マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

民宿みっちゃん(四国遍路番外編)


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▶昨晩泊まった民宿は、至福(と涙)の宿だった。こういう出会いもあるのだから、フーテンの寅さんではないが、旅は素敵だ。

▶泊まったのは、「民宿みっちゃん」。高知県の池の浦漁港という、ひなびた漁港にあるひなびた宿だった。みっちゃんと呼ばれる話好きのおかみさんは、昭和15年生まれだというから、既に80歳を超えているが、この宿をほぼ一人で切り盛りしていた。

▶私が到着したのは午後2時過ぎで、通常のチェックインよりは早い時間帯だが、すぐに受け入れてくれた。聞けば今日の客は私一人だという。コロナが心配なので帽子をかぶりマスクをしていたので彼女の表情はわからないが、年格好は5年前に89歳で亡くなった私の母親が、まだ元気で故郷の前橋で一人暮らししている時に、そっくりだ。

▶すぐに風呂を焚いてくれて、今日の遍路で汗にまみれた衣類の洗濯をしてくれた。私は早い風呂に入って、いつものブログを書いたあと、疲れてフトンを押し入れから引っ張り出して横になっていたら、そのまま眠ってしまった。

▶「お客さん、夕食の用意ができました」という声に目が覚めて、階下の台所兼居間(決してキレイに片付いているわけではありません)に下りてゆくと、食卓には一揃いの膳が並んでいた。まずビールを注文して呑みながら、みっちゃんと話をする。

▶話を始めてすぐに気がついたが、この人の話は妙に筋が通っているというか、起承転結が明確というか、とにかく年齢を越えた頭の良さを感じるのだ。まるで、自分の亡くなった母親ようだというと、身内のことなので気が引けるが、とにかくそう感じる。おかみさんは、最近のニュースに敏感で、暗い話が多くてイヤだという。

▶テレビを見るのはNHKばかりで、好きな番組はニュースと国会中継だとのこと。ここら辺も非常に母に似ている 現下のコロナの状況も、極めて具体的に把握されていて、最近の高知県の感染者数の推移や、地域ごとのクラスターの発生状況など、具体的に数字を並べて言われたのには驚いてしまった。

▶話題は、自分が昭和30年代の末にこの漁港に嫁に来てから、昭和45年に台風で港が全壊した話や、嫁にくる前にこの港に押し寄せたチリ津波の話・・・これは姑さんから聞いた話だそうだが・・には、誠にリアリティーがあった。

▶チリ津波のときは、港の海水が一旦沖まで引いてしまい、津波襲来の対策で堤防の近くに生えていた松の大木に小さな漁船を繋いでおいていたところ、海水があまりに引いたので、枝に漁船がぶら下がってしまったとか。

▶また、海水が引いて漁港の底が見えるほどだったので、漁協の人々が男も女も総出で、潮干狩りに精を出して、それぞれがしょいかごに一杯になるほど貝を採ったとか。その後、港の偉い人の号令で全員が陸に引き上げたが、しばらく後に押し寄せた津波は、チョボチョボだったとか。

▶家庭料理だという食事は美味しく、話は興味深く、私はビールの他に日本酒も呑んでしまった。まるで亡くなった母親がそこにいて、一緒に話をしているのではないかと、思うほどだった。

▶食事が終わって部屋に引き上げる際にも、エアコンのことやトイレの電気のことなど、母親のような気の使い方で恐れいった。頼んでいた洗濯物は、部屋干し(通常の遍路宿はガス乾燥機です)で、下から温風機を吹き付けていたので、既に乾いていたものを取り込んで畳んでくれた。こちらの方が、乾燥機より経済的に合理性があるとか。まるで、元気だった母親なら、きっと同じように言い、そして私のためにそうしてくれたかのように。

▶洗濯物を持って二階に引き上げた私は、優しかった母のことを思い出して、不覚にも涙がこぼれそうになった。

旅には、こういう出会いもあっていい。

 

 

 

 

四国遍路日記(3ー4)

