マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

故郷に帰る道・・17号線上武道路・・


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▶今年も残り少なくなってきた先週の日曜日、前橋の実家の墓参りに行ってきた。午前8時過ぎに車で千葉の自宅を出て、京葉道路から外環道経由で東北自動車道に入る。日曜日の朝は、道路が空いているので快適なドライブが楽しめる。1時間と少しで加須ICで降りて、国道125号線に入った。母親が元気だった頃は、関越を使って前橋まで行くことが多かったが、最近はもっぱらこの東北自動車道ルートで帰ることが多い。前橋市の南にあった実家に立ち寄る必要がなくなったことが大きいが、それよりも125号線経由で17号線の深谷バイパスから上武道路に入り、利根川を渡ると見えてくる赤城山雄大な眺めが、このうえなく気に入っているからだ。

▶子どもの頃、私は前橋市の中心部に住んでいた。そこから見える赤城山は近くて大きい。しかし、本来の赤城山の美しさを愛でるのであれば、少し離れたところから全体を眺めるのがいい・・ということに最近気づいた。赤城山の魅力は、その広大な裾野の広がりにあるからだ。その意味では、赤城山を見る時のベスポジは、伊勢崎あたりだろうか。その伊勢崎市を上武道路が通っている。上武道路とは上州(群馬)と武州(埼玉)を結ぶ道(国道17号線のバイパス)である。


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上武道路利根川を渡るともう群馬県である。広い川幅の利根川が埼玉県と群馬県を分けているのだが、実はこの場所に関係する有名人が二人いる。一人は、昨年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公である渋沢栄一である。日本資本主義の父と呼ばれる渋沢は、江戸末期の1840年に、現在の埼玉県深谷市の最北部にある血洗島の農家に生まれた。当時この地域は、藍玉作りが盛んであったが、明治以降は養蚕に転換している。ここから北に2~30分も歩けば、もうそこには利根川が流れており、利根川越しに雄大赤城山が裾野をたなびかせているのが見える。渋沢栄一は、利根川赤城山を見ながら育ったのだ。

▶血洗島という名前はおだやかではない。名前の由来は諸説あるようだが、大河ドラマでは紹介されなかった。赤城山の神が、他の山の神と戦争をして、手を切り落とされた時に流れる血をここで洗ったという説が、比較的もっともらしいが、まあ、よく分からない。内陸部なのに島という名も気になるが、この辺りの利根川は、昔はよく氾濫を繰り返して、そのたびに流れが変わり、大きな中州が残された。島とは利根川の中州のことだろう。

▶ところで、血洗島から北西に少し行って利根川を渡ると島村という村がある。ここは現在群馬県の境町だが、名前が示すごとく、島村もかつては利根川の中州であった。こういう土地は川欠地と言って、田んぼや畑に適さない荒廃地であるが、桑を植えるとよく育つので、この地域には養蚕業が栄えた。養蚕業から生み出された現金収入によって、この地域は次第に発展していく。

1834年天保5年)、ここで島村の伊三郎という男が殺された。血洗島に限らず、この辺りはよく血が流れるようだ。島村伊三郎は、この地域を縄張りとする任侠の親分で、殺したのは、そこから15㎞ほど北にある国定村を縄張りとした新進気鋭の侠客・長岡忠次郎、いわゆる国定忠治である。伊三郎を殺した国定忠治は、幕府のお尋ね者になるのだが、何故か10数年もこの地域で生き延びて、更に勢力を拡大していった。そして、その有様は、その後多くの講談や映画や流行歌の題材となった。

東海林太郎が歌った「名月赤城山」や「赤城の子守歌」は、幕吏に追われた国定忠治が、赤城山の山中に隠れていた様子を描いている。しかし、忠治は必ずしも赤城山を根城にして四六時中こもっていた訳ではない。お尋ね者の国定忠治が長年にわたって捕縛もされずに堂々と生き延びることができたのは、この地域に暮らす人々(※私の先祖も含めて)の忠治に対する隠れた理解と支援にあったと言っていい。要するに忠治は人気があったのだ。ちなみに、酒飲みだった私の伯父は、当時酔っぱらうといつも「男心に男が惚れて・・」と名月赤城山を歌った。

▶それは国定忠治コミューンとも呼ぶべきものであったのだが、背景には、幕藩体制を基盤とする支配構造が、この地域では極めて複雑に入り組んでいて、例えば境町(村)は千葉の木更津の小藩の飛び地であったりして、当時の統治体制が、部分的にあるいは殆ど崩壊していたという事情もあるようだ。これについては岩波新書国定忠治」(高橋敏 著)に詳しい。

国定忠治が幕吏に捕縛されて、最終的に磔刑に処されたのは1850年12月21日のこと。彼の罪名の最大のものは、上州大戸の関所(群馬県吾妻町)破りだったので、刑はわざわざ遠く離れたこの地で、幕府の威信をかけた見せしめとして執行された。が、当日には近在から1500人を超える見物があったというから、幕府の思惑とは別に、侠客・国定忠治に対する当時の庶民感情は複雑で、刑の執行に対する関心は、そうとう高かったことが分かる。

▶上州名物は、「かかあ天下と空っ風」と言われるが、ヤクザや侠客の多さもその一つである。それらがいずれもこの地域特有の風土や社会に根差したものであることを、私はこの年齢になってやっと実感できるようになった。大河ドラマの主人公の渋沢栄一のしゃべり方は、深谷言葉であるが、実質的には上州弁と言われる方言である。それは昔の私のしゃべり方そのものでもある。だからテレビを見ていて懐かしくもあり、思わず苦笑してしまう。なぜなら、私は昔、東京の友人達から「お前のしゃべり方は、なぜかヤクザっぽいんだよね」と言われたことを思い出すからだ。

渋沢栄一国定忠治も、同じ時代の同じ場所に生き、同じ言葉をしゃべった。利根川をはさんで、南の血洗島に生まれた栄一は、その後の日本資本主義の生みの親となった。そして、北の国定村に生まれた忠治は、アウトローとして、幕藩体制崩壊時にあだ花として咲き散っていった。時代の日向と日陰、陽と陰、表と裏が、当時の北関東には混在していたのである。

上武道路から見る景色は、幕末と現在では大きく様変わりしているはずだ。しかし、利根の流れと赤城山雄大な眺めは、栄一や忠治が見たものと変わらずそこにある。前橋に帰る時、そしてこの道を通るたびに、いつもそんなことを考える。時代は移り身近な人は誰もいなくなったが、やはり故郷はいいものだ・・・と思いながら。