マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

四国遍路日記(4ー1)


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(岩本寺の本堂にて)
▶宿坊の朝は早い。岩本寺の宿泊者は午前6時から始まる「お務め」に参加することが決まりになっている。今朝の参加者は、車遍路の夫婦者と、私を含めた歩き遍路が4人の計6人だった。少し遅れて住職が登場し、すぐに勤行が始まった。勤行そのものは30分で終わったが、その後の法話が10分以上あり、早く出発したい歩き遍路の皆さんは、若干ヤキモキしたようだ。

▶朝食の開始が遅れたのと、雨支度に手間取たのとで、宿を出たのは7時40分だった。本降りというほどではないが、四国地方には梅雨のはしりの前線がかかっており、朝から雨が降っている。長い道中で雨の日があるのも仕方ないことだろうと自らに言い聞かせながら国道56号線四万十町から四万十市方面に向けて歩く。(なお、地名の混乱は既にこのブログでも報告した通りである。)

▶1時間ほど歩いてから56号線を離れて本格的な遍路道(山道)に入った。ここは片坂峠というところで、名前の通り一方的な下りの道だ。実はこの道を選択するについては、かなり考えた。前回最終日に登りの山道で転倒しているので、雨の日の下りには更に注意が必要と分かっているからだ。転倒は絶対にできない。しかし、午前中で体力に余力があり、しかも時間に余裕を持たせることができるので、雨中の峠道をトライしてみることにした。

▶誰も通りそうにない雨の山道を、転ばぬように、30分近くかけて一歩一歩足下を確かめながら降りてきたが、市野瀬で再び56号線に合流した時には正直ホッとした。気がつけばレインウェアの下にかなりの汗をかいている。(ゴアテックスなのに仕方ないですね。)

▶既にかなりの時間歩き続けているので休憩をとりたいが、何せ雨が降っているので、腰を下ろす場所が見つからない。市野瀬集落を過ぎたところの道沿いで遍路休憩所の看板を掲げてある民家を見つけたが、雨なので戸口は閉まっている。そのまま通り過ぎると、後方から呼び止める声が聞こえた。

▶その家の人が、私の姿を見つけてわざわざ声をかけてくれたのだ。軒先に雨囲いが施してあってベンチもあるので、ここで休ませてもらうことにした。ケースに飲み物が並べてあり、お好きなものをどうぞというので、遠慮なく野菜ジュースを頂戴したが、本当にありがたいですよね・・。そのおじさんに、お礼に私の納経札を一枚渡したら、こちらもありがたく受け取ってくれた。これは接待を受けた時の遍路の作法である。

▶そのおじさんとひとしきり話したあと、重ねて礼を言って再び雨の中を歩きだしたが、何だか体だけでなく心も軽くなったように感じたものである。その後は延々と56号線を歩き続けて、正午をかなり過ぎたところで、土佐佐賀の手前にある「道の駅なぶら土佐佐賀」で昼食をとったが、その頃には雨も上がってきた。ここまでで既に20㎞は歩いたことになる。


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▶雨は上がったものの、午後になると疲労が足にくるのがわかる。そこからは太平洋の荒波を左に見ながら海岸沿いの道を8㎞ほど歩いた。今晩の宿である民宿たかはま・・ここは海に面していて、部屋からの眺めは高級ホテル並みだ・・に到着したのは3時半だった。雨で疲れたが、ほぼ予定通りだった。

四国遍路日記(4ー0)


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(高知駅前の巨像。左から武市半平太坂本龍馬中岡慎太郎)
▶5月の連休も特に何もなく終わった後の10日の火曜から、4度目の四国遍路を再開することにした。これまで全行程1100㎞の4割は歩いた勘定だが、まだ半分には届いていない。今回は四万十町窪川から足摺岬を回って、いよいよ伊予の国(シャレではありません)宇和島まで足を伸ばす計画で、千葉に戻るのは22日の日曜を予定している。

▶JAL493便高知行きは、羽田の89番ゲートから定刻出発した。ここ2~3日はコロナ感染者数が前週比で全国的に増加傾向にもかかわらず、見渡すと機内はほぼ満席だ。スーツ姿のビジネスマンが多いが、私も含めて明らかに旅行と思われる人もそれなりにいる。世の中が平和であることの証で、まことに結構なことだ。

