マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

四国遍路日記(4ー8)

▶昨晩泊まった山代屋旅館は、40番観自在寺の門前に大正時代から宿を構える老舗旅館で、往時はさぞかし盛況であったことを彷彿とさせてくれる宿であった。泊まった部屋は天井の高い床間付きの10畳部屋であったが、昔は隣室2室と合わせ30畳敷の大広間として使われていたと思われる。

▶どこもそうだが、この宿も抜本的な修繕できるだけの経営余力は全く望めない状況にあるので、設備が劣化するのを止める術がない。残念ながら経営者の加齢と共に今後消えて行く運命にあるのだろう。地方のこういった観光遺産が廃れて行くのを見るのは、本当に辛いものだ。

▶伊予路2日目の今日は、宇和島方面に向けてこの宿から7時過ぎに出発。56号線を正味2時間歩いて柏という集落に到着した。約10㎞の道のりを休まず一気に歩いたが、身体の方は特に問題はなく、体力がついたことを実感する。
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▶本日のメインイベントとは、ここから56号線を離れて柏坂遍路古道を歩くことだ。昨日は松尾峠を越えて歩いたが、柏坂峠の最高地点は470mあるから、こちらの方が負荷は大きい。遍路古道入り口近くのコンビニでたまたま一緒になった年長の遍路さんの後をついて行ったが、この方のパワーは私より格上だった。

▶最高地点近くの休憩所についたのは11時だった。少し早いが、昼食休憩にした。昼食といっても、コンビニで買ったパンと朝食の時に出されたバナナ1本だけで、遍路の人はだいたいこんなものだ。ここから眺めた景色は一級だった。
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▶その後はこの遍路道を下り、宿のある津島町に午後3時到着、宿に入って一番風呂の恩恵に浴した。それにしても、今日の天気は五月晴れで、歩きながら目にする山々の新緑は、月並みな言い方だが、目に染みるように鮮やかだった。それは遍路歩きできるという贅沢をしみじみと感じる瞬間だった。41番龍光寺は、まだまだはるか彼方だ。

 

四国遍路日記(4ー7)

▶気の早い梅雨前線が南下したため、天気は回復し、午後からは陽射しも見えるなか、高知県愛媛県の県境にある松尾峠を超えて、伊予の国(愛媛)に入った。時刻は午前9時20分。峠からは通ってきた宿毛湾の景色が良く見える。

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▶この峠には昭和の初めまでは茶屋があったそうで、ようやくたどり着いた旅人は、ここで一服して茶を飲み団子を食べたことだろう。私もここで荷物を下ろして一息入れた。
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▶今日登ってきたのは土佐側からだが、その登り口には江戸時代には番所があり、ここを通る旅人や遍路の通行を取り締まったそうだ。こんな道をと思うような細い山道を、1日200人、最高300人が通過したと古記録に残っている。土佐と伊予を繋ぐメイン道路だったので、番所も必要だったのだろう。

▶その番所は、代々長田氏がお役を務めていたが、番所の跡地に建っている民家には、現在も子孫の長田さんが住んでいると案内板に書いてあった。念のため表札を確認したが、本当だった。令和の長田さんは何をしておられるのだろうか。

▶ところで、松尾峠には立派な石の標注が2本立っている。伊予側が先に立て「これより西、伊予の国宇和島藩の支配地」と書いた。その後土佐藩が「これより東、土佐の国」と書いて立てた。競い合う当時の両藩の役人の顔が思い浮かぶようで、何だかおかしい。

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▶ゆっくり峠を下って来たら昼近かったので、コンビニで冷やし中華を買った。食べようと思ってベンチを探したが、座れるようなところが一切ない。仕方なくしばらく歩いてから、道端の適当な石に腰を下ろして食べたが、まあこういうのもありですかね。

▶その後、56号線を歩いて午後2時半過ぎに40番観自在寺に到着。ここで以前に会った外人の青年に再会した。何だか久しぶりの感じで、お互いに挨拶を交わして別れたが、こういうのもありだ。

