マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

成長の次にくる思想


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夏の高校野球も無事に終わり、北海道では新学期も始まったというのに、暑さが治まらない。今年の暑さは歴史的だと言われているが、何のことはない、ここのところ毎年暑い。要するに気候の異常は既に常態化しているので、これが新たな日常と思わなければならない。暑さ対策で、昨日は北海道北見市熱中症アラートが発動され、二学期が始まったばかりの市内の17の小学校が臨時休校になったそうだ。とうとう北海道でも、暑さを理由に小学校が臨時休校に入る時代に突入した。

▶今年の夏が暑いのは、日本だけではない。ヨーロッパは南欧を中心に記録的な熱波に襲われている。フランスでは南仏に熱波警報が発令され、イタリアは18日に45℃という高温に見舞われた。ギリシャでは熱波の影響で山火事が発生し、22日に18人の焼死体が発見された。40℃の高温が続く観光名所のアクアポリスは、危険回避のため閉鎖されてしまった。高温による自然発火で山火事が多発しているのは、カナダやハワイだけではないのだ。北京では6月に観測史上最高の41.1℃度を記録した。

▶暑さだけではない。20日日経新聞は、気候変動による水不足が各地で深刻化している状況を伝えている。南米のパナマ運河では、水位低下のため現時点で130隻もの船舶が通航待ちをしている状態にある。大型のコンテナ船などは喫水規制に引っかかって積荷にも制限がかかっているとか。ドイツでもライン川の水位が低下し、7月に水位が100㎝も低下する異常事態が発生した。干ばつの影響で、農作物の被害も多発しており、スペインのオリーブやアメリカの米作が深刻な被害を受けている。

▶一方で、毎年のように洪水被害が繰り返されている。台風5号は7月28日に中国福建省に上陸し、北京・天津・河北地域で甚大なる洪水被害をもたらした。中国全土での被災者は300万人を超えると言われているので、いかに大きな災害だったかが分かるが、このニュースは日本では殆ど報道されていない。日本自身が台風6号、7号に連続して襲われているので中国どころではないということもあるが、要するに毎年繰り返される豪雨災害など慣れっこになってしまっているのだ。

▶我々は、この打ち続く異常気象の原因が、人類の経済活動に起因する二酸化炭素の増加によって引き起こされた地球温暖化にあるということを知っている。2015年にはパリにおいて「国連気候変動枠組み条約締結国会議(通称COP)」が開催され、いわゆるパリ協定が締結され、2016年に発効した。パリ協定では、各国が自主的に二酸化炭素削減目標を立てて、それを達成するための努力義務を各国に課しているが、パリ協定が発効したからといって環境対策が世界的に進むようになるのかと言えばそうではない。

▶確かに化石燃料に頼らない経済活動の動きは進んでいる。例えばクリーンエネルギー(風力や太陽光、バイオマスによる発電等)は右肩上がりに増加しているが、その結果として化石燃料の使用がさぞかし減少しているかと思えば、そうではない。石炭火力発電で言えば、いまだ電源の過半を石炭に頼っている中国では、今年の発電量は昨年比で14.2%も増加した。それだけ電力需要があるということだ。問題は中国だけではない。驚くなかれパリ協定にもかかわらず、世界の石炭需要は、2023年に過去最高を更新する見込みだという。このパラドクスが起きる原因は、世界の総エネルギー需要が増加しているからに他ならない。

▶我々が生きている世界は、限りなき成長を求め続ける「資本主義」の世界だ。世界の全ての国々は、その体制如何に関わらず各々が飽くなき成長を求めている。その結果として、19世紀以降、世界は概ね右肩上がりの成長を続けてきた。それはGDPと人口の統計を見れば明らかである。この経済成長の恩恵を最も大きく享受したのが、先進各国である。日本も遅ればせながらその仲間に入り、生活は豊かになり、平均寿命は世界一となった。その結果出現したのがエネルギーと資源の多消費社会である。

▶地球環境問題と多消費社会の出現は、裏腹の関係にある。温暖化の原因は、間違いなくエネルギーと資源の使い過ぎなのだ。過当競争による無秩序な資源の乱獲が、地球の自然と生態系のバランスを崩しつつある。

▶ところで最近、我々が生きている時代を「人新世」と呼ぶ動きがあるのをご存じだろうか。地球の地質年代の一つとして、人間の活動が地球の隅々にまで影響を及ぼすようになった現代を、「人新世」と呼ぶべきだと一部のノーベル賞学者たちが言い出したのだ。ただし、人間の活動を手放しで賞賛した言葉ではない。持続可能な暮らしを逸脱して成長至上主義に陥った人間に対して、警鐘を鳴らす意味での皮肉まじりの言葉と捉えるべきだ。

▶先日、友人が本を一冊貸してくれた。ジェイソン・ヒッケルというイギリス人が書いた「資本主義の次にくる世界(邦題)」という本だが、題名からでは中身がよく分からない。英語の副題を見ると「少ないほうが豊か・・・いかにして脱成長が世界を救うか」とあり、一読して長年自分の頭の片隅にあった霧が晴れた思いがした。この本の論旨は、一言で言えば、経済が脱成長に舵を切らないかぎり、どのような環境対策も効果を発揮せず、地球の生態系のバランスが急激にくずれて破滅に向かう、という主張である。ここでいう環境対策には、画期的な新技術開発も当然含まれる。

▶さはあれど経済成長を放棄するということが、如何に困難なことかは多くの人にとって自明すぎるほど自明なことである。私自身、これまでの人生の殆どを、飽くなき成長を目指して競争する世界に身を置いてきたからよく分かる。人間はカスミを食っては生きられない。経済成長こそが、ほとんど全ての政治・経済・社会的課題、すなわち貧困対策、失業対策、福祉政策、格差解消、安全保障などの問題に解決の糸口を与えるものとして考えられてきた。逆に言えば経済発展のない社会は悪であるという思想である。しかし、最近私はなにか少し違うのではないかと思うようになった。

▶持続可能(サステイナブル)な社会とは、成長し続ける社会とは異なるのではないか。成長することによって初めて持続可能になると考える社会は、こぐのを止めたとたんに倒れる自転車操業社会であり、ネズミ講と同じくどこかおかしいのだ。覇権を競う大国同士は、相手が経済成長すればするほど緊張は高まる。あらゆる戦争にきっかけを与えるものは、相手の拡大政策に他ならない。ウクライナ戦争しかり。

▶要するに何事もほどほどがいいのだ。格差のない社会こそが居心地いい。隣人を刺激するような大金持ちを目指す必要などないのだ。今こそ「足るを知る」東洋哲学の出番だ。国民の9割が中流であると思っていた昔は、幸福な時代だった。そう考えれば、日本の失われた30年も、違った顔に見えてくる。一人当たりGDPの多寡が、国民の幸福度合を示す指標では必ずしもない。福利向上に少な過ぎは改善すべきだが、多ければ多いほどいい訳ではない。そうは思いませんか。