▶機内で配られたコンソメスープを飲んでウトウトしていたら、突然ドンという衝撃があったので驚いて目を覚ましたら既に高知空港に着陸していた。時刻は10時45分。これまで長いこと飛行機に乗っているが、着陸時に眠っていたのは今回が初めてだ。いたってノンキなものです。先月も高知に来ているので、迷うことなく空港バスに乗り込んで市内に向かう。

はりまや橋北のバス停で降りて、「おらんく家本店(寿司屋)」にものは試しと飛び込んだのが開店直後の11時35分。15食限定のワンコイン(500円は驚きの価格です)ランチは既に売り切れていた。地元の人も観光客も、開店前からこれを目当てに並んでいるんです、というのは店員さんの話。だから開店即売り切れは当然。私は寿司定食とビールを頼んだが、締めて1560円。こちらもコスパ抜群で、満足度十分だった。高知恐るべし。それにしても昼のビールはうまい。

▶本日は、前回切り上げた窪川まで電車で行くだけの行程なので、気分的には極めてリラックスしている。電車の時間までは約3時間はあるので、高知市内をぶらぶらして時間を潰した。こういう過ごし方も悪くない。前回同様ひろめ市場をひやかしてから高知城歴史博物館に入ったが、先程飲んだビールの酔いが午後の眠りを誘い、正直観賞どころではなかった。喫茶室でコーヒーを飲んで酔いを醒ます。

▶15時43分の特急あしずりに乗り込み、目的地の窪川に着いたのは16時50分。途中、前回歩いた国道56号線の見覚えある景色が、窓外に見え隠れしていた。今晩の泊まりは前回と同じ岩本寺の宿坊で、駅に降りたら、窪川の街は霧雨に煙っていた。5時過ぎに宿坊に入る。明日は雨模様の遍路スタートになりそうだ。

 

再び日経新聞とともに


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▶5月1日の朝、郵便受けに日経新聞が投函されていた。一瞬誤配達を疑ったが、すぐに2ヶ月程前に新聞を変える契約を結んだことを思い出した。それまでは読売新聞を購読していたのだが、訳あって読売から日経に変更することにしたのだ。すんなりと契約更改できると思ってやって来た読売新聞の販売員は、私が日経に変えたいと言うと、なんとか両方購読してもらえないかと持参した景品をチラつかせて粘りに粘ったが、結局は将来は読売に戻すとの口約束に納得して帰っていった。(※ちなみに、景品はいただきました)

▶私が現役で仕事をしていた頃は、読売と日経の二紙を購読していた。出勤前に読売新聞にサッと目を通した後、日経はもっぱら通勤電車の中で読んだ。当時は遠距離通勤だったが、幸い電車の席に座って日経が読めたので、長い通勤時間が(帰りを除けば)苦になることは全くなかった。この間、日経は殆ど隅から隅まで目を通したから、私のビジネス上の知識は、一部の読書を除けば殆ど日経から得たと言っても過言ではない。この習慣は変わらず20年以上も続いたのだが、それは私にとって、サラリーマン人生の貴重な一部となっている。

▶その生活も、3年前の定年とともに終止符が打たれた。定年後の「終わった人」に日経新聞は必要なかったし、年金生活者が新聞二紙を購読するのは荷が重いので、読売新聞一紙に絞ったのだ。本当は日経を継続したかったのだが、当時元気だった妻が、日経に難色を示したので、結局読売に落ち着いたという訳だ。ところが、肝心の妻は突然逝ってしまい、手元には読売新聞だけが残ることになった。

▶妻のいない引退後の一人暮らしは、時間だけがイヤになるほどたっぷりある。さぞかし新聞をじっくり読めるだろうと思いきや、実際に読む時間は毎日10分程度といたって短い。まず読売の裏面のテレビ欄にサッと目を通した後、社会面から逆にページをめくっていく。しかし、残念ながら興味を引くような記事が殆どないというのはどうしたことか。だいたい昔から読売が得意とするのは社会面と家庭面で、なるほど私には人生相談と家庭料理のレシピと医療の話といった生活情報くらいしか目にとまらない。

▶その読売は、だいぶ前に新聞の活字のポイントを大きくした。結果的にページあたりの字数が相当減少してしまい、活字が大きいのと中身が薄い(※興味も薄い)ので、まるで見出しを読むのと同じくらいのスピードで全体に目を通してしまう。ある日のこと、その日真剣に読んだのは、週刊誌の新聞広告とスーパーの折り込みチラシだけだったという事実に気がついて、我ながら愕然とした。