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▶ところで観自在寺で納経が終わったので帰ろうとすると、向こうからテレビカメラを抱えたクルーがやって来た。南海テレビが遍路の取材をしているのだそうだ。アナウンサーとおぼしき人が、何で歩き遍路をしているのかと聞くので・・ちょっとカッコつけて・・妻が亡くなったので供養のために回っているのですと答えると、食いついてきた。結構長く撮影されたので、今夜あたりの南海テレビのニュースに私が登場するかもしれない(笑)。まあ東京近辺では放送はないでしょうけど。

四国遍路日記(4ー6)


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▶写真は、5月16日午前11時過ぎの39番延光寺である。思っていたより到着が早かったので、この寺の大師堂の裏縁で1時間以上の休憩をとった。訪れる人も疎らで、境内裏の山から聞こえてくる鳥の声に耳を傾けていると、眠くなってくるほど長閑だ。雨が上がって薄曇りとなっているのも助かっている。

足摺岬から延々と歩いて、やっとこの寺に到着したのだが、まる2日半かかった。足摺岬周辺は寺がまばらなので、こういう具合になる。昨晩泊まった大月の宿が、朝食抜きというやや変則的なスタイルだったので、今朝はその分を早めて午前6時過ぎに出発した。遍路に出ると、朝早いのは一向にかまわない。

▶ただ、出だしは小雨だったので、レインウェアの上着だけを着て歩いたが、宿毛(すくも)の海が左手に見えてきた頃には、雨もあがってきた。宿毛市は、豊後水道東側の宿毛湾に面していて、高知県の西端にある街だ。何かあるかと言うと、特に無いので・・宿毛の皆さんゴメンナサイ・・遍路にでも来ない限り、おそらく知ることはなかっただろう。その宿毛市内に今晩は宿をとってある。

▶話しは前後するが、昨晩泊まった大月の宿は傑作だった。先にやや変則的な宿と言ったのは、遍路宿で朝食を出さないこともあるが、この宿が居酒屋の2階にあるからだ。もともとは、居酒屋が素泊まりの宿を併設するスタイルだったそうだが、最近は遍路宿主体で、居酒屋の方は殆んどやってないらしい。宿泊者は階下の居酒屋で夕食をとるのだが、居酒屋で飲んでからすぐ上の部屋でバタンキューと寝られるというのは、考え方次第で酒呑みのパラダイスに変貌する。

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▶昨晩は、亭主と私を含めた客が2人だけだったので、3人で話しが盛り上がった。お互いに身の上話しをしたら、3人とも女房を亡くしていることが判明した。マスターは63歳だが、12年前に奥さんに先立たれ、3歳の子供が残されたのだという。その後の困難は察するに余りあるが、それと比べれば、我が身の方が恵まれていると、私ともう一人の客は深く思った次第。

▶そのもう一人の客は66歳で、小樽出身で定年まで東京で働いていたが、奥さんが亡くなったので、どういう訳か現在は高松市内に引っ越して一人暮らしをしながら遍路をしている。いろんな人がいるものだ。

▶マスターの話に戻ると、彼は千葉県出身で、どういう訳か、夫婦二人で埼玉からここに移り住んで遍路居酒屋の経営を始めた。奥さん亡きあと、現在は近くの別の所で寝起きしているそうで、お客さんに夕食を出したらそこに帰ってしまう。従って宿に残るは客だけという話なのだ。

▶だから朝食はなく、朝は勝手に出発して欲しいと言われて、その合理的仕組みには全く脱帽した。当然その分だけ料金もお安く、夕食つきで一泊4500円とは涙が出る価格だ。今朝は、もう一人のお客さんが先に出発したので、私は誰もいない宿を点検したあと一人出発した・・・とても変則的でしょ。

四国遍路日記(4ー5)

▶日曜日の今日は、竜串の海岸から月山神社を経由して、大月の宿まで約29㎞を歩いた。昔から足摺岬の38番金剛福寺から39番延光寺に向かうには、次の2通りの方法が不文律の如く決まっている。①一旦同じ道を戻ってから内陸部の道を通るケースと、②足摺半島を時計回りに回ってそのまま海岸線を進むケースだ。