▶今日は月曜日。遍路に来ていると、曜日の感覚がなくなることは以前にも書いた。宿でテレビを見ることは殆んどないので・・だいたい面白い番組が少ないしね・・・浮き世のゴタゴタから離れることができるのがいい。それでもロッテの佐々木投手の完全試合の達成と13連続三振奪取のニュースには釘づけとなった。これは快挙だ。

▶遍路に来て必ずすることの一つに、足裏の手入れがあるが、実を言うと、今回はそれが大いに軽減されている。ナント3日間歩いてもマメが一つもできていない。前回までは、歩き始めてすぐにマメが潰れて大変だったし、足指の爪も、内出血で殆んど黒くなってしまっていた。そこで先月に津田沼のアウトドア専門店でシューズを購入し直したのが、今回大いに効を奏しているようだ。

▶購入に際しては、店員さんに入念にフィッティングしてもらい、履く時のコツも教えてもらった。価格も当然高いのだが、それだけの価値があることが今回よく分かった。靴下も中厚手のウール製のモノに変えたが、こちらも圧倒的に具合がいい。汗をかいても蒸れないから、足裏もふやけない。

▶ホテルの朝食が7時開始なので、出発時刻は7時半となった。体調も十分なので足取りは軽い。50分歩いて本日最初の登りに入った。車はトンネルを通るが、歩き遍路はトンネルの上を越える。

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この峠は塚地峠と言って昔からの遍路道で、道沿いの所々に行き倒れた旅人(遍路)の墓が建っている。四国は死国だと言ったのは、確か坂東眞砂子だったか。

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峠を降りた所に、安政の大地震(1854年)の時の津波被害を伝える石碑があった。この国では、地震も身近なのだ。津波のことは昨日も書いた。

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▶峠を越えると海が目の前だ。目指す36番青龍寺は海にかかった宇佐大橋を渡った先にある。写真は橋に向かって歩いているところ。
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橋を超えてから、青龍寺に通ずる峠越えの遍路道をわざわざ歩いた。地元の人に聞いたら、峠越えの旧道を歩く人は少ないらしい。

▶36番青龍寺は名前だけが立派な寺だ。本堂は石段を相当登った上にあるが、境内には腰をおろすベンチが一つもない。参詣を済ませて御朱印をもらおうとしたが、納経所が見つからない。納経所は石段下の土産物屋の中にあった。これは珍しいが、簡単に言うと気がきかない印象の寺ということです。
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▶ちょうど昼時だったが、腰を下ろして持参の軽食を食べることができず、そのまま出発した。いきなり急登の山道で(しかもこの道は、青龍寺の奥之院に通ずる道だ)、道は荒れている。下りだと道迷いしそうだが、上りだったのでまだよかった。20分ほどで横浪スカイラインという名の自動車道路に出て、あとはアップダウンのキツイ道を西に向かってひたすら歩いた。

▶途中、道端に腰を下ろして昼飯を食べる。少し惨めな気分で通り過ぎる車を見ていたが、スカイラインは、やはり歩くよりバイクで走った方が似合う。それでも頑張って予定よりやや早く民宿に到着した。泊まり客は私一人だけだったが、私の母親くらいの年齢のおかみさんが、温かく迎えてくれた。

 

 

 

 

 

四国遍路日記(3ー3)


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▶おかげさまで、こちらに来てから天気には恵まれている。今日も朝から青空で気持ちがいい。遍路3日目は、34番種間寺、35番清瀧寺とまわる。全体的に今回の遍路計画は1日当たりの行程を短くとっており、それだけ身体的には楽である。今日の歩行距離は、宿の関係で17㎞なので、午後の早い時間にホテルに到着する予定だ。