▶それでも日曜の書評欄くらいは何とか読んでいるが、だいたい今の読売新聞は、どの層をメイン・ターゲットに想定して紙面を作っているのかよく分からない。少なくとも、私が必要とする(生活の知恵以外の)情報は、読売の紙面には少ないようだ。

▶さて、1日の朝は久しぶりに手にした日経新聞を前にして、大げさでなく胸がときめいた。かつてそうだったように、まず最終面の文化欄を開くと左上隅の「私の履歴書」が目に飛び込んでくる。5月からは漫画家の里中満智子さんが執筆担当で面白そうだ。また下の方には、安部龍太郎の「ふりさけ見れば」という小説が連載中だ。ご丁寧にこれまでのあらすじが載っているが、唐の玄宗皇帝時代に遣唐使で派遣された阿倍仲麻呂が主人公で、これまた私の興味にドンピシャリと合っている。(※ちなみに小説にはNHK文化講座で勉強したソグド人の安禄山が登場している。玄宗皇帝自身も、漢人ではないと言われているので、なるほど阿倍仲麻呂が重用された訳も腑に落ちるが、これは別の話)

▶ページをめくると社会面は左面1面だけで、右面はサイエンス欄で、江戸の飢饉と巨大噴火の関係を詳説しているのも好ましい。1日はたまたま日曜だったので、当日の日経は日曜特別版として文化面が充実していた。2日からは平日版だが、メトロポリタン美術館の一面広告が載っていたり、スポーツ欄のプロ野球に関する専門的なエッセイなども読んでいて面白い。また読売と異なり活字が小さい(※かつてはこれが普通だった)ので、読む量は必然的に増えることになるが、これは私的には好ましい。

▶もちろん、メインの経済記事は読売と比較するのも可哀そうなくらいに充実していて、日本製鉄とトヨタ自動車の電磁鋼板を巡る特許訴訟に、三井物産が引きずりこまれた(※特許訴訟はメーカー間の問題で、扱い商社はこれまで無縁だった)との特集記事は、思わず身を乗り出して読んでしまった。なお、昔から国際面や政治面の記事も、経済面に劣らず思いのほか充実しているが、これは日経がフィナンシャル・タイムズを傘下に置いたこともプラスに影響しているはずだ。

▶という訳で、5月からの私の生活は、再び日経新聞とともに新たな一歩を踏み出すことになった。毎朝、郵便受けに日経を取りに行くのが楽しみである。

▶さて「終わった人」である私が、わざわざ読売から日経に新聞を変えたのは、この夏から月に1~2回、とある会社の手伝いをすることが決まったことがキッカケとなっている。このところ四国遍路に忙しかった私が、読売をやめて再び日経を読み始めたと妻が知ったら、さて一体どんな反応をしたことだろうか・・・。

 

 

 

健康診断で肝を冷やす


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▶年に一度、日比谷のクリニックで、健康診断(人間ドック)を受けている。ここの先生とは、私が現役で働いていた頃からの長いつきあいだ。お蔭様で、色々融通が利くし、何より健康上の異変があった時、この先生の専門医ネットワークがとても頼りになる。また、私の経年の健康データは全てここに保管されているので、いつでも現状との対比分析は可能であり、この面からの信頼性はとても高い。

▶今年も3月の初めに健康診断を受けた。私には逆流性食道炎の持病があるため、毎年胃の内視鏡検査を受けているが、健診はこれがメイン・イベントだ。それを含め一通りの検査が終わり、とりあえず出た結果データをもとに先生の内診を受けたが、基本的には問題ないとの所見で、その日は、いつも服用している胃薬とコレステロールの抑制剤のみを処方してもらい、家に帰った。

▶ちなみに胃の内視鏡検査は、初期のころは地獄のような苦しい検査と言われた時もあったが、最近はファイバー・スコープの直径は格段に細くかつ柔軟になっており、しかも検査時には軽い麻酔まで用意されているから身体的にはいたって楽だ。麻酔が効いて検査が終わってもまだ夢見心地で、このため別室で20分程休むのだが、これが楽しみになるほど気持ちがいい(特に寝不足の場合はね)・・・というのも困ったものだ。

