マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

千葉市美術館の田中一村展にぶらりと行って・・・

▶今朝は午前4時過ぎに目が覚めてしまった。エアコンもつけずにしばらくベッドの中でグズグズしている。もう少し眠りたい気持ちはあるが、眠れない。昨晩は9時にベッドに入って、読みかけの倉本一宏「蘇我氏」を読みながら10時前には寝入ってしまったから、少なくとも6時間は眠っているはず・・・であれば仕方ないか、と思いながら午前6時過ぎにベッドを出て階下に降りて行った。

▶台所で湯をわかしながら、6時半になったのでラジオ体操をする。眠っていた身体が目覚めてくる。昨日に続いて大寒の空の下思い切って散歩に出ると、朝日に照らされた西の空に大きな白い満月を見つけた。珍しい。なんだかすごく得をした気分だ。30分散歩して戻ると、もう月は見えなくなっていた。

▶朝飯をたべながらNHKラジオを聞いていたら、千葉市美術館で田中一村の展覧会が開かれているとのこと。田中一村ってテレビの「なんでも鑑定団」か「日曜美術館」で見たような気がすると思いながら聞いていると、彼が奄美大島に移り住む前に、千葉市に10年以上も住んでいたということが分かり、なんだか急に親近感が湧いてきた。緊急事態宣言期間中ではあるが、美術館はオープンしており、車で7~8分だし、例によってヒマなので覘きにいくことにした。

▶手元にある年譜を見ると、田中一村は、明治41年に栃木県で生まれ、7歳にして既に南画を描き、ストレートで東京美術学校に入学した天才である。同時期に入学した一人に東山魁夷がいる。しかし一村は、僅か2ヶ月で美術学校を退学してしまい、その後は全く独学で絵を描き続けた。終生独身を貫き、千葉県(千葉市千葉寺)には昭和13年から移り住んで写実的な千葉の田舎の絵を描き続けた。この間、日展院展にも出品したが評価には恵まれず、中央の美術界からは全く忘れられた存在となっていったようだ。
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▶昭和33年、50歳になった一村は、満を持して院展に2作を出品したがあえなく落選。失意の後、千葉での生活を全て投げうって奄美大島に移住することを決意し、その後は奄美大島で、従来の日本画とは全く様相を異にした原色豊かな絵を、自らのために描き続け、昭和52年に69歳で奄美の小さな家で一人亡くなった。その3年前、同期だった東山魁夷日展の理事長に就任していたのであるから、思えば東山とは対称的な生涯であったと言える。

▶このまま終わってしまえば、私は田中一村の名前を知ることなく、今日美術展に行くこともなかったはずだが、あにはからんや、現実は面白い・・・。昭和59年にNHKがこの無名の田中一村を「日曜美術館」で取り上げたところ、突如として全国に大きな感動の輪が広がったのである。一村の絵は、特に奄美大島時代の絵は、日本のゴーギャンと言ってもいいほど、生命感に満ち溢れた絵であり、それがテレビ放送にマッチしたのかも知れない。その後大急ぎで仕立て上げられた巡回展に、なんと8万人もの人が見に行ったというから、驚きを通り越して、NHKの影響力たるや恐るべしだ。

▶平成13年には、奄美大島田中一村記念美術館が開館し、現在にいたるまで全国で特別展が続いているというから、世の中も捨てたものではない。草葉の陰で、一村もさぞ喜んでいることだろう。

▶さて、千葉市美術館の展覧会であるが、10時過ぎに行ったら訪問する人もまばらで、コロナを気にすることもなく、じっくり鑑賞できたのは良かった。展示の中心が奄美大島時代のものというより、若いころの南画やその後の日本画が中心だったので、ややがっかり。でも、奄美ゴーギャンのような絵を描いた人が、千葉ではこんな田舎の風景を優しく描いていたんだというのも分かって、それはそれで良かった。

▶それに、最後の部屋に、終生の傑作と言われている「アダンの海辺」が展示されていて、その色合や細密描写には圧倒された。絵の手前に大きな量感をもった果物のアダンが描かれており、その奥に幻想的で精神性あふれる海辺の空間が静かに広がっているさまは、見ていて見飽きない。これが見られたので、今日は充実した一日になった。早起きは三文の得で、朝起きて白い満月を西の空に見つけた時はそう思ったが、本当の得は「アダンの海辺」を見られたことだったかも知れない。