の枠が残っているのを見つけて跳び上がった。良く見たが確かに残っている。

▶通常予約が済んだチケットは自分で紙にプリントするのが一般的だが、プリンターが無いのでこれは無理。更に注意書きを読むとオンライン・チケットと言う手があることが判明。チケット購入後、自分のスマホでオンライン・チケットなるものが実際に使えるのか不安は残ったが、ダメもとで18€支払ってチケットを購入した。

▶直ちにスマホに自動メールが届き、添付されたPDFファイルを開くと、今購入したチケットが表示されているので思わずバンザイしてしまった。これで朝一番のコロッセオが確定し、続いてフォロ・ロマーノにも行ける。うまくすれば午前中に終わるので、午後からはアッピア街道を歩けるかも知れない。すると明日はバチカン美術館に集中できそうだ。

▶以上は全てベッドの中の作業だが、時計を見ると既に午前7時を回っている。早速出かける準備を整え、8時に出発してコロッセオまで歩いて行った。昨日は既にコロッセオの周囲は全て見ているので難なく入口に到着して係りの人にスマホのチケットを表示すると、IDを示せと言う。すぐにパスポートを提示したらパーフェクトと云われて中に入れてもらった。やれやれ。

▶初めてコロッセオの中に入ったが、そこはもう古代ローマ時代である。2000年前にコンクリートと石とレンガでよくもこのような巨大建築物を造ったものだと感心する。しかもそれが21世紀の世の中にこうして残っている(※更に安全に中に入ることが出来る)のは奇跡的だ。一昨年の秋に黒部ダムを見た時に感動したのと同じく、人間の営みの凄さが実感出来る瞬間だった。
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▶昔はこの闘技場のアリーナの上で、剣闘士達が血で血を洗う闘いを繰り広げた。アリーナの下は地下部分で、ここには猛獣を隠しておいて、エレベーターで突然アリーナに出現させるといった演出があったようだ。ところで、当時どんな高貴な女性でもコロッセオの高い所からしか見物できない決りがあった。今回同じ場所から見ると、凄惨な闘いの現場からは適度に離れていて、寧ろ具合が良さそうだ。要するにそれは女性に対する配慮の証だったのかも知れない。
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▶世界史の授業では、古代ローマは「パンとサーカス」の時代だったと教えられた。これは当時のローマ皇帝の政治姿勢を示す比喩として有名だが、どこか軽薄な否定的なニュアンスを伴っている。しかし今回その解釈は間違いだということが実感できた。

▶パンとは全てのローマ人に一定量の小麦を支給する社会保障政策で、これはローマ法によって定められ、その小麦はシチリアや遠くエジプトからも輸入された。その前提となるのはローマによる平和、すなわち「パクス・ロマーナ」による安全保障であり、それはローマ皇帝の義務でもあったのだ。

▶そしてサーカスとは娯楽の提供のことだが、その為にこれだけの競技場施設を創り上げ、ローマ人に全て無償で開放した。その為の土木建築の技術は、上水道や橋などのインフラの構築に寄与しており、それもまたローマ皇帝の責務だったのだ。

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エジプト人はその高い技術で訳の分からないピラミッドを作ったが、ローマ人の作ったものは全て実用的なものばかりである。ハードばかりではない。ソフトも作ったが、その現在につながる最大の遺産は「ローマ法」である。しかしこれはまた別の話。

▶以上は塩野七生の「ローマ人の物語」を読んで感じたことがベースとなっているが、「パンとサーカス」は古代の歴史から現代に通ずる重要なアイテムを我々に提示している。そんなことを思いつつコロッセオを後にして隣接するフォロ・ロマーノに向かった。

 

 

 

バチカンからトレビの泉ヘ


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▶ローマ3日目の火曜日は、ローマ・カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂の訪問から始まった。本来は月曜に行く予定だったことは既に書いた通り。ここは宿泊しているアパートから2km程の距離なので、日曜の午後一度下見に来ているが、その時は広大な広場を横切るように長大な入場待ちの行列ができているのを見て、驚いた。列の進み具合からして2時間以上は並びそうな気配だったからである。

▶大聖堂が開くのは午前7時からなので、一番乗りすれば何とかなると思い、昨日とは異なり気合いを入れて午前6時半にアパートを出た。朝は早いが、既にクルマの量は多い。ティヴェレ川を超える時に右前方にサンタンジェロ城が見えてきた。この景色は実に絵になる。橋を超えて大きな通りを左折すれば、もうそこは大聖堂に向かう参道である。
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サン・ピエトロ大聖堂は、イエスの一番弟子であったペテロが殉教した場所に、4世紀初めにキリスト教を公認したので有名なコンスタンティヌス帝が建てた聖堂が出発点だ。現在の大聖堂はルネサンス期に何人もの教皇が1世紀以上に亘る時間をかけて再建したもので、建築設計にはイタリアを代表する多くの建築家(ラファエロもその一人)が参加した。最終的に現在ある骨格を造ったのは、誰あろう天才ミケランジェロである。