▶さて、3月25日の午後、4月から予定している四国遍路用に新しいトレッキング・シューズの購入を終え、自宅に戻って郵便受けを開けると、先の健康診断結果通知が届いていた。既に、先生から概ね問題ないと言われていたので、何の不安もなく封筒を開けて書類に目を通す。すると、精密検査が必要との項目が見つかった。もう一度しっかり確認すると、胸部X線撮影で、肺に結節の疑いがあるとの所見が書いてある。いったいこれは何のことだろう。

▶いやな思いを抱きつつ、早速ウェブで調べてみると、肺に結節があるとは、肺がんの疑いがあるということだと分かった。おいおい、これは一大事だ。確かに平均余命が延びた現代は、一生のうちに2人に1人はガンに罹る時代であると言われており、だから自分もいつかはガンを発症するかもしれないとの思いは無くはなかったが、まさかこのタイミングでこんな事態に見舞われるとは思ってもいない。それに私は、既に妹と妻をガンで失っている。今度は自分かと気分がスパイラル状に落ち込んでいく。と言っても、ガンだと決まった訳ではないとようよう落ち着きを取り戻して、早速クリニックに再検査の予約を入れた。

▶3月28日に日比谷のクリニックを訪れる。健診で撮影した胸部X線写真を前にして、いつもの先生が説明してくれる。胸部X線写真の読影は、間違いがあってはいけないので、自分の他にもう一人の医師にもダブルチェックしてもらうのだそうだが、その医師が私の右肺の僅かに白く映っている部分を、結節の疑いと診断したのだという。万が一のことを考えたらCTによる精密検査を受けた方がいいとのアドバイスに従い、当日その足で、八重洲にある検査センターに行った。この辺りの段取りが、極めてスムーズなのは実にありがたい。

▶CT検査とは、X線とコンピューターにより胸部の断層を連続的に撮影するものだが、検査自体はあっという間に終わって、結果は一週間後にクリニックに連絡するということになった。私は、4月7日より四国遍路に行く予定を立てており、検査結果はその前の5日に明らかになるのだが、もしCTで異常が見つかっても、四国遍路だけは予定どおり行こうと思い定めた。それにしても、贅沢は言わないから少なくともあと10年くらいは健康で過ごしたいものだと思いつつ、4月に入ってからは一人不安な日々を過ごした。仏陀は「諸行無常諸法無我一切皆苦」と言ったとか。まったく、人間はこんなにも弱いものなのかと、深く自覚する。

▶「運命の」というと大げさだが、実際そういう気持ちで、4月5日に結果を聞くために日比谷のクリニックに出かけていった。診察室に入ると、私の不安そうな顔を見たいつもの先生が、開口一番「大丈夫だったですよ」と言ってくれた。ああ、助かったかと、安堵の吐息をもらす。先生がおもむろにCT画像の説明をしてくれたが、要するに腫瘍のようなものは全く見当たらないとのことで、結果は全てオーライということになった。

▶その後、なぜ最初の胸部X線画像に白い影が映ったのかという説明をしてくれたが、要するに肺の内部を走る血管が交差するような部分が、時として結節に間違えられるということで、定期健康診断ではよくある事象とのことだった。心配した10日間の日々はいったい何だったのかということになるが、まあ、肺については少なくとも今後5年くらいは大丈夫とのお墨付きをもらったのだと思い直し、気分的にも結果オーライとなった。

▶その日は、夕方から千葉で花見を兼ねた飲み会が予定されており、天気は雨模様だったので急遽花見は中止し、飲み会だけを駅近くの海鮮焼きの店で開催した。外は雨が降っていたが、私の気分は爽快そのもので、一度縮んだ命がまた延びるとはこのことだと実感する。さあこれで安心して遍路に出かけられる。集まったメンバーの皆さんからも「よかったね」と声をかけられたりして、冷たいビールが一層美味しくなったのは言うまでもない。

 

 

 

 

その名前、なんとかなりません?