▶両方とも不思議と距離はほぼ同じだが、海岸線を進む方が多少は楽だと言われている。という訳で私は海岸線コースを選んだのだが、楽かどうかは別にして、こちらの方が眺めは圧倒的によさそうだ。

▶曇り空の下、宿を出てから海岸線沿いの321号線をひたすら歩き、長いトンネルを3つ抜けた先の叶崎(かなえざき)に到着。ここには叶崎灯台がある。この灯台明治44年から現在まで、現役の灯台として足摺岬から宿毛辺りの漁船の海上からの標となっている、と案内板に書いてあった。小さいが存在感ある灯台だ。

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▶叶崎で小休止したあと再び321号線を歩いていると、すぐに遍路休憩所があった。先程休んだばかりなのでスルーしようと思っていたら、私と同年くらいの地元の人から話しかけられたので、仕方なく再度休憩することにする。このおじさんは、毎日する事がないそうで、近くを散歩しながら、網を張っているようだ。私はその網にかかった魚となった。

▶10分くらいと思っていたら、結局20分くらい話し込んでしまい、予定外の道草となってしまった。何とか話しを切り上げて今日立ち寄る予定の月山神社へ向かったが、その頃から雨がポツポツと振りだした。月山神社は、海岸ルートを選択した場合、必ず立ち寄ることになっている?らしいが、実際行ってみると、がっかりだった。なんせ構えがシャビーで、空海が何度も通ったという伝説も本当かなと思ってしまう。下の写真がそれ。f:id:Mitreya:20220515173531j:image

▶正午近くだったので ここで昼食休憩にしたが、その頃から雨が本格的になってきた。雨支度をして歩き出したが、なんかついていないなあと思ってしまう。その後も雨は降り続き、いつものように午後は疲労も蓄積してきて、ただ黙々と歩いたが、本当に今回は雨に祟られている。宿に入ったのは4時近かった。

 

 

 

四国遍路日記(4ー4)

足摺岬の38番金剛福寺から39番延光寺までは60㎞以上あるので、この間に少なくとも2泊はしなければならない。今日は、足摺半島の西側の海岸線をなぞるように歩いて、土佐清水市の竜串(たつくし)に泊まった。

▶今回の遍路旅は、火曜日の出だしから雨天続きだったが、5日目にしてとうとう天気が快復した。足摺岬を出発した時は曇り空だったが、時が経つにつれて、太陽が雲間から顔を出すようになった。左側に雄大な海を見ながら歩くが、この海の先には九州がある(もちろん陸地の影は見えないのだが)はずだと思うと、はるばると来たものだと思う。

足摺岬から1時間ほど歩くと中浜という漁村が左下側に見えてくる。中浜万次郎と聞いて、すぐその人となりを思い浮かべられる人は相当のものだ。江戸末期の1827年にこの漁村で生まれた万次郎は、14歳の時に乗り込んだ漁船が遭難・漂流し、他の4人と命からがらたどり着いたのが、太平洋の孤島の鳥島だ。

▶ここで143日間を生き抜いて、たまたま通りかかったアメリカの捕鯨船に救助された。その後はアメリカに渡って勉学を重ね、25歳の時に沖縄経由で故郷の足摺の中浜の地に戻って母親に再会したという。その後彼は持ち前の英語力とアメリカ仕込みの科学技術の知見を生かして出世する。勝海舟坂本龍馬とも交友した。最後は旧開成学校(現東京大学)の教授にもなった。

▶ということで、中浜万次郎、改めジョン万次郎の復元された生家を訪問した。

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生家前の路地に、近所のおじいさんが陣取っていたので、挨拶した。もちろん、万次郎とは関係なさそう。6畳2間に台所付きといった所に5人の兄弟と暮らしていたとか。ちなみに、私自身も同じような長屋で生まれ育ったので、その辺りの事情は十分想像がつきます。

▶今回歩いた足摺はジョン万次郎だらけで、足摺半島の西岸を走る県道27号線は、ジョンマン・ロードと名付けられている。歩いていると「ジョン万次郎をNHK大河ドラマ化に」の看板が目につく。地元の力の入れようは並みでない。まあ、脚本次第で意外と面白いかもしれませんが・・・。下の写真は、竜串の手前にあるジョン万次郎資料館の広場の像。晴れていて気持ちがいい。