▶紀元64年にローマで大火が発生した。時の皇帝であったネロは、この大火の原因はキリスト教徒にあるとして、彼らの弾圧に踏みきる。数百人のキリスト教徒が見せしめの為に殺されたと言われるが、その場所はカリギュラ帝が造った大競技場で、現在ある大聖堂は実はその場所に建っている。サン・ピエトロ大聖堂前の広場には巨大なオベリスクが立っているが、このオベリスクカリギュラがエジプトから運ばせたものである。

▶また伝承によると、使徒ペテロはネロの迫害を逃れるためアッピア街道を下る途中、再臨したイエスに遭遇する。この時ペテロが「クオバディス、ドミネ(主よ、何処に行きたもう)」とイエスに問うと、「お前がローマから逃げるなら私自身がローマに行かなけれならない」とイエスに諭され、その言葉に恥じたペテロは自ら引き返して逆さ十字架の刑に服したと言われる。そこに今サン・ピエトロ大聖堂が建っている。

▶この良くできた話は、映画「クオバディス」で語られるが、実は現在も残る旧アッピア街道には、このイエスとペテロが邂逅した場所としてクオバディス教会が建っており、私は昨日アッピア街道を歩いた時、実際にこの教会にも行って来た。なお、これについては別に書く。

▶話があちこちしたが、朝一番で来た甲斐があって、午前7時過ぎには大聖堂に入場することができた。聖堂に入って直ぐ右手にミケランジェロの傑作ピエタ像がある。聖マリアが十字架に架かって亡くなった我が子イエスを抱きかかえている姿なのだが、46年前にこの像を見たとき、そのあまりの素晴らしさに感動して、しばらく動けなかったことがあった。今は昔の話だが、恥ずかしながら芸術的感興に打たれたのは、生涯この時だけだ。
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▶この像は以前は間近に見ることができたのだが、私が初めて見てからしばらく後に不逞の輩によってマリアの鼻が壊されてしまい、このニュースは世界の多くの人を嘆かせた。現在は修復されているが、この事件以降ピエタ像はガラスで囲まれてしまい、残念ながら間近では見ることができなくなってしまっている。それでも今回この像に再開することができたのは私にとっては幸福で、今回の旅の最大目的の一つは達成されたと言っていい。
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▶せっかく空いている大聖堂に入場できたので、チケットを買って聖堂のクーポラ(円屋根)にある展望台に登った。ここは高さが120mもあり、エレベーターを降りてから更に350段もの階段を登らなければならない。それでも登った甲斐があって、ここからのローマ市内の眺めは素晴らしい。ただし、体力がないと、ここはシンドイ。エレベーターを使わずに下から登る猛者もいるが、勧められない。
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▶午前9時頃に大聖堂を出てから裏手のバチカン美術館に向かった。こちらはチケットを持っていない人は購入の為に行列に並ぶ必要があるが、実際に行ってみると既に2時間待ちの行列ができていた。時間の無駄なので他日を期すことにしてバチカンを後にしたが、何度も言うようだがこのあたりの融通が効くのが個人旅行のいいところだろう。

▶次に行ったのはバチカンから歩いて20分程の所にあるアウグストゥス帝廟近くのアラ・パチス(平和の祭壇)。近代的なガラスの建物の中に移されてはいるが、2000年前に第1代皇帝アウグストゥスによって築かれたものをこちらに移しているが、周囲にある浮き彫りにアウグストゥスの家族の姿が残っているのが有名。

▶ローマに来てここを訪問する人が少ないのは地味な遺跡だからだが、私は塩野七生の「ローマ人の物語」のガイドブックを片手に、浮き彫りにあるアウグストゥスの家族を一人づつ確認していった。こんなことに30分も時間を費やす観光客は他にいないが、塩野七生を読んでいると不思議とそんな気になる。傍らでは先生に連れられた中学生くらいと思われる集団が、興味無さそうに先生の話を聞いていた。