▶7時前に雪蹊寺門前にある宿(高知屋。遍路宿に珍しく、設備が新しい)を出た。女将さんの母親らしき人が見送ってくれたが、何となく心が温まる。川沿いの道をしばらく歩いてから、田舎道に入る。この辺りは50mくらいの小高い山が点在していて、その間の平地が田んぼになっており、遍路道はその間を通っている。時々道端に津波避難路の表示が出ているが(※だいたい平均海抜は5mくらいか)、四国の土佐湾に面している地域は、常に南海沖地震を気にしている土地柄なのだ。
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▶そうこうしていていると、種間寺に到着した。宿を出る際に30分ほど先行していた先輩遍路さんに、ここで追いつく。「早いですね」と言われたが、私が格別早く歩いた訳ではない。「早いですね」というのは、遍路の決まりの挨拶である。ただ、誰しも比較的朝方は真剣に歩くものです。先が長いので。

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種間寺は、平地に建てられた小振りの寺で、88ヶ所の寺の中にはこういう寺もけっこうある。20分ほど休んで、出発する。種間寺から1時間ほど歩くと大きな河に出た。仁淀川である。仁淀川大橋を渡って右岸の堤防に腰を下ろして一休み。天気がいい日曜日の午前なので、近所の人達も散歩を楽しんでいる。

▶河の中ではカヌーがモーターボートに牽引されていた。仁淀川は水質日本一と言われており仁淀ブルーが有名だが、河口近くなのでさすがにそこまでの色はない。しかし、ここから眺める景色は静かで平和で実にいい。f:id:Mitreya:20220410152530j:image
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▶ようよう腰を上げて、再び歩き出したのが午前10時半。このままだと次の清瀧寺には11時半頃になるか。35番札所の清瀧寺は仁淀川を見下ろす山の中腹にある。街の中を抜ける際に、遍路道を見失ってしまい、若干焦る。地図とグーグルマップを見比べながら、やっと登り口にたどり着いた。

▶ここからの上りはキツイが、徳島の「遍路ころがし」ほどではない。それでも、寺に着くまでには大汗をかいた。最後の数十メートルはさすがに大変だったが、無事に境内に到着。すると間もなく自家用車が次々と境内にある駐車場までやって来たのには興がさめるが、これが現代の遍路の姿だ。

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▶ちょうど正午を回ったところだったので、清瀧寺の境内のベンチに座って軽い昼食をとる。一緒にいた他の遍路さんも弁当を広げ、一時の会話を楽しんだ。その後は、急な坂を下りて麓の街中にあるビジネスホテルまで戻った。午後2時と早く着きすぎたので、近くのコンビニのイートインで時間を潰し、午後3時ちょうどにチェックインした。

 

 

 

四国遍路日記(3ー2)

▶絶好の遍路日和を迎えて、高知市内のホテルから33番札所雪蹊寺まで25㎞ほど歩いた。正直、疲れました。宿に入って、こうしてブログを書いています。

▶朝いつも通り7時過ぎに宿を出て歩き出したが、歩き始めは少し寒く感じるものだ。30分も歩くと身体が温まってくる。31番竹林寺までは比較的近いが、寺は山の上にあるので上りがキツイ。
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▶この寺は、高知出身の世界的植物学者であった牧野富太郎博士の功績を記念して高知県が五台山の山麓に開設した「県立牧野記念館、植物園」に隣接している。朝の早い時間に遍路道を上り詰めると、ナント道は自然に植物園の中に入ってしまうから驚きだ。昔からの遍路道が植物園の中を通っているのだ。

▶朝早い植物園には桜や桃の花が咲き乱れ、 

それはそれは美しい。しかも開園前の時間帯だったので、一般人は入園出来ない。私は全く人影が見えないという贅沢を味わった。
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▶この植物園から外に出る仕組みが傑作で、園の入場口近くのトイレ裏の幅50センチほどの隠れたスペースを通って行くと入場門の脇に出られるのだ。目立たないように設置された扉があるが、そこから中に入れるとは誰しも思わないだろう。ちなみに入園料は大人730円と書いてあったが当然私はタダでした。なお、本件はホームページにも記載はありません。

