マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

「太子河」満州本渓湖100年の流れ


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▶先日本棚を整理している時に、「太子河」という大判の本(A4版で380ページ)を見つけた。太子河と聞いて俄かに分かる日本人は極めて少ないと思われるが、中国東北地方(旧満州)を流れる河の名前である。この本は、かつて私が義父からもらったものであるが、もらった後もページを殆ど開かないまま、我が家の本棚の最下段に眠っていたものである。奥付を確かめると1992年11月の発行とあり、発行元は本渓湖会とのこと。義父は編集委員会のメンバーとして、この本の発行に深く関わっていた。

▶義父は大正10年(1921年)の3月生まれなので、生きていれば今年で103歳となる。しかし平成6年(1994年)10月に、自宅で昼寝中に心筋梗塞で急逝した。当時まだ73歳と若く、ポマードをつけた豊かな頭髪には白髪が1本もないのが自慢の義父だったので、妻から知らせを聞いた時は心底驚いた。実は亡くなる2週間前に、義父の先導で岐阜中津川にある先祖の墓を自宅近くの小田原市営霊園に移したばかりで、この時は私と妻も会社を休んで墓じまいを手伝ったのであるが、その直後に施主であった義父が亡くなるのだから、人の運命は分からない。

▶さて、私と義父の間にはちょっとした因縁があって、それは私が妻と結婚したあとに次第に分かってきたことなのだが、当時妻との結婚を前にして私はある製鉄会社への就職を決めたのだが、その際義父が思いのほか喜んだことがあった。しかしなぜ義父がそんなに喜んだのかは、当時の私は全く分かっていなかった。ところで私は就職後に製鉄所の会計課原価計算掛に配属されたが、実は義父も若いころ製鉄会社に勤務していた経験があり、しかも同じように一時期経理業務を担当しているのである。この事実は、今回「太子河」を読んだことにより判明した。

▶義父一家は、昭和14年に北海道(⇐岐阜中津川)から満州に渡り、義父は父親と弟と共に「本渓湖煤鉄公司」に入社した。この公司(こんす=会社)は、大正4年(1915年)に日本の財閥大倉組が旧満州の本渓湖(現在:遼寧省本渓市)に中日合弁で建設した製鉄会社で、昭和14年当時は、満州国と大倉組の合弁会社として、主に日本海軍向けに低燐銑(純銑鉄=燐分が低い高級な銑鉄)を供給する戦略的位置づけの製鉄所を経営していた。大倉組は、日中戦争の最中の昭和15年に、本渓湖宮の原地区に新たな製鉄所の建設を決定し、義父はこの時の建設本部の経理係の要員として採用されたのである。

▶義父は昭和17年に22歳で応召され本渓湖を離れたようであるが、詳細は分からない。いずれにしろ、昭和20年8月に日本が敗戦を迎えた時、本渓湖には約8000人近い日本人製鉄関係者が残っていて、ソ連軍と中国軍(共産党軍と国民党軍)が交互に進駐してくる中、全ての財産を捨てて命からがら日本に引き揚げることになったようである。残された製鉄所は、一時期ソ連軍の略奪にあって主要な設備を殆どソ連に持っていかれた為操業を停止したが、戦後しばらくして中国政府のもとで本渓鋼鉄集団有限公司として再出発する。

▶本渓鋼鉄集団は、2021年に中国遼寧省の鞍山鋼鉄集団(旧昭和製鋼所が起源)と合併して、粗鋼生産能力が6300万トンにも及ぶ巨大鉄鋼集団の傘下に入った。この鉄鋼企業は、アルセロール・ミタル、宝鋼集団に次ぐ世界第3位の規模を誇る。ちなみに私は20年程前に本渓鋼鉄に近い鞍山鋼鉄集団の鞍山製鉄所を見学させてもらったことがあり、この時は瀋陽(旧奉天)も訪れて昔日の満州の面影の一端を知ることができたが、この時すでに義父は亡くなっており、残念ながら土産話をすることはかなわなかった。

▶話は少し戻るが、昭和47年にかつて本渓湖煤鉄公司に関係した人たちを中心に「本渓湖会」が結成され、新橋の新橋亭で第一回本渓湖会が開催され、義父も参加した。義父はその後も会の中心メンバーの一人として活躍したが、どういう訳か義母や娘である私の妻は義父の活動には興味を示さず、義父はもっぱら私にのみ本渓湖にいた頃の話をしようとした。ただ私も当時はまだ若く、本渓湖と言われても全くピンと来なくて、義父の話をやや上の空で聞いていたような気がするが、今考えればもったいないことをしたと思っている。

▶ところで、義父は戦後仕事が色々変わったが、昭和20年代の末頃に神戸の摩耶興業という鋼材加工会社に勤めていたことがある。義父は程なくこの摩耶興業を離れたが、摩耶興業時代には取引先の製鉄会社とはかなり親しい関係にあった。その後この摩耶興業とS鋼材とA特殊鋼の3社が、くだんの製鉄会社の社長の肝いりで合併してK商事という会社に大同団結する。昭和52年に私は製鉄会社に就職するが、実はその会社はK商事の親会社となっており、義父はこの間の経緯をよく知っていた。義父が私の就職先を喜んだのは、そういう歴史があったからなのだ。

▶そして義父が亡くなってから14年後の2008年に、私は製鉄会社を辞めて系列の商社に移った。当初私は義父の件はまったく忘れていたが、この会社の前身がかつて義父も関係していたことのあるK商事であることを改めて思い出して、その偶然の重なりに私自身もかなり驚いた。

▶改めて「太子河」を開いて読む。この本は、かつて満州本渓湖に暮らした人々の喜怒哀楽の思いが詰まった本であり、本渓湖会の活動の一つの集大成として編集されたものである。私の義父は、編集委員会代表として、この活動に参画した。それは今回初めて知ったことである。大部の本の中に赤のボールペンで印がついている箇所が幾つかあるのを発見した。いずれも義父が直接関係していた項目で、掲載している白黒写真には自分が写っているところが赤〇で囲んであり、義父の字で説明書きも書いてある。その僅かな説明書きを読みながら、これはまさしく、私に読んでくれと義父がわざわざ残してくれた、私へのメッセージなのだと改めて思った。

日中友好の架橋に(第一回本渓湖会後の礼状)

○○○○(義父の名前)

秋冷の候、この度の本渓湖会と130名もの大勢の人が一堂に会し、30年振りに旧交を温め、懐かしい本渓湖の楽しかった生活の追憶を新たにした一刻を過ごし得たことは、偏に旧大倉鉱業のご理解のもとに、主催者関係各位の並々ならぬ御努力の賜と心より感謝いたします。・・・・以下略・・・それだけに、これから始まる日中国交が末永く友好を保つためには、私たちの一人ひとりが次の世代に真の友好の在り方を、体験を通し教え伝えなければならないと思います。・・・・・御礼方々、私見を混じえ歓びの感謝の意を書き綴りました。

中央建物○○○○様