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▶ところで、今日の遍路行の白眉は、宿泊地の竜串海岸だ。私はこのような地形が日本にあったとは初めて知ったが、3時過ぎに宿に到着後、そこのマスターに教えられて、ホテルの前に広がる奇景を見に行った。それが下の写真。

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▶3000万年前の砂岩の地層が波に侵食された結果できあがったとされる地形だが、ブラタモリも腰を抜かす奇景だ。理屈抜きで面白く、写真を撮るのに気を取られて、危うく転倒しそうになる。後で聞いたら年に一度は救急車騒ぎがあるそうだ。たまたま天気は晴れわたり、海の状況は最高で、なんだか貴重なご褒美をもらった気分だった。これだから遍路はやめられない。









 

 

 

 

 

四国遍路日記(4ー3)

▶昨年10月に徳島市内から四国遍路を始めて、前後のアクセスの日程を除けば実質23日目に、とうとう四国の左下の足摺岬まで到達した。これまで4度四国を訪れ、既に歩いた距離は約530㎞に及ぶが、それでもまだ全体の半分には届いていない(約47%)ということが、四国遍路の奥深さを示してしていると言えようか。

▶今朝5時前に目を覚ますと、民宿前の国道を走るクルマの路面の水を切り裂く音が聞こえない。よもやと思いカーテンを開けると、雨が上がって水平線の一部が赤らんでいる。久しぶりに見る日の出の風景だ。
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予報によれば、今日も変わらず雨のようだが、何とか足摺岬までは降らないで欲しいと祈るような気持ちで、6時40分に土佐清水市久百々の宿を出た。足摺岬まではおおよそ20㎞の行程だ。

▶だが、歩き出してものの10分も経たない内に雨が振りだしたのだから、今回は全く天気に見離されている。1時間弱歩くと大岐海岸という所にさしかかった。昨日と同じようにここも海浜公園となっていて、海岸にも関わらず鬱蒼と緑が繁る中をトレッキング・ロードが整備されている。雨がそぼふる中、ここを一人歩いたが、鳥の鳴く声と波の音が、木々の合間から重なって聞こえてくる。何とも言えない満ち足りた時間だった。
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▶そこから3㎞ほど歩いて以布利漁港に着く。漁港に併設された休憩所でひと休み。そこから県道に出るまでの遍路道が凄まじく荒れていた。
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どこが道なのか分からないような状態で、雨が小降りでなければ引き返すところだった。幸い県道に上がるまでの距離が短かったのでそのまま進んだが、昔の人は海際のこんな道を歩いていたんですね。

▶県道27号線に出て午前10時頃に窪津というところで休んでいると、30歳くらいの外国青年が追いついてきた。彼は昨日も見かけたが、私が挨拶すると人懐こそうな顔で話しかけてくる。外国人と話すのは2回目だ。島根県に住んでいるアメリカ人の英語教師で、奥さんは日本人。私と同じように区切り打ちの遍路をしている。雨が降る中、一つ屋根の下の遍路休憩所で、ひとしきり話がはずんだ。(一応、英語で話しましたけど、彼は日本語も少し理解する・・遍路も国際化している。)

▶さて、待望の足摺岬はあと1時間の距離となった。疲れはもちろんあるが、残り2㎞の標識を見つけた時は、さすがに心が踊った。午後1時にとうとう足摺岬に到着。すぐに天狗の鼻という見晴らし台に向かうと、なぜか雨も小降りになってきた。太平洋の荒波を背景に、断崖の上に足摺岬灯台を見た時は、思わず心の中で快哉を叫んだ。この気持ちは実際に苦労して歩いてみないと、多分わからないでしょうね・・・・

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▶38番札所の金剛福寺は、足摺岬展望台の駐車場からすぐ近くにあった。37番岩本寺から80㎞も離れているので、ここまでたどり着くまでに2泊を必要とした。実際来て見ると良い寺である。折から雨脚が強まったので、灯明を供え線香を上げるのが大変だった。久しぶりの般若心経を唱え、納経所で御朱印をいただいたことで、疲れが消えていった。


