マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

吉村昭「関東大震災」の恐怖と教訓


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▶本箱を整理する。昔読んだはずだが、中身が思い出せない本が沢山ある。吉村昭関東大震災」もその一つだ。ページを開くと、既にして周辺部分に焼けが入っており、一体いつ読んだのかも思い出せないが、奥付を見ると第14刷が1990年に出ているので、それ以降に購入して読んだに違いない。しかし、それにしても30年近く経っている。

▶私はもともとノンフィクション物が好きで、柳田邦男や沢木耕太郎はよく読んでいる。柳田の「マッハの恐怖」や沢木の「凍」は特に面白かった。吉村昭も好きな作家の一人で、「関東大震災」は勉強のつもりで読んだような気がする。吉村の「関東大震災」は、大正天皇即位式があった大正4年11月初旬の話から始まる。以下、全体の流れを要約すると・・・。

即位式の翌々日の11月12日の未明に、千葉県の上総一ノ宮を震源とする地震が東京地方を襲った。この地震は、合計で65回にもおよぶ余震を伴っており、それが来るべき大地震の前触れではないかと、当時の東京市内は震えあがった。ここにおいて、当時の地震研究の第一人者である東京帝大の大森房吉教授と、彼の部下で、たまたまこ地震が起きた際に観測を担当した次席の今村明恒助教授の間で、この地震の解釈をめぐって論争が起こる。

▶今村助教授は、歴史的な経緯からみても、近いうちに東京の近傍で大地震が起こる可能性が否定できないとの立場から、将来起こるかもしれない大地震に対して警鐘を鳴らす趣旨の記者発表をするが、上司である主任の大森教授はこの発表が世間を騒がせることになることを危惧し、否定サイドに大きく舵を切った。実は大森教授と今村助教授の対立は、これが初めてではなかった。

▶遡ること10年前の明治38年。今村は、雑誌「太陽」に自らの論文を発表した。その際、論文の末尾を「・・・今後50年以内には、斯ういふ大地震(※安政の江戸大地震のこと)に襲われることを覚悟しなくてはなるまい」という言葉で結んだのだ。しかしこれが当時の世相に大きな動揺をもたらす。この時大森は、地震予知の限界と、東京帝大の学者が発表する負の影響力の大きさを恐れるあまり、今村の意見に理解を示しつつも、最後は自ら講演会を開いて今村の意見を全面的に否定した。それ以降、二人の間には微妙な確執が残るのである。

▶そして、大正12年(1923年)9月1日午前11時58分。相模湾震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲った。震源地に近いところの揺れは、「土地が、上下となく、前後となく、左右となく、複雑に揺れて立つことができない。丁度、暴風雨に襲われた小船の甲板にいるようであった」とある。神奈川では瞬時にして小田原と箱根が壊滅し、東海道線根府川駅でこの地震に遭遇した下り第109列車は、断崖から40メートル下の海中に落下した。同時に起こった地崩れにより、根府川駅の建物も列車の後を追うように海中に没した。

▶千葉の被害は、南に行くほど激しく、館山では99%の家屋が倒壊し、付近一帯の田んぼが2メートルも沈下した。千葉では陥没が激しかった一方、相模湾沿いでは隆起が激しく、大磯や茅ヶ崎では一気に1.8メートル近くも地面が持ち上がったというから、恐ろしい話だ。東京を除く関東6県の被害は、全壊6万7千戸、半壊7万1千戸というから、凄まじい。

▶東京はどうだったか。地震の揺れそのものは神奈川や千葉南西部ほどではなかったが、家屋の被害は地盤の弱い下町地域を中心に、広範囲に及び、全壊1万6千戸、半壊2万戸に上った。しかし、本当の被害は、今村が明治38年に指摘したように、地震の後に起こった。火災である。たまたま昼時で家庭や店では火を使っていたので、地震直後から至るところで火災が発生した。意外だったのは、学校や研究所や病院などの火災である。原因は保有してあった「薬品」の落下による発火だった。