▶さて、植物園を出るとその先に竹林寺の山門に向かう階段があった。そこがもう竹林寺である。
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竹林寺は、国分寺と同じく聖武天皇の勅願によって行基が開創したと言われているが、何で聖武天皇絡みが多いのかは、私は知りません。しかし、前回の遍路日記にも書いているが、竹林寺は「純信とお馬」の駆け落ちで有名である。分かり易く言えば、ヨサコイ節で歌われている「はりまや橋でかんざしを買った坊さん」が、純信である。純信は竹林寺の学僧の指導教官だった。

▶この話は、竹林寺の看板の説明書きにも書いてあったが、果たして竹林寺にとって名誉な話なのか不名誉な話なのか、一体どっちだろう。

竹林寺から次の禅師峰寺(ぜんじぶじ)に向かう途中、土佐勤王党の代表だった武市半平太の旧家と記念館に立ち寄った。ここで武市半平太のことを述べるつもりはないが、私は記念館でじっくりと武市の生き様に向かい合った。こういう男もいたんですね。しかし、37歳で切腹とは、言葉が出ない。さすが坂本龍馬が師と仰いだ人物というのも分かる気がする。下は武市の墓である。
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禅師峰寺は印象の薄い寺であるが、そこを出たのが11時前で、そこから日差しが照りつける道を桂浜に向かってひたすら歩いた。正午過ぎに、殆んど自動車専用道路と言ってもいい1480mの浦戸大橋を、恐々と超えて桂浜に入った。
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直ぐに行ったのは坂本龍馬記念館。ここで龍馬の手紙をじっくり読ませてもらった。(当然、現代語訳ですけど・・・)

▶これについては言いたいことが山ほどあつが、それはまた別の機会に。記念館を出たあとは、一度行って見たかった桂浜の坂本龍馬像である。その像は、意外にも砂浜ではなく小高い丘の上にあって、太平洋を眺めるが如く立っていた。
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この写真は特別のアングルなのでお楽しみあれ。しかし、本当に雰囲気あるね。下は桂浜です。
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▶時刻を見ると午後2時を回ってしまったので、あとはひたすら本日最後の札所である33番雪蹊寺に急ぐ。この辺りからドッと疲れが押し寄せてきて、途中で道を外れてしまった。さらに疲れが増したが、午後3時半に雪蹊寺に着いた。今日はこれでオシマイ。門前に構える民宿高知屋さんに入ったのは4時だった。

 

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四国遍路日記(3ー1)

▶三度目の四国遍路を4月7日から再開することにした。JAL495便で高知空港に到着したのは午後4時だった。夕方着の便だったからビジネス客は少なく、機内は比較的空いていた。リムジンバスで市内に入って、5時前にホテルにチェックイン。高知市内に泊まるのは初めてなので、期待が高まる。f:id:Mitreya:20220408203340j:image

▶ホテルは、菜園場町の土佐電の駅にほど近い、小さな川沿いにあった。海に近いのか川にはボートが何隻か係留してあるのがいい雰囲気を醸し出している。宮尾登美子の「櫂」に描かれているのは、この辺りのことかも知れない。暗くなるまでには少し時間があったので、風呂で軽く汗を流してから、はりまや橋辺りをブラつく。早い時間なのか、それともコロナ影響なのか知れないが閑散としている。土佐料理と書いてある店に入ってビールに海鮮丼を注文する。ここも空いていた。

▶翌8日は、午前7時過ぎにホテルを出発。f:id:Mitreya:20220408203442j:image

土佐電の路面電車に乗って後免(※電車の行き先表示が「ごめん」となっているのが可笑しい)まで行き、そこから歩き遍路を再開する。電車道を離れると、すぐに田舎道に入った。天気は晴朗で、暖かい。長閑な川沿いの道を一人歩いていると、遍路に来たことを実感する。午前9時に29番国分寺に到着。f:id:Mitreya:20220408202850j:image
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国分寺聖武天皇の勅願によって各地に分立された寺のことだが、この寺は741年に行基によって建立された由緒高い寺である。現在も寺域はよく整えられていて、庭園も立派で寺格も高そうである。早速本堂と大師堂にお参りし、納経所で忘れずに御朱印をいただいた。遍路の人は殆んど目につかない。