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四国遍路日記(4ー2)

▶四国遍路の中で、室戸岬の24番最御崎寺足摺岬の38番金剛福寺を目指す行程は、ある意味難所と言える。道は平坦だが、途中の寺のない長い海沿いの道を、延々と歩く必要があるからだ。昨日と今日の行程がまさにそれで、37番岩本寺から足摺岬までは80㎞もある。

▶昨年11月に室戸岬を目指した時は、天気は良かったが、日陰の全く無い国道55号線を太陽に照りつけられながら歩くので、思った以上に体力を消耗した。今回足摺岬を目指す行程は、雨が降りしきる国道56号線四万十市からの321号線を、南西方向にひたすら歩く旅で、晴れていれば足摺岬が前方に見えるはずだが、雨のために視界は極めて悪かった。

▶前置きが長くなったが、今日は黒潮町から四万十市内を越えて土佐清水市久百々という集落まで歩く。想定される距離は31㎞だ。午前5時前に起きて、足のテーピングや雨仕舞いの準備を行う。雨なので、リュックを簡単に開けることができない為、必要な小物をレインウェアのポケットに入れる。しかし本格的な雨に対応できるだろうかと不安が募る。

▶宿を出たのは6時40分と早かった。雨はそれ程でもない。1時間歩いて「道の駅ビオスおおがた」の手前を左に折れて入野松原に入った。ここは大規模な海浜公園になっていて、海沿いに連なる松林を左に見ながら、広々とした野原の中を幅が12mくらいある車線規制のない舗装道路がくねっている。どこか異国情緒を感じさせる景色だ。クルマはたまにしか通らず、遍路歩きには快適だ。時刻は9時くらいだから余裕がある。

▶そこからしばらくして四万十市に入ったが、市街地はかなり北なので、目に入るのは田園風景ばかり。朝から小雨が降り続いており、道路の僅かな窪みにも水がたまっていて、すれ違うトラックが水を跳ねるのには閉口する。

▶中間目標としていた四万十大橋のたもとにある休憩所には午前11時に到着した。目の前に四万十川がとうとうと流れているが、四国の川は、吉野川仁淀川に続いて3本目だ。しかし、四国の川は、どこも同じように風情がありますね。


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▶その休憩所で休んでいると、一人の遍路さんがやってきた。挨拶をすると、昨晩同じ宿に泊まった人であることが判明。話をしているうちにこの人の出発時刻を聞いて驚いた。午前9時前まで宿にいたというから、私との違いに思わず「ウソでしょ」と言ってしまった。驚くなかれ、この人は歩いているのではなく走っており、2時間でここまで来てしまった計算だ。昨日は50㎞走ったというから、私には想像だにできない。

▶休憩所の出発は私の方が早かったが、四万十大橋を渡っている途中で、その人に追い抜かれ、彼はみるみるうちに雨の中に消えていった。橋を渡って左折すると、後は321号線を足摺岬方面へひたすら歩くことになる。まだ今日の宿までは16㎞も残っている。

▶時刻は正午を過ぎたが、この頃から雨脚が強くなった。道は次第に山道にさしかかり、通り過ぎるクルマは水しぶきを上げるようになった。いつものことだが、昼過ぎになると疲れが表面化してくる。道は峠越えの遍路道とクルマが通る1.6㎞もあるトンネルに分かれるが、迷うことなくトンネルを選択。

▶トンネルを出ると、突然左のシューズに水が入り出した。完全防水のつもりが一体どうしたことだろう。右は大丈夫なのも不可解だ。雨は相変わらず降り続いていて、休む場所が見つからないので、手当てのしようもなくそのまま歩き続ける。午後2時過ぎにやっとこさで一つ前の集落にたどり着いたが、残るは2~3㎞。そこから宿を探しながら降りしきる雨の中を海沿いの321号線を歩くのはさすがに身体にこたえましたね。それでも午後3時半、やっと宿に到着しました。やれやれ。