▶昨年から四国遍路を始め、先週3回目の区分打ち(行程を分割して回る)を終えて帰ってきた。最終日は、四万十町にある窪川駅から高知駅まで特急列車(二両編成なので、かろうじて列車と言える。ちなみに各駅停車は一両編成で2~3時間に一本しかない。)を使って戻ったが、JR四国の経営が厳しい事情は、このあたりにもよく出ている。ところで、今回取り上げたいのはJRの話ではなく、市町村の名前の話。

▶四国から帰る前日、国道56号線四万十町に入ったところにある遍路休憩所で、街道歩き(遍路ではない)を趣味にしている人にあった。この方と今日はどこまで行くのかと話をしていて、四国に全く別の自治体として、四万十市四万十町があることを知った。私がその晩泊る予定の岩本寺の宿坊は、四万十町にあるが、その人は四万十市まで電車を使って行くという。聞けば、この辺りの人は、四万十市は中村と呼び、四万十町窪川と言っているとのこと。全く分かりずらい。下の道路標識の写真をごらんあれ。ちなみに、四万十市には四万十町という町があって、ここの住所は四万十市中村四万十町というから、さらにややこしい。
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▶原因は平成の市町村合併にあった。2005年に、高知県西部の拠点都市であった中村市と土佐村が合併して、四万十市ができる。名前は市内を流れる四万十川から採ったのだろう。しかし、古くからこの地域は中村で通っていたので、この辺りの地形は中村平野と呼び、四万十市のJRの中心駅は中村駅である。2006年、中村市の東隣地域の窪川町と大正町と十和村が合併して一つの町となったが、この時に最大の窪川町の名前をとらずに四万十町を名乗ったことから、混乱が続いているという訳だ。国土交通省は諦めて、道路標識には写真にある通り、今でも旧中村、旧窪川という名前を併記している。

▶要するに、分かりやすさより、地元の都合(エゴと言ったら言い過ぎか)を優先した形だが、その経緯が面白そうなので、今回改めて調べてみると、全国には同様の事例がゴロゴロ転がっている。総務省の責任か県の責任かは知らないが、名称の決定にあたっては、もう少しなんとか調整できなかったのかと、思わずにはいられない。

▶北海道の釧路市の隣に釧路町がある。福井には越前市越前町がある。広島には府中市府中町があり、マツダの本社は府中市ではなく府中町だが、地元の人は混乱を避けるために、府中町安芸府中と呼ぶらしい。府中町マツダ効果で人口が増加し、既に5万人を超えているので市制移行も当然考えられるが、まさか府中市とはならないだろう。ちなみに、東京の府中市と広島の府中市は、昭和29年に、ほぼ同時に府中市となっており、この時点では全国で同じ市名を持つ自治体は、ここだけだったそうな。

▶市町村の名前で、勘弁してほしいと思うのは、伊豆半島にある市町村。ここは車やバイクで走ることが多い観光地で、当然外部から来る人は多いのだが、名前が伊豆だらけで、走っていて面食らうことが多い。東伊豆町西伊豆町南伊豆町までは方角が明示されているのでまだいいが、2000年に修善寺町を中心に周辺の町が合併して伊豆市が誕生。2005年に伊豆市の北隣の町が合併して伊豆の国市ができたから、外から見ると位置関係や大きさが分かりずらくなった。伊豆の国市は、市の名前を一般公募で決めたというから、県としても口が出せなかったのか。まあ、住んでいる人がいいのだから、外部から文句をつけるのは大きなお世話だが、結果として伊豆半島には伊豆と名の付く自治体が五個もできてしまった訳で、皆んな、よっぽど伊豆が好きなんでしょうな。

▶紛らわしいということではないが、名前だけを見ると、一体この県の中心はどこにあるのだろうかと思ってしまうのが、山梨県。だいたい、北海道や九州に住む人からすると、山梨県がどこにあるのか分からないという人も結構いるのではないかと思いますが、市名を聞いただけでは、県庁がどこにあるのか分からないでしょうね。山梨の人は、どう思っているのでしょうか。そこで、問題。

山梨県の市で、最も中心的な役割を果たしている市はどこか。甲斐市甲州市中央市南アルプス市、そして山梨市。外部の人から見ると、山梨県山梨市が中心か、いやいや名前からし中央市ではないか、いや山梨は甲斐の国だから甲斐市か、いや昔から甲州と呼ばれていたので甲州市か、いや一番でかいのは南アルプス市では、と思う人も多いのではないか。答は、いずれでもなく、県庁所在地の甲府市。山梨にある市は、名前だけはどこも横綱級である。

