マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

四国遍路日記(7ー5)


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▶一昨年10月に始めた四国遍路も、とうとう今日が最後となった。結願寺である第88番札所大窪寺を無事に打ち終わって思ったのは、これでようやく約束を果たすことができたという思いである。それ以外に何やら大きな感情に動かされるのではないかと期待する部分も少しはあったが、現実にはそんなこともなく、思ったより冷静な状態で、3月9日12時30分に大窪寺の山門をくぐった。足掛け3年、往復の日程を含めると60日以上を費やして、同行二人でおよそ1200㎞の道のりを歩いた私の四国巡礼の旅もひとまずこれで終了する。

▶人はなぜ四国を歩くのか。遍路を始める動機は人それぞれであり、遍路の形態もそれぞれである。私が歩き遍路を思いたったのは、奥様をガンで亡くされた国立がんセンター総長(当時)の垣添忠生氏の「巡礼日記・・亡き妻と歩いた600㎞・・」を読んだからである。妻を失った翌年、私も人並みに深い喪失感の中にあったが、そんな時にこの本に出会う。こういう形で故人を悼む方法もあるのかという新鮮な気づきと、もしかしたら四国巡礼の旅がこれからの私の人生を立て直す大きなきっかけを与えてくれるのではないかという期待が相俟って、俄然遍路に行く気になったのである。

▶それに遍路を始めることで、定年後の単調な毎日に刺激を与えることができそうだし、少し前に始めたブログの執筆とも波長が合いそうな気がする。善は急げ、まずは有言実行の精神で、その頃から通い始めた近くの居酒屋の常連さん達に四国遍路に行くことを宣言したのであった。まあ、とにかく当時はそうした精神状況にあったということです。そして、ある程度知識を蓄えた令和3年10月初旬に第一回の四国行きを決行したのであるが、その時の状況はこのブログにも既に書いている。

▶ところで今朝は、志度寺前の遍路宿を6時45分に出て、最寄りの志度駅から徳島方面の電車に2駅乗車して造田駅で降りた。昨日は時間の余裕があったので、造田駅まで歩いたのでこういう芸当が許される。この関係で87番長尾寺に通常の予定より1時間早く8時前に到着した。長尾寺の境内は、まるで学校の校庭のように広がっている。そこに早朝から近所の人が散歩がてらに集まってくる。挨拶をすると、待ってましたと言わんばかりに話しかけてくる。こういう時の何気ない交流が、遍路の楽しみの一つである。ベンチに座ったおじさんから、あれやこれやの遍路情報をいただいた。
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▶8時15分に87番長尾寺を後にして、真っ直ぐな遍路道を南に向かってなだらかに上って行く。残るは88番大窪寺ただ一寺だ。一昨日の金比羅詣でと昨日の屋島の登り降りが膝にきている気がするが、これが最後と身体にムチを入れる。1時間歩いて前山ダムに到着。長尾寺の境内のおじさんから、ここに「お遍路交流サロン」という施設があるので是非立ち寄ってくれと言われたことを思い出す。この施設で、申請書に記入して遍路の結願の認定証とバッチをいただいた。実際はまだ結願していないのだが、讃岐の人はそんな細かいことは言わない。

▶そこから花折遍路道を経由して大窪寺まで残り11㎞程だ。18度近くまで上がった気温の中で、つづら折りの坂道を必死で上る。この遍路道は舗装されているのだが、急な坂が続き道端に腰を下ろすような場所がない。結局45分も連続で上ったところにようやく休憩所を見つけたのだが、目指す峠はすぐその先にあった。ああここが胸突き八丁かと思ったところが、実は峠のすぐ近くだったというのは、今回の四国遍路で得た私の偽らざる実感である。

▶花折遍路道から再び一般道に出るともう大窪寺まであと5㎞程。最後の2㎞は車道を離れて並行して続く遍路道に再び入ったが、これが何とも雰囲気のある道で、ここまでくると、名残り惜しさでこのまま歩き続けたいと思った程だ。記念に一枚写真を撮る。そして歩くこと20分程でそのなだらかな坂の上に雲ならぬ大窪寺の山門が次第に見えてきた・・・。
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▶遍路が終わってやれやれとした気分で山門前のうどん屋に入る。ここで味噌煮込みうどんを食するのが結願した遍路のしきたりだとか。今朝長尾寺で会ったおじさんから教えてもらった。昼からビールを一杯いただいて、想像以上に美味しいうどんをほお張りながら、密かに結願を祝したのでした。
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