マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

台風10号と北九州旅行のドタバタ騒ぎ


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台風10号が九州を横断しているさなかの8月29日の夕方、やっとの思いで北九州から戻って来た。新幹線で東京駅に着いたのが午後3時過ぎだったが、千葉の家に戻ってテレビのニュースを見ると、先ほどまで動いていた東海道新幹線がストップしている。近づく台風影響で静岡付近では記録的な大雨が続き、一時的に運行を取りやめたようだ。私が乗車したのぞみ号も、静岡付近ではスピードを落として運転していたので、東京には少し遅れて到着したが、やはりギリギリのタイミングだったようだ。まことにラッキーだった。

▶翌30日は、山陽新幹線は博多・広島間が終日運休、広島・新大阪間は間引き運転、東海道新幹線は東京・名古屋間が終日完全運休した。そして、その影響は本日31日も続いている。空の便も西日本を中心に欠航が続き、私が行きに利用したJALの北九州便は、29日と30日の両日とも欠航となった。今回無事に帰宅できたのは僥倖以外の何ものでもないが、最悪の場合、更に2日間は北九州で足止めを食らうところだった。

▶もともと北九州には行くつもりで行ったのではなかった。実は8月末でJALマイレージの一部が期限切れになることが分かり、無駄にするくらいならそれを使ってどこかに行こうかと思い、JALの「どこかにマイル」というキャンペーンを申し込んだ。8月中旬のことである。「どこかにマイル」というのは、申し込んだ時点で4つの行き先が提示され、その中から最終的にはJALが行き先を決定するというギャンブル要素を含んだキャンペーンである。

▶私が申し込んだ時点での行先候補は、長崎・出雲・大阪・北九州となっており、いずれも8月27日~29日の往復である。もともと長崎と出雲は行きたいと思っていたし、大阪なら高野山でも行くかと決めていたが、北九州には行くあてがなかった。しかし蓋を開けてみれば行先が北九州となってしまった。北九州はこれまで行ったことがなかったし、これを機会に探索するもの悪くないと思いなおし、早速ホテルを予約した。一泊目は小倉駅近くのビジネスホテル、2泊目は玄界灘に面した温泉観光ホテルである。

▶出発が近づくにつれて台風10号が接近してきた。当初の予報では27日あたりに関東地方に接近してくるという。予約したフライトは羽田14:00発の北九州行きJL375便だ。もしこの便が欠航すると全ての日程がおじゃんになってしまうので、日程が近づくにつれてかなり気をもんだが、幸い台風10号の進みが遅く、進路も次第に西にずれていったので、27日の出発が確定した。

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▶27日の天気は問題なく、JL375便は予定通り午後3時49分に北九州空港に到着。この空港は関空や中部空港と同じ海上空港だった。リムジンバスで小倉駅前に着いたのが午後5時近かったので、すぐにホテルにチェックイン。早速大浴場の風呂に入ってから近くの海鮮専門の居酒屋に行った。