国分寺には20分ほど滞在して次には30番善楽寺に向かう。田んぼ道を暫く歩いたのち、車道に出るが、車も通らず歩き易い。善楽寺までは7㎞ほどだが、途中の道端に設置してある遍路休憩所に入る。ここには先行する遍路のおじいさんが一人既に休んでいた。

▶午前11時に善楽寺に到着。境内を掃除している女性から声をかけられる。今日は4月8日で、お釈迦様の誕生日で、一般的には花祭りという名前で知られている。それに因んで 甘茶を接待してくれるという。

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ありがたく甘茶を飲んでいたら、先ほど休憩所で休んでいたおじいさん遍路の人がやって来た。大変疲れているので、今日で遍路を切り上げて帰るとのこと。彼はタクシーを呼んでもらって帰って行った。彼は88ヶ所7回り目と言っていたが、既に80才は超えていそうなので、これが最後の遍路になりそうだ。

▶私も、今日はこれで切り上げて、予定通り市内のホテルまで戻った。ホテルのチェックインの時刻には間があったので、荷物を預けて高知城の見学に行くことにする。


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その高知城も大変良かったのだが、もっと良かったのは近くにある有名な「ひろめ市場」に行ったこと。ここはフードマーケットなのだが、フリーの飲み屋街のようでもある。
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▶午後3時頃にもかかわらず、オープンスペースで多くの人がカツオのたたきをツマミにビールを飲んでいる。それがあまりにもうまそうだったので辛抱たまらず私も注文してしまった。ビールもカツオも、クジラの唐揚げも抜群に旨い。思わずビールをお代わりするほどだった。遍路もたまにはこういうのがあってもいいものです。今日はこれでオシマイ。

 

桜散る、そして神戸・・・


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▶昨日は4月1日で、既に関東以西では桜が満開となった。コロナにもめげず全国各地では入社式が開かれたとの報道があり、多くの新入社員諸君が、きっと将来の希望に胸を膨らませたことだろう。ここのところ曇り空が多かったが、今朝は朝から陽が差して気持ちがいいので、手早く掃除・洗濯を済ませ、庭に芽吹いたカエデの枝を眺めながらインスタントコーヒーを入れて飲んでいたら、ふいに昔のことを思い出した。斯く云う私も、今から45年前「めでたく」大学を卒業し、当時神戸に本社があった会社に就職したのだ。

▶あえてカギ括弧をつけたのは、本当にめでたかったからで、大学の卒業試験は意外にも難しく、卒業単位が足りないのではないかと最後までヒヤヒヤした。それが冗談ではない証拠に、つい最近まで、単位不足で卒業できない寝起きの悪い夢をよく見ている。しかし、自業自得とはこういうことだろう。なにせ、原因の一つは、当時からつきあっていた亡くなった妻にもあったからだ。

▶それはさておき、私達91人の新入社員は、昭和52年3月31日に神戸の住吉にあった会社の寮に集められた。その寮は、JR住吉駅の北口を出て大阪よりに少し戻ったところを流れる住吉川の川沿いにあって、私は満開の桜の下を寮まで歩いて行った。上州生まれの上州育ちの私にとっては、神戸は生まれて初めての経験だったが、これは確かに高校時代に読んだ谷崎潤一郎の「細雪」の世界にまちがいない、と思ったものだ。

▶寮の部屋は、8畳くらいの畳敷きの二人部屋で、同室はM君だった。私達は、ここから阪神春日野道にあった会社の本社に、新入社員研修のために一ヶ月間通った。研修ではご多聞にもれず多くの新入社員が寝てばかりいるので、研修担当の課長さんからはこっぴどく叱られたが、私を含めほとんどが馬耳東風だった。午後5時に研修が終わると、皆脱兎のごとく住吉まで帰ると言いたいところだが、実は真っすぐ帰る奴は殆どいなかった。それはそうだろう。

