マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

古寺巡礼と古仏に逢う楽しみ(奈良編その1)


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▶前回のブログにも書いたとおり、今週11月28日から12月1日まで奈良に遊んだ。今年の奈良もようやく初冬の季節となり、紅葉はまだ十分に残っていたが、秋の人波は遠のいて、いわゆる観光シーズンは終わったようだった。それでも興福寺参道の猿沢の池近くの草餅の店の前には、外国人観光客の列ができていた。この時期気温は12~13度と平年並みで、晴れていればそこそこあたたかいのだが、陽射しが雲に遮られて一旦風が吹き出すと、さすがに冷たい。奈良公園の鹿たちも、どことなく手持無沙汰の風情だった。
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▶一日目は昼頃に奈良に着いたので、駅前のホテルに荷物を預けて早速奈良公園にでかけた。まず最初に目指したのは東大寺の法華堂(三月堂)。ここの堂宇は参道に対して側面を見せて右向きに立っており、よく見る写真は参道から見たものであるので、これが正面かと誤解されやすい。参道から見て左半分(つまり伽藍の後ろ部分)が東大寺の前身寺院である金鐘寺の伽藍だったもので、東大寺としては現存する最古の建物(部分)である。右半分(伽藍の前部分)は鎌倉時代に増築された部分だが、それも含めて全体として一つの伽藍を形成している。
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▶この法華堂には全部で10体の仏像が安置されているが、全て国宝であるというのは驚異的だ。正面に立つのが「不空羂索観音像」で日本史の教科書でも有名だ。「羂索」とは観音様が左手に持っている鈎のついた縄のことで、この縄で人々の苦しみを取り逃がすことなく救い取るという意味。「不空」とは心願空しからずの意で、要するにこの観音様にお願いすることは必ずかなうということだとか。いずれにしても観音信仰というのは極めて現世利益的である。

▶今回私は仏像鑑賞の秘密兵器である双眼鏡を持参した。これで仏像を見ると、まさに手に取るように細部まで見える。不空羂索観音像には、宝冠を始めとして全体に宝石が飾られている。正面に合わせた両手の中には水晶の珠が見えるが、普通に見るだけではこのあたりの事情は分からない。たまたま隣にいた女性から声をかけられたので双眼鏡を貸してあげたら、彼女も新たな発見に驚いていた。

▶この観音像を囲むように四天王像が立っているが、今回発見したのは、彼らの太い二の腕を覆うのが怪物の口だということ。つまり、四天王の腕は怪物の口の中から突き出しているのだ。これは次に見た東大寺戒壇堂の四天王像も同じであったので、四天王像の特徴の一つかもしれない。それにしても、四天王像を飾る衣装や鎧のデザインは、中央アジア遊牧民に起源があるようだが、この像を制作した仏師は、いかにしてこの緻密なデザインを知り得たのか、考えだすと興味がつきない。

▶双眼鏡は大仏殿でも大活躍する。といっても見たのは大仏の顔や手ではなく、台座の蓮弁に刻まれた文様である。この大仏は、大仏殿とも二度も火災にあっており、現在の大仏様の体部は鎌倉時代、頭部は江戸時代に再建されたものである。これは肉眼でも良く見れば分かり、頭部が一番新しい。現在奈良時代の752年に創建された時のものとして残っているのは、台座の蓮弁の一部のみで、これこそがまさに国宝ものだ。しかし、台座は一段高い台上にあるので、通常は寺の関係者しか上がって見ることができない。

▶しかし少し離れた所から双眼鏡で覘くと、この蓮弁に刻まれた模様がはっきりと見える。当日は、たまたま住職と思しき僧侶が寺の関係者とともにこの台上に登って蓮弁の模様を見ていたが、私はそれを離れたところから双眼鏡で観察した。蓮弁の模型は説明書きと共に大仏の下に陳列されているが、やはり本物を見るのは違う。双眼鏡の中には、聖武天皇も見たであろう約1300年前の創建当初の大仏像の一部が確かにそこにあったのである。
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▶今回の奈良行きで楽しみにしていたのが、東大寺戒壇堂と薬師寺東塔、それに唐招提寺の御影堂。いずれもここ数年再建修理中だったため、閉鎖されていてこれまで見学できなかったのだが、いずれも今年になって再建修理が完了した。ということで大仏殿もそこそこに、大仏殿の西側にある戒壇堂に行く。ここは、聖武天皇に招かれて唐からやってきた鑑真和上が、日本の僧侶に最初に戒律を授けられたところである。鑑真は大仏殿が完成された直後に日本にやってきて、最初に大仏殿前に仮の戒壇を設けられてここで聖武天皇光明皇后さまに戒律を授けられた。その時の戒壇跡の土を西側に運んで、現在の戒壇堂が造られている。

戒壇堂は、中に入るとすぐに二段になっている戒壇があり、現在中央にはインドのサーンチの仏塔を模した多宝塔が飾られている。四隅には四天王像が立っており、こちらの四天王像も法華堂の四天王と同じく良かった。特に気に入ったのは左後ろに立っている多聞天の表情で、こちらも双眼鏡を使ってじっくりと観察させてもらった。余談だが、家に戻ってから5月に東京都写真美術館で開催された土門拳の「古寺巡礼」展で求めた写真集を見ていたら、偶然にもこの像の顔のアップが掲載されているのを見つけた。土門もこの像の表情が気に入っていたようで、なんだか私はとても嬉しくなった。

東大寺を見終わったあと、時間があるので興福寺に行く。新築で再建なったばかりの中金堂は前回見ているので今回は見学せず、というか新し過ぎて見るほどの価値は感じない。それでもここに来たからには阿修羅像を見ずには帰れないということで国宝館に入った。国宝館は3度目だが、毎回少しづつだが発見がある。東金堂から発見された仏頭や阿修羅像は相変わらず見ていて見飽きない良さがある。

▶それにしても、なぜ阿修羅が美少年のような顔をしているのか不思議。阿修羅に限らず、八部衆のほとんどは皆少年のような体形と表情だ。これらの像のパトロンだった光明皇后の趣味の反映だという説もあるようだが、本当のところどうなのか。ところで八部衆の像はいずれも脱乾漆像で、像の重さは僅か15㎏ほどと極めて軽いのが特徴だ。よって火災の時には簡単に持ち出すことができた。これらの像が度重なる戦乱や火災を無事にくぐりぬけて現在に至っているというのも、あながち理由のないことではない。

以下、つづく。