▶ここの居酒屋が出してくれたケンサキイカのお造りは絶品だった。九州のイカと言えば呼子イカが有名であるが、ここのイカも透き通っていて甘味が強く、触感はコリコリしていてとにかく喉の通りが良い。胴体を刺身で頂いたあと、残りの部分はバター焼きにしてもらったが、イカを肴にしての地元の冷酒もなかなか良かった。
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▶翌日は曇り空だったが、台風接近のため今にも雨が降り出しそうな天気である。午前8時に駅前のホテルをチェックアウトして、すぐに小倉城に向かった。この城は戦国末期の毛利氏の築城によって始まるが、本格的な城となったのは関ケ原以降に入国した細川忠興による。細川氏はその後熊本に転封されるが、そのあとを継いだのが播磨から移ってきた小笠原氏である。
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明治維新後はここに陸軍歩兵第12師団の司令部が置かれるが、この師団の軍医部長となったのが森鴎外で、現在も市内には鴎外の旧居が残っている。鴎外はこの時のことを「小倉日記」に書いているが、第二次大戦後、この小倉日記に想を得て「或る小倉日記伝」を書いたのが松本清張で、清張はこれにより芥川賞を受賞した。松本清張は小倉生まれとされており、小倉城内には、松本清張記念館がある。
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▶時刻は8時半頃だったので、小倉城松本清張記念館の9時半の開館にはまだ時間あった。このまま時間をつぶして待つのも時間がもったいないので、清張記念館に入るのは諦めて、西小倉駅に戻って電車で門司港に向かった。門司港関門海峡に面する北九州の玄関口で、明治の初めから港の開発が進み、筑豊炭田や官営八幡製鉄所をバックにして大いに発展する。現在はその頃に建設された建物が保存されていて、門司港レトロというコンセプトで観光客を集めている。
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門司港では門司港ミュージアムを見た。ここは門司港の歴史や全体の様子が分かり易く展示されている大人にも子どもにもお勧めの施設となっている。ここを出てから門司港から観光船で巌流島に渡る。巌流島は言わずと知れた宮本武蔵佐々木小次郎の決闘の場所だが、正しくは舟島という。現在ここには門司港から直接はアクセスできず、いったん対岸の下関に渡ってから、そこから更に船で巌流島に行くしかない。
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▶巌流島は、昔は小島だったようだが、その後周囲が埋め立てられて、現在は昔の6倍ほどの面積になっている。しかし、何で埋め立てたのかその理由は分からなかった。あるいはこの島で何か始める計画があったのかも知れない。

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巌流島からは遠くに源氏と平家が戦った壇之浦や、松本清張が「時間の習俗」で書いた和布刈神社が望める。関門海峡に行き交う船舶と海に架かった関門橋が美しい。
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▶巌流島から下関経由門司港まで戻り、そこで名物の焼きカレーを食べてから、鹿児島本線で折尾という駅まで行く。

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途中に戸畑、八幡といった日本製鉄ゆかりの駅を通るが、日鉄が開発したスペースワールド(旧八幡製鉄所の跡地の一部)駅からは、官営八幡製鉄所の第1号高炉が史跡として保存されているのが見えた。

折尾駅からは送迎バスに乗ってホテルに向かった。午後2時半と早い時刻だが、この時刻しかホテルの送迎バスがないので仕方ない。午後3時にホテルにチェックイン。部屋の窓からは雄大玄界灘の広がりが望め、やはり無理してここまで足を延ばしたのは良かったと思ったが、少し無理し過ぎたことを知るのは後のことである。早速温泉に入ってゆっくりしたが、この頃から次第に台風接近が気になりだす。


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夕食までは大したことはなかったが、早めに床に入って夜半に目を覚ますと風雨は相当強まってきたことが分かった。

▶さすがに翌日のフライトが心配になったのでスマホでチェックすると、案の定、北九州便が欠航になったことが分かった。さてどうするかと真夜中の思案。明日はJRもストップする可能性が高いので、果たして小倉まで戻れるかどうか。戻れなければこのホテルに頼んで連泊するしかないが、少なくとも2日は足止めをくらいそうな気がしてきた。窓を打つ雨の音も気になって、その後はなかなか寝付けなかった。

▶翌朝ホテルのフロントで相談すると、山陽新幹線は動くということなので、それならなんとしても小倉まで戻り、新幹線に乗るしかないと思い定める。ホテル側と交渉して、10時出発のホテルの送迎バスを40分程早めてもらうことに成功。そのバスで午前10時前に折尾駅に到着した。駅に駆け込むと、この時点で午前11時の小倉行きの電車が最終便だと分かり、その1本前の電車に何とか滑り込んだ。
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小倉駅には11時前に到着。とにかく乗れる新幹線に乗るつもりで、10時52分発ののぞみ号に乗り込んだが、なんともはや綱渡りの乗り継ぎだった。乗車して初めて安堵の吐息をついたのだが、最初にも書いた通り、この新幹線より2~3本遅い東京行きが静岡辺りでストップしたことを知ったのは、帰宅してからのことである。