マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

人生の下り坂、林住期を生きる


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▶今年の正月に古希を迎えた。思えば遠くに来たものだとの実感がある。10年前に還暦を迎えた時は、現役でバリバリ仕事をしていた時期だったので、ことさら自分の年齢を意識することなどなかったし、まだまだ充実した上り坂がこれからも続くことに疑いを持つことはなかった。それから10年。私は間違いなく人生の峠を越えた。そして今や自分が人生の下り坂を下っているのだということを、はっきりと自覚するようになった。

▶林住期という言葉がある。林住と臨終の音が似ているので誤解されやすいが、臨終期のことではない。私がこの言葉を知ったのは五木寛之の「林住期」という本においてである。古代インドでは、人生を次の四つに分けて考えていたという。すなわち、「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」である。この言葉を真に理解するには、当時のインドにおける人々の思想や生活の成り立ちを知る必要があり、それが必ずしも現代に生きる我々の人生の指針につながるものではないとは思うが、それでも知っておく意味は十分ある、と思う。

▶「学生期」というのは勉強を主体とする時期で、今でいう青春期である。次いで「家住期」に入るが、この期間は家を作り家族を養うために働く時期で、壮年期のことである。そして「林住期」とは、仕事を引退して家を出て1人静かに林の中に住む時期のこと。最後の「遊行期」は、死にゆくための準備をする期間である。「林住期」と「遊行期」の特徴は、家を出るということ、すなわち出家をするということを連想させる。

▶古代インドのバラモン教ヒンズー教も、そこから派生した釈迦の仏教も、生きとし生けるもの全ては、過去から未来永劫に至る輪廻転生の連環から逃れることはできないという前提に立っており、当時のインドでは生きて行くこと自体が「苦」であると認識されていた。この中にあって、釈迦は出家して「覚り」を得ることで輪廻転生(すなわち人生の苦しみ)から逃れることができると説いた。ただし、出家と覚りは必ずしも釈迦の専売特許というものではなく、当時の人達は皆同じような認識を持っていたのである。すなわち、覚りを得るためには、出家しなければならないということを。

▶「林住期」というのは文字通り家を出て林に住むということである。それは出家して覚りを目指すということを強く示唆しているが、これはまさに当時のインドでは理想的な人生の送り方とされた。王族であった釈迦は、29歳で妻と子供を捨てて出家し、6年間におよぶ苦行の果てに35歳で覚りを開いたとされている。ただし、全てのインド人の男・・・当時は女は覚りを得ることができないとされていた・・・が釈迦の真似をして30歳前後で出家してしまっては、働き手を失ったインドの社会は破綻するしかない。出家を勧める釈迦の立場も分からんでもないが、これは原始仏教が直面した最大の矛盾であると言っていい。なぜなら乞食同然の出家者を支えるためには、健全に働く多くの一般民衆が必要だったからだ。そして、それが大乗仏教を生む動きにつながっていくのだが、それはまた別の話である。

▶古代インド人や釈迦が歩んだ林住期とはいささか異なるが、五木寛之は、改めて現代日本における「林住期」の意味を説く。彼は「林住期」こそが人生のピークである可能性が高いと言う。人は人生の前半は良い暮らしを求めてしゃにむに働く。そこには自分とその家族の為だけでなく、働いて税金を納めることで社会の維持発展を僅かながらでも支えているという満足感がある。それは、苦しくとも走り続けるマラソンランナーが感じる高揚感や幸福感に近いのかもしれない。

▶だから、何も考えずに前だけ向いて元気に走り続けてポックリ死ぬのが一番いいんだと言う人がいるが、そう思う人の多くは、実際に自分が引退生活に入った時のみじめな姿(ヒマで孤独?)を想像したくないらしい。私の友人の一人は、60歳を過ぎてまだ現役で仕事をしている時に心筋梗塞で亡くなった。美空ひばり石原裕次郎も現役のまま50代で亡くなった。彼らは皆、ヒマも孤独も感じずに人生を閉じてしまったが、私は彼らの亡くなり方が理想的だったとはどうしても思えない。

▶現代の「林住期」は、実際に家を出て林に住むことではない。「家を出る」ということは、自分にまとわりついているしがらみを離れて自分の好きなことをする、そういう自由な時間を得る、そこにこそその人が本来的に求める人間性の回復があるということの隠喩なのだ。だから五木はもっと前向きにこのゴールデン・エイジを捉えろと言う。

▶私の母も妻も既に亡くなっているが、両名とも仕事を辞めてからの人生の充実ぶりは傍目にも凄かった。嫌だいやだと言いながら生命保険会社の外務員を続けて私を育ててくれた母は、70歳過ぎに仕事をやめてからは趣味だった俳句と墨絵の世界に没頭した。私の手元には、今も多くの母の作品が残っている。一方、銀行員だった妻は、こちらも早く仕事をやめたいといつも愚痴っていたが、無事に60歳で仕事をやめてからは、水を得た魚のようにスクウェア・ダンスの世界にはまりこんだ。彼女のクロゼットには今も30着近いダンス衣装が下がっており、私はそれを眺めるたびに、彼女の在りし日の高揚感溢れる充実した姿を思い出すことができる。

▶改めて自らの「林住期」を思う。人生の終わりはいつ来るかは分からない。ならば今できることは今始めることにしくはないといつも思う。運命のいたずらか、60代の後半に慣れぬ一人暮らしを始めることになったが、家族や友人・知人の助けもあり、無事にコロナの季節を乗り越えることができた。この間、足掛け1年半をかけて四国1200㎞の巡礼の旅を終え、昨年はパリに一週間一人で滞在し、美術館巡りもできた。3年前に始めたこのブログも、掲載記事は既に220本近くなり、自分の足跡を残すことに少なからず役立っている。また縁あって一昨年から、とある会社の社外役員を務めることになった。こちらの方は、時間的制約が少ないので、私の「林住期」を束縛する恐れはない。

▶ということで、今年の年賀状には、人生の下り坂は、友人達と共に、転ばぬように、楽しくゆっくり下っていくことにしたいと書いた。年明けから不穏な日々が続いているが、自分の「林住期」は、本当にそうありたいと改めて思っている。