▶ネットを見ていたら、横浜市緑区に住んでいる人が、北隣の相模原市緑区の名前が紛らわしいのでやめてほしいと言っていた。近いと紛らわしいと感じるのかもしれない。ちなみに、千葉市にも緑区があり、私は若葉区に住んでいるが、緑も若葉も同じようなニュアンスで、しかも隣接しているので、私にはこちらの方が分かりにくく感じる。

▶と思っていたら、鉄道の駅にからんでこういう例もある。埼玉県には、ふじみ野市富士見市がある。ところが東武東上線富士見市の駅はふじみ野駅であるからややこしい。もともとは富士見市があって、1993年に東武東上線の駅が開業するに際し、駅名の公募で「ふじみ野駅」と決まった経緯があるのだそうだが、2005年に富士見市に隣接する福岡市(埼玉県です)と大井町(埼玉県です)が合併するとき、富士見市富士見市民は、ふじみ野市という名称は紛らわしいので避けて欲しいと要請したが、聞き入れられなかったと云うことのようだ。ということで、隣の市の名前を冠した駅が富士見市にある。

▶そう言えば、先日のNHKの「日本のお名前」という番組を見ていたら、文京区大塚の北側に豊島区南大塚という地名があって混乱があると取り上げられていた。まあ、混乱といっても、名前の由来を知ること自体がある種の娯楽と捉えられているのだから、大したことはない。そもそも名前の決定にあたっては、それぞれのやむにやまれぬ事情があるので、赤の他人がとやかく言うのは止めてくれというのは十分理解するが・・・・その名前、本当になんとかなりません?

 

 

 

 

 

四国遍路日記(3ー6)

▶今回の遍路も、今日の37番岩本寺を打って終わりである。前後の移動日を除けば正味6日間の日程で、南国市内の29番国分寺から9ヶ寺を回ったことになる。今回は、高知市内を中心に時間をとって色々なところを巡ったので、総じて時間にゆとりがあり、結果的に思い出多き遍路の旅だったような気がする。

▶昨日は時間が余ったので、電車で宿のある安和駅から隣の土佐久礼駅までゆき、帰りは7㎞の道を歩いて戻って来た。従って今朝は、安和駅から7時22分の下り電車で再び土佐久礼駅まで行き、そこから遍路を再開した。(なんと言っても律儀に歩くのを信条としているので・・・)写真は、安和駅のホームから見た朝の景色。
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土佐久礼駅を7時半に降りて、途中のローソンで簡単な昼食を購入してから本格的に歩き出す。歩くこと15分で「そえみみず遍路道」の登り口に到着した。名前の由来は、道がミミズのようにのたくっているという意のようだが、その名の通りいきなりの急登が始まった。

▶途中、ミミズではなくヘビがのたくっているのを見つけて肝を冷やしたが、マムシではなくヤマカガシだったのがまだマシというべきか。急な登りの足場は極めて悪く、それにヘビまで気にしながら登るのは予想外に骨が折れる。休みたいが腰を下ろす適当な場所がない。疲れが足に来ているのが分かる。

▶その時、突然引き上げようとした左足の爪先が岩に引っ掛かった。体勢を立て直す間もなく、そのまま前に倒れ込む。両手にストックと遍路杖を持っていたので、手をつくと同時くらいに、そのまま口元を岩にぶつけてしまった。下の写真は、倒れた場所。写真では分からないが、急勾配なのだ。
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▶「しまった、やってしまった」という思いが頭に閃く。しばらくそのまま口元を押さえて痛みをやり過ごしながら、次に来る出血に備え、さあどうするか・・・。ところがしばらく経っても出血はない。痛みも次第に遠退いて来た。スマホを取り出して、自分の顔を写して確認すると、幸い切り傷はなく、単なる打ち身のようだ。全く不幸中の幸いである。

▶口元が少し腫れているが、歩行に支障はない。そこで再び登り出したが、その後はとにかく安全第一でゆっくり登って行った。結局2時間近く費やして最高地点を越え、平らなところを見つけてリュックを下ろした。一人で歩く山道は、こういう事故が怖い。

▶そういうアクシデントはあったが、その後は順調に下りの道を歩いて、「そえみみず遍路道」を越えることができた。舗装道路に出て来たときには、正直ホッとした。ところで山道を歩いている途中に、突然スマホに電話がかかって来た。誰かと思ったら日本生命の営業の女性で、年に一度の契約確認の電話だった。山の中でも電話が通じる。全く、冗談のような本当の話だ。