▶この日はポポロ広場からスペイン階段、そしてこれもお目当てのトレビの泉を回った。大胆な彫刻で有名なトレビの泉はとんでもない混雑で、泉に近づくのも一苦労の状態だった。この泉の水はしかし水道水ではない。当時ローマには10本以上の上水道が引かれていたが、そのうちの一本は現在でも健在で、トレビの泉の水はこの古代の上水道によって供給されているとか。昔は後ろ向きにコインを投げると再訪できると言われていたが、今どきコインを投げる人は一人も見なかった。
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▶トレビの泉近くのローマでは珍しい中華レストランで軽い昼食を取ってからコロッセオに向かった。近づくにつれてとんでもない大きさのコロッセオが目の前に迫ってくる。チケットを買っていないので当然中には入れないが、何処かにチケット売り場がないかぐるりと一周してみても見つかられない。結局諦めてこの日はもう切り上げてアパートに引き上げることにした。後でネットで調べたが、どうやら当日券は殆ど販売されていないことが判明。さあどうするか・・・・。

 

 

 

パンテオンから真実の口へ


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▶ローマに来る前におおよその観光プランは立てては来ているものの、現地の事情でその通りに進まないことは多い。最大の要因は人気が集中するコロッセオフォロ・ロマーノバチカン美術館などの入場に予約が必須だということで、予約がない一見の観光客にとっては列に並ぶしか方法はないが、2〜3時間待ちが常態で、しかも当日の混雑状況によっては入場の保証がないからだ。

▶これはパリのルーブル美術館なども同じだったが、私の場合、今回は予約は取らなかった。一つには大筋の日程を決めるのに直前まで時間がかかったことが大きいのだが、その理由は天気予報である。春先のローマは天候が不順で、雨も多い。今回のローマ行は歩くことが基本と考えていたので、天気の良さそうな時にアッピア街道などメインの所を歩きたかったからで、先に予約を入れてしまっては融通が効かない。

▶ローマに着いた日曜の午後に、パンテオンバチカン広場に下見に行った際、長大な入場待ちの行列を目撃したので、ここに行くなら朝早く行くしかないと考えて、翌日からのプランを練った。そして月曜はバチカンを主体としたコースから始めることにしようと決めた。

▶月曜の朝はそれなりに早く起きたのだが、何やかんやで出発が手間取ったため、時計を見ると午前8時近くになっている。これからバチカンに行ってもタイミング的に遅いので、それなら急遽コースを変えて最初に最も近くにあるパンテオンに行くことに決定した。先程言ったように、このあたりの融通が効かせられるのが個人旅行のありがたいところだ。

パンテオンは現在ほぼ完全な形で残っている古代ローマ時代唯一の建造物で、原型は紀元前25年にアウグストゥスの側近のアグリッパによって神殿として建てられたが、火事で焼失した。その後2世紀初めにハドリアヌス帝によって現在に残るパンテオンに再建されたが、アグリッパに敬意を表して、神殿前面のファサードにはアグリッパの名前がラテン語で刻まれている。私も実際にそれを確認した上で内部に入った。
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パンテオン内部は直径43mの巨大な球体がすっぽり入るように設計された建物で、天井には丸い大きな穴が空いていて、そこから光が差し込む設計になっている。雨が降ったら内部が水浸しにならないか気になるが、よほどの大雨でもない限り心配はないようだ。ちなみに前夜もかなり雨が降ったような気がするが、ロープで囲まれた中央部を見たら僅かに濡れている程度であった。
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▶しかし驚くのは全く支えのない直径43mの円形空間を造った古代ローマ人の建築技術の高さで、壁の厚みは最大で6mに及ぶ(しかも上に行く程薄くなっている)と云うから、その凄さはやはり現物を見ないと実感できないだろう。また、この技術を支えたものにローマン・コンクリートの存在があるが、これについては別に触れたい。

パンテオンを出てから次々と名所を巡った。備忘録のつもりで名前だけ以下に挙げておくが、サンタマリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、アグリッパ浴場跡、ティベリーナ島、オクタビア回廊、マルケス劇場(写真)等々。途中のカンポディ・フィオーリ広場のカフェでピザとビールで昼食を取った。
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▶本日最後の見せ場は、サンタマリア・イン・コスメディアン教会。名前を言っても分からないが、「真実の口」がある所といえば分かる。映画「ローマの休日」でヘプバーンとグレゴリーペックが訪れたので一躍有名になったが、46年前に私も妻とここに来て写真を撮った。時は流れたが、当時と変わらず「真実の口」はそこに置かれていて、相変わらず観光客で賑わっていた。ちなみにこれは、ローマ時代の下水道の蓋だったとか。
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▶ここまで歩くとさすがに疲れた。最後は真実の口から登ったところのアヴェンティーノの丘で、ここから下を見るとチルコ・マッシモの広大なスペースが見える。かつては競技場があった跡地だが、その向こうにはパラティーノの丘がみえて、天気が良ければ夕日がキレイだそうだが、あいにく当日は少し時間が早かったためか期待した夕日は見えなかった。
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