マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

この2年間は何だったのか?


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▶10年以上前から、日記をつけている。最初に購入したのは、高橋書店の10年連用の当用新日記(2011年-2020年)で、何かの用で妻と東京に出た時、丸善で求めたものである。ちなみに、妻も別のタイプの連用日記を購入した。こうして私は2011年の正月から日記をつけ出したが、当時は仕事が忙しかったこともあるが、規則的に日記をつけることができず、気が付くと1週間分が空白となることも、しばしばあった。その場合、休日に1週間分をまとめてつけたりして、なんとかページを埋め合わせてきた。

▶10年連用日記というのは、1ページに10年分の同一日の記述欄が用意されているもので、毎日ページをめくりながら、前年の記述欄の下に現在の出来事を書き足していく仕組みとなっている。この仕組みの利点は、ページを開けば前年や前々年の同日の出来事が、意図しなくても容易に目に飛び込んでくることで、しかも年数が重なると、各ページが過去の記載で一杯になる。すると、それがなんとなく自分の人生の積み重ねのように思えてくるから、日記への愛着も膨らんでこようというものだ。

▶さて、私は9年経った2019年の年末をもって、この日記の記載を止めた。2019年は令和元年にあたり、この年の6月に私は会社を辞め、9月に妻が亡くなったからだ。その年は、呆然自失ながらも年末まで必死になって空欄を埋めていったが、日記を開くたびに、いやでも過去の出来事が目に飛び込んでくるので(※しかもそれは幸せな記載が多かったから・・)現実と対比することに耐えられなくなってしまい、どうにも続けることができなくなったのだ。10年日記は、1年分の空白を残して書棚の奥にしまい込んだ。

▶それでも、私は日記を書くことだけは続けようとした。いろいろ考えた挙げ句、新しい日記を購入することを決断する。2019年までの過去と訣別して、2020年からは新しい自分の人生を新しい日記の上に書き連ねていこうと思ったからである・・・と書くといかにもかっこいいが、実際のところ、そうでも考えないとなかなか前向きになって一人で生活していくのは難しい状況にあったからだ。しかし、その後の現実はそう簡単ではなかった。

▶2019年の年末に、再び丸善で日記を買った。今度は5年連用のビジネスダイアリーにした。これは1ページが5年分で、しかも1ページがさらに2日に分割されているため、書く分量も前の日記の半分になっている。5年にしたのは、年齢を考えると10年ではいかにも長すぎるし、10年先の展望(実際そうするかは別にして)も描きにくい。それにこの年齢になると、毎日を充実して生きていくことの方が大切である。(※それなら連用日記をやめればいいが、手軽に前年や前々年の出来事が参照できるメリットは、やっぱり捨てがたいしね・・・)

▶そして2020年(令和2年)が始まった。その後2年が経過し、今日は2022年1月31日。改めて2年分の日記を読み返した。読んでみて思ったのは、圧倒的に新型コロナ感染症の記述が多いということである。令和2年1月23日、「新型インフルエンザが中国で流行する中、中国政府は発生場所と言われる武漢市を完全封鎖するという挙に出た。凄い。」という記述がある。次いで、1月29日には、武漢駐在の日本人206人が政府のチャーター機で帰国した。そして、ダイヤモンドプリンセス号が横浜港に到着したのは2月3日である。

▶その後は日本もパンデミックの波に洗われたのは、ご存じの通り。突然の学校の臨時休校やアベノマスクの配布、志村けんさんや岡江久美子さんの訃報が相次いだ。テレビをつければ、朝から晩までコロナ報道一色である。私自身のことを言えば、この年の4月くらいから体調が悪くなり、突然の寒気に襲われたり、歯痛がおこったり、右足の関節に炎症をおこしたり、最後は頭にニキビ状の吹き出物が出たりした。いずれの症状も大したことはないのだが、結果的に内科・歯科・整形外科・皮膚科の医院にお世話になったのだから、笑いごとではない。

▶今から考えると、個人的な事情による精神的打撃に、コロナ禍による社会的な閉塞感が加わって、身体の免疫機構が一時的に不全になったのが原因だったのではないかと思われる。それでも、その年の9月に妻の一周忌を済ませた頃から体調が戻り始め、幸いなことに、秋にはGo to Travelキャンペーンを利用した旅行(尾瀬トレッキング、奈良散策)に行けるまでに回復した。

▶体調は回復したものの、年末から日本全体がコロナ流行の第3波に襲われ、令和3年の年明けは緊急事態宣言とともに始まり、社会は再び暗転した。そんな中、私はこのブログを書き始める。コロナの為、外出がままならなくなった時間を、読書とブログ更新にあてることにしたが、これが意外にも生活のリズムを作り出す。さらに、コロナ禍ではあったが、週に一度は近所の小料理屋に顔を出したので、そこの常連さんの仲間内に入れていただいたことも大きく、生活全体としては上向いてきたような気がする。

▶令和3年の夏は、ワクチン接種と、東京オリンピックパラリンピックの開催という明るい話題もあったが、この時期は不幸にもデルタ株の激烈な第5波と重なったため、日本社会全体がパニックに陥り、方向感を見失ってしまったように見えた。前に進むべきなのか、留まるべきなのか誰も分からない状況の中、しかし不思議なことにコロナ感染者数が減少してゆき、秋には第5波の流行がきれいさっぱりと治まってしまったのだから、感染症とは一体何なのかよく分からない。

▶そして再び年が明けて令和4年となった。現在は世界中がオミクロン株のパンデミックの渦中にある。日本ではコロナ感染第6波である。日本全体で5日連続で感染者数が毎日7万人を超えているというのだから、第5波を超える過去最大の波といっていいだろう。しかしデルタ株との比較では、オミクロン株は重症化しにくいということが分かっており、症状や流行の仕方が外形的にはインフルエンザに似てきている。私は勝手にこの動きをパンデミックの終わりの始まりではないかと思っているが、不用意にこういったことを言うと、周りから白眼視されるから、気をつけないといけない。

▶日記を見ながら、この2年間が何だったのかと思い起こしてみた。いろいろなことがあったが、こうしてみると、私自身として自分なりに「よくやってきた2年間」だったのではないか、と勝手に思っている。今のところコロナ感染からまぬかれているというのが第一だが、そんな中で旅に出たり、四国遍路も始めることが出来たし、新しい人間関係も構築されつつある。なにより自分の生活のリズムが確立されてきて、日中に無用に眠気に襲われるようなこともなくなった。

▶日記を見れば相変わらず過去を思い出すことができる。だから私は日記を書く。それでも過去は確実に遠ざかっていくようだ。村上春樹風に言えば、ちょうど僕がかつての僕自身が立っていたところから確実に遠ざかっていくように・・・。