マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

當麻寺に行く(奈良編その5)


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當麻寺と書いて「たいまでら」と読む。當は当の旧字だ。この寺も秋篠寺と同じく五木寛之の「百寺巡礼(奈良編)」に書かれていたので、いつかは行ってみたいと思っていた。一方この寺には妙な縁があって、以前勤めていた会社のT君と酒を呑んでいた際、私が奈良の寺に興味があると知ったT君から、それなら是非當麻寺に行ってくださいと頼まれたことがあるのだ。

▶T君がわざわざ當麻寺の名を挙げたのは理由があって、実はT君の奥様が當麻寺の住職の娘さんで、この関係で毎年催される當麻寺の春の伝統行事(中将姫の練供養)には、毎年T君も会社を休んで手伝いに駆り出されているのだとか。聞けば當麻寺は国宝や重文がゴロゴロしている有名寺院で、住職としてはその維持管理が大変なのだという。T君はとんでもない(※決して悪い意味ではありません)ところの娘さんと結婚した訳である。
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▶ということで奈良の旅の最終日は當麻寺に行くことにした。當麻寺は、奈良県大阪府の境にある二上山の東麓にある。寺のすぐ近くを旧竹内街道国道166号線)が走っていて、近くにある竹内峠を越えれば、もうそこは河内国である。この辺りは太古からの交通の要衝であり、聖徳太子や遣隋使もここを通って飛鳥と難波を往来したと云われている。奈良市内からは、近鉄橿原線橿原神宮前南大阪線に乗り換え、各駅停車で7つ目の駅が當麻寺駅である。

▶ホテルをチェックアウトし、午前9時前に當麻寺駅に到着。早速駅前のコインロッカーにキャリーケースを預けようとしたが、ロッカーが小さくて入らない。その場合は店内で預かりますと張り紙があるも、店は閉まっている。このままキャリーケースを引いて1.5㎞もある参道を上るのは苦しいし、寺に着いてからも荷物が邪魔だ。タクシーなどもいないので、諦めて覚悟を決めて歩き出した。

▶寺の参道と言っても土産物屋などは全くない。しばらく歩いていたら相撲博物館という建物を見つけた。看板に観光案内所という記載もあるので迷わずここに飛び込んだ。受付の女性に事情を話して、荷物を預かってもらえないかと頼むと、その女性は同情はしてくれたものの、自分に権限はないし責任も取れないので預かれませんの一点張り。相手の事情は分かるものの、そこは粘りに粘ってなんとか最終的にOKしてもらった。奈良の女性は本当に優しく素敵だ。

▶そこから更に10分程歩いて當麻寺の東門に到着。上り坂の石畳の正面に本堂(曼荼羅堂)らしき堂宇が鎮座しており、左の山際には三重塔が少し離れて二本立っているのも見える。更に進むと右側に講堂、左側が金堂があった。一見して極めて珍しい伽藍配置だ。塔が二本ある寺院の場合(例えば薬師寺)、それぞれが伽藍配置の中軸線に対して左右に対称的な位置にあるのが一般的なはずだが、これはどうしたことだろう。

▶後から調べたところでは、現在の當麻寺は東を正面としているが、本来は南を正面としていたらしい。現在の本堂は後から建てられたもので、当初は金堂が本堂だったようだ。つまり、90度回転させると、確かに金堂と講堂を南北に結ぶ中軸線に対して東塔と西塔が対象の位置にある。ただ、当時から南には門を置かなかったようで、それは南西側が山麓なので地形上南から入るのが難しかったからと言われているが、なぜそのような地形を選んだのかは不明のようだ。
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▶この寺が更に珍しいのは、當麻寺というのは真言宗の五寺と浄土宗の八寺が集まって一つの當麻寺を形成している共同寺院であることだ。たまたま案内してくれたボランティアの人に、住職の娘さんの話をしたら、どこの寺の住職かと聞かれてとまどってしまった。メインとなる寺は中の坊と称しており、ここが金堂、講堂、東西両塔を管理している。一方、曼荼羅堂と称する本堂は、他の寺との共同管理らしい。それにしても、真言宗と浄土宗がよく一つの當麻寺を経営できているものだと感心する。

▶寺伝では聖徳太子の異母弟である麻呂子王が河内国に創建したのが始まりで、その後現在の地に移されたとされているが、飛鳥時代の創建は後からできた話で、當麻寺はこの辺りの豪族の當麻氏の氏寺に由来するとの説もあり、詳細は不明。しかし、古いのは事実で、金堂の弥勒菩薩像は飛鳥時代、東塔は奈良末期、西塔は平安初期で、おしなべて言えば現在の當麻寺の創建は白鳳の天武朝の頃ではないかと言われている。だとすると、旧薬師寺とほぼ同じ時期になるので、やはり古い寺であることに変わりはない。

▶この寺は、中将姫伝説と本尊である當麻曼荼羅が有名で、現在の本堂となる曼荼羅堂には、曼荼羅と中将姫の像が安置されている。現在展示されている曼荼羅鎌倉時代に転写された絵画だが、オリジナルは4メートル四方の絹織物で、阿弥陀変相図とされる極楽浄土が細密に織り込まれているものだ。伝説ではこの寺ゆかりの中将姫が蓮糸で一昼夜で織り上げたことになっているが、おそらくは唐の綴織で10年以上かかって織られたもののようだ。当然国宝だが、現在は損傷が激しく実物を見ることは極めて困難。しかし、この大きさの綴織の曼荼羅が、唐から飛鳥まで延々と運ばれてくる様は、いかばかりかと想像するだけでもワクワクしてくる。

▶現在の曼荼羅は巨大な厨子に安置されており、この厨子と基壇も国宝で、厨子の扉は源頼朝北条政子が寄進したものだが、現在は外されて奈良国立博物館にあるとか。曼荼羅の隣には中将姫像が安置されており、唇の赤が新鮮だ。一般の人はこちらが目当てだろう。
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曼荼羅堂を出て、浄土宗の奥の院に行った。ここは本堂の裏が二上山を借景にした庭園となっており、紅葉が盛りで冬桜も咲いていてとても美しい。時計を見ると昼近かったので、ボチボチ引き上げることにした。昼食を兼ねて山門前の店で柿の葉寿司を一折購入。相撲博物館では受付女性にお礼を言って荷物を受け取り、再び受け取れませんの一点張りの彼女に、押し付けるように柿の葉寿司を渡して逃げるように駅に向かった。

▶その後は近鉄大阪阿部野橋まで出て、少し時間があったので地上300mの「あべのハルカス」の展望台に上った。天気は絶好で、大阪市内が眼下に一望できる。東には生駒山が連なり、信貴山も見える。さらにその先には、これまで歩いてきた大和の古寺がそこにあるはずだった。
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