▶その後、平地の遍路道を歩いていたら、下の写真のような珍しい植物を見つけた。初めて見る植物で名も分からないが、私には衣をまとった坊さんに見えてしまう。そう見えませんか。
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▶歩いているうちに口元の腫れも次第に治まってきたので、結果的に騒ぐほどのことはなかったが、休憩所で持参のランチを食べてからの午後の行程は、かなり足にきた。やはり、急登に加えてアクシデントがあったことが影響していたようではある。休み休み、ようやく午後3時に、岩本寺に着いたが、疲れました‼️
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▶こうして色々あったが、何とか無事に今回の遍路も終えることができそうである。宿は寺の宿坊を予約してあるので、目の前にあるのがありがたい。明日は雨が降りそうだが、電車と飛行機利用で帰るだけだから心配はない。感謝を込めて、岩本寺の御本尊に合掌した。
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四国遍路日記(3ー5)

▶36番青龍寺と37番岩本寺との距離が60㎞近く離れているので、今日は終日歩いただけに終わった。予約してある宿の関係で、当初の予定では18㎞程度の軽めの行程のはずだったが、結果的には25㎞以上は歩くことになった。詳しくは後で述べる。

▶昨晩泊まった宿が「民宿みっちゃん」だったことは既に書いたが、今朝は民宿からスカイラインが通る尾根の道に出るまで「みっちゃん」が車で送ってくれた。それもマニュアル車でだ。これで歩きの時間が30分は節約された勘定になる。

▶その後は、朝の太平洋を左側に見ながら、引き続き横浪スカイラインを歩く。天気は一時雨を覚悟していたが、薄曇りで雨の心配はなさそうだ。時おり車が通るが、いたって静かで、あちこちからウグイスのさえずりが聞こえる。木々の間から見下ろせる崖下には、打ち寄せる波が見える。朝の歩行は気分がいい。

▶しばらく歩くと、武市半平太(瑞山)の銅像の標識が見えてきた。先日、武市の旧家と記念館に寄ったので、ここも銅像を見ておこうと立ち寄った。
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半平太は、高台から太平洋を見下ろすように立っていたが、雰囲気は桂浜の龍馬像にそっくりだ。土佐人の気分が分かるようで面白い。

▶2時間ほど歩いてから、横浪スカイラインには別れを告げて、平地の道に入った。道路脇の遍路休憩所で一休みしてから再び歩き出す。ここで、逆方向から歩いてくる遍路の人に遭遇。逆打ちで回っているというが、順打ちと比べると遍路標識が整備されていないので大変だと言っていた。なぜ逆打ちをしているのかと尋ねたところ、本人にも明確な理由が無いという。不思議な人だ。

▶11時に須崎市に入ったが、このままでは2時間ほどで宿に着いてしまいそうだ。如何にも早いが、これから立ち寄るような所は無い。困ってしまったが、それなら適当にラーメン屋でも探して昼食をとりながら考えることにして、たまたま見つけた店に入った。

▶改めてラーメン屋で地図を見ながら考えると、一つのアイデアが浮かんだ。実は明日の行程が長くキツイので心配だったのだが、それなら今日中に行けるところまで足を延ばせばいいではないかと。しかし宿が決まっているので、これが実現できるかどうかは公共交通機関(この場合は土讃線)の時刻次第だ。

▶結局、今夜泊まる宿の近くの安和駅から・・全く偶然に見つけた(単線で、だいたい2時間に一本くらいしか各駅停車が通らないのだから)・・13時19分の下り各駅停車に乗って次の駅まで行き、そこから56号線を歩いて戻ることに決めた。

▶須崎のラーメン屋を12時過ぎに出て、5㎞近くを急いで歩いて何とか安和駅に到着し、予定の列車に乗り込むことができた。
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▶その後は、隣の土佐久礼駅で降りて56号線を7㎞近く歩いて戻った。56号線は途中のトンネルを歩くのが怖かったが、幹線道路にも関わらず、車の往来は極めて少なく、見ての通りトンネルはガラガラだ。
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▶結局、安和駅に戻って近くの宿に入ったのは、午後3時15分だった。時間はつぶせたし、明日の距離は稼げたし、ヤレヤレだが、なんかアホらしくもあるな・・・。