マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

四天王寺と難波宮


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▶日本の都、すなわち天皇の御在所があった地は、これまで幾度も変遷を繰り返してきている。極めて大雑把に言えば、奈良と京都ということになるが、実は大阪や滋賀にも都があったことがある。滋賀の都というのは近江大津京のことで、天智天皇が667年に飛鳥の地から琵琶湖の畔の大津に遷都したものだが、670年の壬申の乱の後に皇位についた大海人皇子天武天皇)が再び飛鳥に都を戻している。

▶このあたりの事情は、少し日本史を勉強すれば必ず出てくることでもあるし、井上靖の小説「額田女王」にも当時の状況が瑞々しい筆致で書かれているので、とっつきやすくもあり比較的理解しやすい。しかし、大阪(難波)に都があったという話になると、どうもピンとこない。そもそも中世から近世にかけての大阪は「商人の街」であった訳で、かつてそこに「やんごとなきお方=天皇」が御在所されていたことがあると言われても、どうしてもイメージがわかないのである。

▶もう一つピンとこないのが、聖徳太子が日本で初めて造営した仏教寺院と伝わる大阪の四天王寺聖徳太子が創建した寺と言えば奈良の法隆寺が有名であり、こちらは世界最古の木造建築として世界文化遺産にも登録されている。私も何度か訪れているが、大阪の四天王寺には行ったことがない。日本最古の仏教寺院と言われているにもかかわらず、法隆寺と比べてもスポットライトが当たっていない気がするが、何故なのか分からない。ならば実際に行って確かめるにしくはない。

▶11月7日と8日に大阪に行く用事ができた。昔勤めていた会社や現在関係している会社の仕事がらみの用事であるが、いずれも夕方から開かれるパーティーへの参加なのでいたって気楽な用事である。7日と8日の夜に2泊する予定だが、8日の日中は比較的時間に余裕がある。そこで、8日の午前中に以前から気になっていた四天王寺を参拝し、その後は大阪城近辺を散策することにした。

四天王寺は、大阪環状線天王寺駅近くの街中に位置している。駅から10分ほど北に向かって歩くと、突然といった感じで南大門が見えてきた。道に面して「日本仏法最初四天王寺」と刻まれた立派な石塔が立っているが、南大門も含めて法隆寺と比べると圧倒的に新しい。門をくぐると北に向かって一直線に中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂が配置され、五重塔と金堂は中門と講堂を結ぶ回廊によって周囲を囲われている。この堂宇配置を四天王寺様式と称し、飛鳥時代の典型的な伽藍配置の一つであると言われている。
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▶回廊の外側には甲子園球場の3倍の広さを有する広大な境内が広がり、聖徳太子を祀る太子殿や多くの堂宇が散在している。この寺は、創建以来たび重なる戦禍(第二次大戦を含め)や火災に見舞われたため、現在あるのは全て近世になって再建されたものばかりである。私は、回廊に囲まれた中心伽藍に入って参拝したが、鉄筋コンクリート造りの五重塔には螺旋階段で誰でも最上階まで登ることができるなど、同じく再建された奈良の薬師寺の西塔などとは再建にあたっての基本的な考え方がまったく異なっている。

▶また、この寺は既存の宗派に属さない寺として、真言宗空海浄土真宗親鸞を祀る廟もあって、まさに仏教のテーマパークの感がある。ちなみに中心伽藍の一部を構成する講堂には、唐の玄奘三蔵の天竺の旅を描いた壁画があり、こちらは観光客にも受けそうな内容なので思わず苦笑してしまう。金堂の中では、住職が参拝客に対し功徳を授ける儀式を行っていたが、なんとなく商業的で、四天王寺法隆寺とは異なった「生き方」をする寺であることが分かった気がした。

▶なお、四天王寺の名誉のために言っておくと、現在ある四天王寺学園四天王寺病院、四天王寺福祉事業団は、すべて聖徳太子が寺を創建した際に同時に設置した四箇院(敬田院、悲田院、療病院、施薬院)に淵源を有しており、千数百年を経てなお聖徳太子の思想が現在に伝わっているとすれば、四天王寺の存在意義はまさにこの点にこそあるのではないかと思った次第。

四天王寺を出て大阪城公園に向かう。途中、NHK大阪放送局近くに大阪歴史博物館があったので入館した。入館してみて分かったことだが、博物館は大阪城を見下ろすビルの高層階ににあり、眼下には大阪城公園とその南に建物の基壇の跡のようなものが見える。何とそれが難波宮の遺跡であった。驚いたことに、飛鳥・奈良時代に存在していたとされる難波宮は、現在の大阪城公園の南にあったのだ。
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難波宮は前期難波宮と後期難波宮とも現在の大阪城の南に位置しており、更にその南には四天王寺が位置している。古墳時代から飛鳥時代にかけては、大阪湾は現在の海岸線よりはかなり内陸側に後退しており、難波宮四天王寺は、海に近い高台(上町台地)の上にあった。難波宮の北側には大きな河内潟があって大阪湾とつながっており、河内潟には大和川が流れ込んでいた。
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▶当時は飛鳥の地まで大和川を船で遡ることが可能で、飛鳥と難波は川でつながっていたのである。歴史博の展示を見ると、遣隋使・遣唐使の船は、すべてこの難波宮から見下ろせる水路を通って大陸に渡っていたとされている。つまり、難波宮四天王寺は、海から見て日本の玄関口とも言える位置にあり、隋や唐からの使者が最初に目にする日本の国家的建造物が難波宮であり四天王寺だったことになる。ちなみに、斑鳩法隆寺も当時の大和川を遡ると見える位置にあり、その意義は四天王寺と同じであったと想像できる。

▶当時の難波京の大きさは、その後の平城京平安京の半分くらいだが、南北に通る朱雀大路を中心に北に天皇の住まいの難波宮、南に四天王寺が配置されているなど、その後の都の原型になっていると言っていい。現在の大阪には奈良や京都のような雰囲気はないが、大阪歴史博物館にやってきて、改めてここが古代の都の一つであったことが実感でき、長年の疑問が氷解した思いであった。何事によらず現地を見ることは大事である。
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