マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

年末年始あれこれ


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▶なぜ正月がめでたいのか。それは無事に年が越せた証であるからだ。年が越せないというのは、何も経済的な意味だけでなく、かつては老いも若きも年を越せずに亡くなる人が沢山いたのである。昔はコロナは無くとも平均寿命が短った。そのめでたい正月を、あの一休禅師は「正月は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と狂歌にした。めでたかるべき正月の門松も、冥途の旅の一里塚に見えてくるようになったとしたら、それこそオシマイだが、私も最近実感できるようになったから、この狂歌を素直には笑えない。

▶ところで、昔は数え年だったから、正月が来ると全員が一斉に年を取った。誕生日ではなく正月に年を取るというのは、閏月(うるうづき)が一般的だったかつての太陰暦では、満年齢で数える方が実は煩雑で(閏月生まれの人の誕生日をどうする?)、正月に一斉に年を取る方が簡単だったからだとモノの本に書いてある。

▶また数え年では、生まれた時点で1歳と数えるが、満年齢が常識とされる現在では、奇異な年齢の数え方に思われている。ただ、生まれる前に母の胎内で十月十日も過ごしていることを考えれば、生まれた時点で1歳と数えるのはあながち間違いとは言えないだろう。

▶それに、0という数字が何もない状態を表しているのだとすると、0歳児というのは生まれているのに年齢がない存在(数学的には)ということになり、なんだか気持ちが悪い。それに、年の始まりは1月だし、令和の始まりは元年だから、人の年齢も1歳から始まることに違和感はない・・・ですよね。

▶ところが、私の妹は、12月30日生まれだったから、数え年ではナント生後3日目の元旦にして2歳となった。しかし、生後3日の新生児を2歳と呼ぶのは、さすがに違和感がある。父や母は、妹を何歳と思っていたのだろう。

▶私は昭和35年に小学校に入学したが、翌年の元旦は登校日だった記憶がある。元旦の朝の校庭に児童全員が整列し、校長先生の新年の挨拶を聞いた後、全員が紅白餅をもらって帰宅した。今から考えると、まるで戦前から続く光景のようで、よくも昭和36年まで続いたと思うが、この行事はこの年限りで廃止され、翌年から元旦の登校はなくなった。安保反対や勤務評定反対などのデモが前橋市内でもあった後のことだったから、時代の流れだったのだろう。ちなみに、私はこの時のデモのことを、母と一緒に母の実家に向かうバスの中から目撃している。

▶この頃の正月の思い出はというと、昼間から父親がコタツで酒を飲んでいたことが目に浮かぶ。父の仕事は、一人親方の材木運搬業で、普段は休日などないに等しい生活をしていたから、休んでいる父を見るのは、めずらしくもあり、甘えることもできて何だか不思議に嬉しかったことを覚えている。母がよそ行きの着物姿で父親に酒や肴を運んだりしているのも、正月でしか見られない光景だった。

▶当時住んでいたのは紅雲町の長屋で、路地をはさんで小さな鉄工所があり、辺りにはいつも鉄くずが散らばり雑然としていた。ところが正月になると、鉄工所の周囲はきれいに掃除されて、こどもたちは正月用の真新しいズボンをはいて(これが嬉しかった)、この場所でメンコやビー玉で正月遊びをすることができた。その後は、利根川の河原に降りて行って、近所の駄菓子屋で買った凧をあげた。正月のカラっ風にあおられて、凧はよく上がった。

▶それから60年以上たった正月の風景は、良くも悪くも日常生活と区別がつかなくなった。それでも例年の我が家では、正月には子ども達が家族連れでやってきて全員で年越しをする。3家族が集まるので、とても賑やかだが、今年はやや寂しかった。

▶次女の家ではクリスマスに孫娘がコロナ感染してしまい、次女一家は東京の自宅でおとなしくしていることになった。大晦日には長男と長女の一家がやってきたが、長男一家では、嫁さんが風邪をこじらせてしまい、残念ながら彼女も東京の自宅に残って静養することになり、結果的に大人4人、孫5人の年越しとなった。

▶大晦日は、紅白歌合戦を見ながらワインを飲んだ。昭和・平成・令和と続く歌合戦という趣向で、加山雄三ユーミン桑田佳祐が歌ったが、彼らの歌を聴きながら、私は昭和が確実に遠のいていくのを実感していた。