▶当時、4月分の給与は5月に支給されることになっており、当然寮費は後払いだったが、それなりの金をもって来ている者は殆どいない。しかし会社もよくしたもので、給料の前払いはできないが、希望するものには資金を無利子融資してくれるという。そこで、ほぼ全員が融資を受けた。また、研修中にバスで工場見学などするのだが、その日にはなんと出張日当まで支給された。ということで、懐具合がよくなった私達は、研修が終わると、三宮の街で飲んで帰るのが日課となった。

▶三々五々、グループを作って三宮の街を飲み歩き、寮に戻ってから報告会を開いた。当時よく行ったのが「ミュンヘン大使館」という名のビア・レストランで、最初に名前を聞いた時は、本当にドイツの大使館だと思った輩もいた。今回調べてみたら、なんとこの店は現在も残っており、サッポロビール系のレストランとして多店舗展開している。私達が行った店は、おそらく「神戸大使館」として現在ある店ではないだろうかと思うのだが、機会あれば是非行ってみたいところだ。

▶さて、一ヶ月の研修が終わると、私達は配属先の辞令をもらい、西と東に散っていくことになる。配属先は個人の希望は考慮するが、原則会社都合ということで、4月末に住吉寮の玄関脇に張り出された。その日も私達は三宮で酒を飲んで、住吉駅を降りて寮に戻っていったが、それぞれ自分の配属先がどこになるか心配で、心ここにあらずの心境だった。幸いなことに私の場合は希望が通って千葉工場の配属となったが、希望が通らなかった者は、その晩は大荒れで大変だった。

▶それでも、翌日は全員が荷物をまとめて、それぞれの配属地に向けて旅立っていったが、その時以来、私は住吉寮には行っていない。思えば45年前の4月に神戸で過ごした一カ月は夢のようだった。その後私は、千葉で結婚し、稲毛区園生にあった社宅で所帯を持った。すぐに長男を授かったが、昭和54年に、今度は妻と長男を連れて再び神戸に赴任することになる。住んだのは、夙川に近い芦屋市南宮町にあった社宅である。

▶その後阪神間には足掛け5年住んだが、楽しい良い思い出しか残っていない。海や山が近くハイキングにはことかかなかったし(なにせ、社宅から歩いて六甲山登山ができた)、甲子園球場西宮球場も近く、大阪や京都にも遊びに出るのはいたって便利だった。何より私も妻も若かった。長女が生まれる前は、妻に切迫流産の危険が迫り、私は仕事に介護にそれはそれで大変だったが、無事に長女を授かったのも良い思い出である。その後、私達は会社の都合で倉敷に移り、今度はここで次女を授かった。

▶ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず、とか。時はかく流れ、時代は大きく変貌した。会社の浮沈にあわせ、あの住吉寮は売却されて取り壊され、跡地には高級マンションが建った。そして家族で住んだ芦屋の社宅どころか、会社の本社自体も今や跡形もなく消え去り、私が親しく記憶の頼りとするべきものは、もはや神戸のどこを探しても見当たらず、そのことを話すべき唯一の相手であった妻さえもいなくなった。

▶飲みかけのコーヒーを片手に、庭を見ながらそんなことを考えていると足元が妙に寒い。タイマーが作動してファンヒーターが消えていた。やおらスイッチを入れると温風が吹き出した。やれやれと思いながら今度はテレビをつけると、ウクライナ騒ぎが続いている。灯油やガソリンだけでなく、多くのモノが値上がりしだした。コロナもまだ終息には遠そうだ。早く咲いた桜は、既に散り始めている。今年の4月も色々大変だ。桜だけは・・・しず心なく花のちるらむ・・か。

 

 

目黒川の花見


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▶29日は、いつもの学生時代の友人達と4人で、目黒川沿いで花見を楽しんだ。当初はもう少し多い人数で企画されたのだが、残念ながら予定が合わなかったり、健康上の問題もあったりして、結局はその人数になった。正午にJR大崎駅の南口に集合し、歩行者用のデッキを降りると、すぐに目黒川にぶつかった。

