マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

聞こえるはずのない音が聞こえる!!


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▶12月になると朝が遅い。今朝目が覚めた時もまだ暗かった。午前6時10分過ぎである。ベッドの中から手を伸ばしてリモコンでラジオをつけると、NYダウが500ドル上がって為替は137円だった。6時半のラジオ体操をするならもう起きないといけない時刻だが、ベッドから出られない。そのうちまた眠気が出てきて、ウトウトしていたら何やら昔の仕事の夢を見た。次に目が覚めたら時計は既に7時を回っている。

▶その時、突然にという具合に、聞こえるはずのない音が聞こえだした。この経験はまったく久しぶりだったので、不思議と懐かしい気がする。そうかお前はまだそこにいたのか・・・と一人つぶやくでもなく、つぶやく。音の主は左耳から聞こえる耳鳴りである。実は、私には30数年来の耳鳴りの持病があって、それが今朝突然に復活?したのだが、これは正確なモノ言いではない。何故なら左耳の耳鳴りは四六時中聞こえているからだ。

▶30数年前の夏のある日、当時岡山の倉敷市に住んでいた私は、仕事で東京方面に出張した。その晩、千葉で同僚たちと久しぶりにしこたま酒を飲んでホテルの部屋に戻ったが、朝方に異変が起こった。その時私は、左耳に大量の綿が詰まっている夢を見ていた。耳が聞こえないのである。目が覚めると本当に左耳が聞こえない。何か耳にお椀がかぶさったような不思議な感覚だった。もう一度眠って起きれば回復するだろうと思ったが、次に起きた時には、左耳は全く聞こえなくなっていた。

▶このままでは仕事ができないので、その朝近くの病院に駆け込んで診察を受けた。診察をしてくれたドクターは、ただちに診断を下す。病名は突発性難聴である。ドクターによると、この病気はその名前が示すごとく原因が不明で、とにかく症状が出たときの対応は絶対安静を保持することが第一だという。自宅が千葉ならこのまま入院するのがベストだが、岡山だとそうもいかない。どうするかと聞かれて、一旦岡山まで戻って入院治療しますと答えた。

▶その後は大変だった。岡山の職場や自宅に連絡したり、急遽入院の手筈を整えてもらったりと大騒ぎだ。岡山までは生まれて初めて新幹線のグリーン車に乗って安静にして帰った。入院したのは岡山大学医学部付属病院で、ここにしたのは、突発性難聴の治療のために必要な高気圧酸素療法ができる設備を有するのが、岡山県ではここだけだったからだ。

▶結局、この病院でステロイド投与を受けつつ、毎日一定時間、潜水艦のような小部屋で高気圧酸素を吸い続ける治療を一ヶ月近く続けた。左の耳は、入院2週間目くらいから僅かに聞こえるようになり、最終的に聴力は70%近く戻ったが、後遺症として高音難聴とひどい耳鳴りだけが残った。そして、それは現在も続いている。余談だが、ステロイド投与による副作用はひどかった。顔が風船のように膨らみ、その後は顔中に吹き出物ができた。しかし、1年経ってこの副作用は治まった。

▶左耳の聴力が7割近く残ったのは結構なのだが、なにせ耳鳴りがひどくて、日常生活に差し障る。ドクターに相談したが、こればかりは手の打ちようがないので、慣れるのを待つしかないとのこと。これには参った。しかしと言うべきか、人間のからだは良くできている。時間が経つにつれて、耳鳴りの音を意識することが少なくなってくるのだ。数年経った段階では、日常的に耳鳴りを意識することは全くなくなった。どういうことかと言うと、意識すればひどい耳鳴りが聞こえるが、意識しなければ聞こえないという状態だ。

▶子供の頃、私は前橋市を流れる利根川のすぐ近くに住んでいたことがある。そこは、利根川のザーザーという瀬音が大きく聞こえる場所で、家を訪ねて来た人は、例外なく瀬音がよく聞こえます(うるさいです)ねと言った。しかし、住人である私達には、そう言われても、どれが「瀬音」なのか、にわかには分からなかった。あまりに「瀬音」が日常化しているので、実際に聞こえている音が聞こえないのだ。

▶しかし、よくよく考えると、そもそも音が聞こえるというのは、一体どういうことなのだろうかとの疑問がわく。私に聞こえる耳鳴りの音は、どのようにしても貴方には聞こえないだろう。だったら、耳鳴りは音ではないのか。そんなことはない。当事者である私には、ラジオの雑音と耳鳴りの雑音は同じ音に聞こえる。音は客観的に存在するものではない。主観的に感じるものなのだ。少なくとも私にとっては。

▶禅の有名な公案(問答)の一つに、「誰もいない深山で、大木が一本倒れた。音はしたか?」というのがある。この問答に正解があるのかどうか知らないが、音波が生じるから音はしているハズだという答えもあれば、聞いている者がいない世界では、音など存在しないという答えもある。仏教には、唯識という哲学があり、これによれば、全ての存在は、人間の「識」すなわち感覚が作り出した幻影であって、実際に存在するものではないと教える。だとしたらどうなのか。

▶これと全く同じようなことを、現代の素粒子論は言う。量子力学によれば、物質の根源である素粒子は、確率的にしか存在しえず(※つまり霧の塊のようなもの)、人間が観察することによって、初めてその位置や速度が分かるという。つまり、見ているのと見ていないのでは大違いと言うことだ。簡単に言えば、素粒子(※すなわち、それによって作り上げられた物質)は、人間が観察するまでは具体的に存在が確定していないとも表現できる訳で、これは、唯識の哲学に酷似している。また、現代最先端の宇宙論によれば、この世界はビッグバンによって無から生じたことになっているとのことだが、無から有が生じるという科学は、実は仏教よりブッ飛んでいる。

▶話が少し飛び過ぎたようだが、私の妻は、亡くなる数日前に病室で静かに私と向かい合った際、「不思議ね、私とあなたの間に、赤い花があるのよ、ほらここに!」と言って手を伸ばした。どんな花かと聞くと、しばらくしてハイビスカスと答えた。「あなたには見えないでしょうけど、こうして触ることもできるのよ」と妻は手を動かしながら静かに笑ったが、哀しい目をしていた。私には、これをがん患者が観る幻覚の一種だとの一言で片づけることはできない。

▶私はいつか、妻が見たハイビスカスを自分も見てみたいと思う。それを自分の眼で確かめたとき、なるほどこれが妻が言っていたことなのかと改めて納得できるだろう。はじめに言ったように、現在私にはあなたには聞こえるはずのない音が聞こえている。しかし、この音は、このブログを書き終えて、昼食の支度にとりかかる頃には、消えてなくなっていることだろう。その時、一体耳鳴りはしているのだろうか・・・。