マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

夏の終わり、秋の始め


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▶今年の夏は、天候が不順だった。まず、梅雨が明けてすぐ、東京オリンピックが始まった頃は、さすがに毎日猛暑が続いていたような気がする。気がすると書いたのは、暑さの状況が思い出せないと言うことではなく、コロナ感染の拡大もあって、私は毎日外出することもなく、エアコンをフル稼働して居間で五輪のテレビ観戦をしていたから、正直言って外の暑さを実感することが殆どなかったという意味である。唯一の例外が、7月の末に北軽井沢に行って友人とゴルフを楽しんだことであるが、こちらはいたって涼しかったが、これは天候不順とは関係がない。

▶ところが、8月の中旬には日本列島に前線が停滞し、まるで梅雨末期のような様相を呈した。その影響で各地で大雨の被害が報告されたが、この時期はコロナ感染の第五波がまさにピークにさしかかる頃で、オリンピックの熱気が過ぎ去った日本列島は、雨とコロナで全く踏んだり蹴ったりの状況になった。関東地方では、8月13日に大雨が見込まれていたので、私は前日に前橋にある実家の墓参りを済ませておいたが、案の定、翌日の北関東は大雨で、寺で行う迎え盆の行事も大変だったようだ。

▶真夏に雨が続いて気温の上がらない日が続くというのは冷害を連想させるが、記憶に刻まれているのは1993年夏の冷夏で、この時は夏中雨が続いて、結果的にその年の米の収穫量が激減した。秋になっても新米がスーパーでは手に入れることができないので、食べ盛りの子供をかかえた我が家(※当時は千葉駅近くに住んでいた)では、夫婦で米の調達に奔走した。しかし、どこに行ってもまともに米が買えることはなかった記憶がある。米がなければパンを食べればいいのだが、手に入らないと分かると急に食べたくなるというのも人情で、この時のことを最近では、平成の米騒動と言うらしい。自分のことは棚に上げて言うのもなんだが、付和雷同に動く日本人も困ったものだ。

▶しかし、夏が寒かった一番の記憶は、昭和52年(1977年)の夏のことである。この時は、冷害ということではなかった気がするが、お盆の前後に雨が降り続いて、15日の終戦記念日の夜に、とうとう押し入れから冬用の布団を引っ張り出して寝た記憶がある。当時私は入社したばかりの新入社員で、千葉市内にある会社の新入社員寮の6畳の一室に、同期入社の友人と二人で生活していた。その晩は冗談を通り越して本当に寒くなってきたので、彼と私は、辛抱たまらずお互いに自分達の布団を引っ張り出して床についたのだった。

▶話を今年に戻すと、8月下旬になってパラリンピックが始まる頃には天気もようやく持ち直して、通常の夏の暑さが戻ってきたが、9月の声を聞いたとたん、また天候不順となってしまった。今度は梅雨前線ならぬ秋雨前線の停滞である。それでも9月5日までは気温はそれなりに高かった。6日の明け方、ベッドで目を覚ますと寒い。しかも少し喉が痛い。前夜は近所の予定外の飲み会(※これについては前回のブログに書いてある)に参加してアルコールがかなり入ったので、薄着のまま床に着いてしまったのだが、おりからの気温の急低下で、風邪を引いてしまったようだった。

▶コロナワクチンは2回接種を終わっているので、よもやコロナ感染ではあるまいと思ったが、念をいれて6日から7日にかけて厚着をして過ごしたが、鼻水が止まらなくて参った。8日になんとか鼻水も止まり体調が戻ってホッとしたが、天候が不順だと少しの油断で体調を崩すので、注意しないといけない。

▶先週末に久しぶりに夕方の散歩に出ると、相変わらずセミはまだ鳴いていたが、散歩道の脇の田んぼでは、早くも稲刈りが終わり、刈ったばかりの稲束が干し並べてあった。その先では、去年見かけた畑の中にある「お化けすすき」が早くも穂をつけていた。帰ってから調べると、パンパグラスという外来種のススキの一種らしいことがわかった。不順であった今年の夏もこうして終わり、秋がしめやかにやって来たようだ。
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