▶目黒川は、世田谷区・目黒区・品川区を北西方向から南東に向かって流れる河川で、五反田の南で山手線の内側に切れ込んでくる。海に流れ込む辺りは、昔は品川という名前だったそうで、それが現在の品川の地名になっているというトリビアは面白い。川沿いには800本の桜並木が続いているが、花見スポットとしては人気度が全国一位とのことだ。ただ、本当かどうかは知らない。

▶目黒川の桜見物で混むのは、中目黒駅付近や大橋付近で、大崎近辺は再開発にともなって植えられた比較的若木の桜が多いので、見物人はそれほど多くない。この場所は、幹事役のS君が見つけてくれたのだが、川沿いの桜が見える大崎キッチンというビア・レストランのテラス席を彼が確保しておいてくれた。

▶この日は曇り空だったが、花冷えという言葉がピッタリの陽気で、レストランのテラス席に座ると同時にブランケットが配られた。店のスタッフが、屋外ヒーターをつけてくれる。飲み会の開始にあたっては、S君が全員分のコロナ抗原検査キットを持ち込んで、彼の指示で検査をした結果、全員が陰性だったので、心置きなく花見を楽しむことにした。ちなみに、検査時間は僅か数分で、キットの調達価格は800円程度というから、随分と便利になったものである。通りがかりの人が、私達が検査している姿を物珍しそうに眺めていた。

▶最初は各自が選んだビールで乾杯。ここは世界各地のビールが飲めるので、ビール好きにはお勧めかも知れない。たちまちグラスが空いて次のビールを注文する。料理も配膳されてきて、ピッチも上がる。話題はもっぱらウクライナ情勢だ。飲んでいるうちに、風が少し強くなってきて、本格的に冷え込んできた。メンバーの一人は持参のマフラーを首に巻いたが、私は配られたブランケットを首に巻く。格好を気にする余裕はない。

▶寒いので、メンバーの一人が、ワインをレンジで温めてくれと無理な注文をするも、店側が受け付けてくれない。仕方ないので、彼はウィスキーのお湯割りを注文。私はビール党なので、寒空の下で満開の桜を眺めながらビールを飲んだ。江戸時代から、花見の時は寒いのが定番だと、誰かが言う。2時間近くたって料理の方も大方出尽くしたので、会計を済ませることにした。

▶幹事のS君が、会計を済ませると、飲み放題の時間がまだ40分残っていますよとスタッフから言われたとのこと。この段階で、一人が自宅に戻ることになり、残った3人はテラス席から店の中に入ったが、こちらは天国のような温かさで、一同元気を取り戻し、俄然ビールを注文したのだから、いい気なものだ。ここで更に40分飲んで、もう一人が犬の散歩に出かけないといけないとかで、家に戻って行った。

▶残ったのが、S君と私で、時刻は午後3時。カラオケでも行くかという話がまとまって、五反田駅まで歩き、駅前のカラオケ店に入った。S君とは学生時代から同じような付き合いを続けており、気分は昔と全く変わらない。彼の指示で、カラオケ店のドアノブは触らない、マイクやリモコンは用意したアルコールで全面消毒と、徹底した管理を施して、二人でカラオケを20曲ばかり歌った。S君は、妙なところが徹底している。

▶全部終わったのが午後5時頃だった。S君に礼を言って、五反田からJRに乗って帰った。千葉の家に着いたのは午後6時半頃だった。寒かったが、記憶に残る花見だった。

▶余談だが、ソメイヨシノの寿命は60~70年と言われている。一般の樹木の寿命は、これと比べるとはるかに長いが、ソメイヨシノの寿命が極端に短いのは、人工的に交配されて作り出された品種で、接ぎ木でしか増やせないという宿命を背負っていることと関係があるのだろう。年をとったソメイヨシノの木肌は次第に黒く変色してゆき、いかにも老人を想像させるが、その老木にもあでやかな花が咲く。人間は、自らの人生の遍歴を、ソメイヨシノに重ね合わせるから、これほど桜を愛でるのではないか。歌人西行は、満開の桜の時に死にたいものだと言って、実際にその通りに死んだ。西行も本当に桜が好きだったのだろう。