東京市内では、火災は地震直後から発生し、その後42時間も燃え続けた結果、全戸数48万戸のうち30万戸が全焼した。横浜でも、6万戸が全焼した。そしてこれらによる死者の数は、全体で10万5千名に上った。阪神大震災の死者が6千4百名、東日本大震災の死者数1万6千名と比較しても、関東大震災が桁違いに多くの犠牲者を出したことが分かる。

▶最も悲惨な火災現場は、本所の陸軍被服廠跡(現在の墨田区横網の都立横網公園)である。当時ここは、陸軍の被服工場が移転したあとの広大な空き地となっていて、ここに周辺から数万の人々が避難のため逃げ込んだ。広大な空き地だったが、各人が抱えられる限りの荷物や家財道具を合わせて持ち込んだことから、場内は立錐の余地もないほど混雑し、そこに周囲から飛んで来た火が荷物に燃え移って火災が発生した。更に火災原因の竜巻と思われる旋風が発生し、人や荷車が空に吸い上げられ、為に火災は一気に拡大し、ここだけで、なんと3万8千人もの人が、逃げることもできずに折り重なるようにして焼死した。まさにこの世の地獄が出現したのだが、吉村は、僅かに生き残った関係者から取材して、この時の様子を迫真の筆で描き出している。

明治38年に今村が予言した50年以内の大地震の発生は、不幸にも的中した。今村は、地震による火災の発生も予測し、仮にそうなった場合は10万~20万人の犠牲者が出るおそれがあると言ったが、これも的中した。その今村は関東大震災を生き延びた。一方、当時の第一人者であった大森は、地震発生当時はシドニーの学術会議に参加していて日本にはいなかった。大森は関東地方での大地震の発生を知り、愕然として予定を切り上げて帰国したが、実はこのとき既に体調を崩しており、帰国後2ヶ月余りで無念の思いを抱えて亡くなった。人の運命を感じさせる話ではある・・・。

吉村昭は、関東大震災について、実際の震災被害の他に、流言飛語によって多くの朝鮮人が虐殺された事実を克明に書き起こしている。これについては、今日のブログの主題とは少し離れるので、ここではこれ以上触れない。しかし、デマの恐ろしさは時に人間性を破壊し、為にとんでもない悲劇を引き起こすことがあることを、この本は見事に伝えている。

▶関東南部で周期的に大地震が起こることは、歴史によって証明されており、今年は、1923年の関東大震災が起きてから98年目にあたる。かつて大地震60年周期説というのが唱えられたこともあった。太平洋プレートが日本列島に潜り込むことによって、地殻の歪は溜まっていく。これが弾けたのが東日本大震災であった。政府の地震調査委員会は、今後30年以内に70%の確率で首都直下型地震が発生すると予測し、その場合、最大で2万3千名の死者が出る(但し、対策をとれば十分の一に減らせる)と発表している。百年前と比べて、日本の建築の耐震性は圧倒的に向上した。だからといって、被害が我が身におよばないかと言えば、そんな簡単な話ではない。

▶関東南部の直下型地震のメカニズムはよく知らないが、かつて起こったことは、また同じように起こるのだと、私は素直に思う。人間は必ず起こる事象(例えば自分自身の死)についても、それがいつ起こるか分からない限り、平気で生きていける存在のようだ。少なくとも自分が生きている間は、阿鼻叫喚の直下型地震など経験したくないのが人情だし、完璧な対策など取りようがないのだ。だからこの問題は、忘れて生きるのが一番いいという意見もあるが、果たして本当にそれでいいのか。

吉村昭の「関東大震災」を読んで、また一つ憂いの種が増えた。しかし、勇気を奮って、敢えてここに紹介した。備えあれば憂いなしというではないか。大地震は、忘れた頃にやってくる。きっと吉村氏の考えも同じだろう・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はノンフィクション物が好きだが、中でも柳田邦夫氏、吉村昭氏の著作は比較的読んでいる方だ。4月に亡くなった立花隆氏の「田中角栄研究」は、当時発売された文芸春秋の誌面で読んだことをよく覚えている。