マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

今日は何の日・・・八甲田山の悲劇


▶昨夜は夕食前に風呂に入ってしっかり汗をかいたので、朝までよく眠れた。先週金曜日に3回目のワクチン接種をしたが、この副反応のため、ここ2日間は肩の痛みと全身の倦怠感に悩まされたが、それも解消し、今朝目覚めた時は気分がよかった。おもむろにベッドの中からリモコンでラジオをつけると、NHK「マイあさ!」が既に始まっている。現在は二十四節気でいう「大寒」の真っ最中で、とにかく寒いので目が覚めてもベッドからなかなか抜け出すことができない。

▶このニュース番組では、毎日「今日は何の日」のコーナーがある。今日も5時28分にこのコーナーが始まった。アナウンサーが、1902年1月25日の今日、旭川でマイナス41℃の日本最低気温が記録されたと告げている。それは真に想像を絶する低温で、それから120年たった現在までこの記録は破られていない。ちなみに、第2位の低温記録は、マイナス38.2℃で、これはその翌日の26日に帯広で記録されているというから、とにかく120年前の今日、北海道は猛烈な寒気団に襲われていたということだろう。なお、今朝の旭川の気温はマイナス9℃であるから、マイナス41℃との違いのほどが分かろうというもの。

▶「今日は何の日」のコーナーは、続いて昭和54年の今日、上越国境の大清水トンネル(新幹線用の山岳トンネル)が初めて貫通したとの話題に移ったが、私はベッドの中で心にひっかかるものを感じていた。それは、同じ日の前後に起こったはずの悲劇的事件のことを思い出したからだ。その事件とは、明治35年すなわち1902年のまさしく今日に起こった世界最大級の山岳遭難事故のことであり、一般には八甲田山雪中行軍遭難事件として世に知られている。

明治35年という年は、その2年後に日露戦争が勃発していることからも分かるように、日本全体が大国ロシアとの戦争に向けて突き進んでいった年でもあった。青森市内にあった陸軍第8師団歩兵第5連隊は、来るべきロシアとの戦争の際、青森と八戸を結ぶ鉄道がロシア軍によって遮断されることを想定して、青森と八戸を連絡する方策の一環として、厳寒の八甲田山麓を、歩兵が輜重用のソリを引いて雪中行軍する一泊二日の冬季軍事訓練を計画した。

▶訓練の主体は、第5連隊の歩兵中隊で、ここに大隊本部から数名の将校も加わり、総勢210名で青森市内から田茂木野、田代、増沢を経て三本木(現在の十和田市)までの約20kmの道のり(※この道は現在県道40号線が走っている)を、2日で踏破する予定であった。部隊は1月23日に出発したが、その日の午後になって八甲田山麓で猛吹雪に遭遇し、一日目の宿泊予定地の田代に指呼の距離まで迫ったものの到達することができずに、210名が雪中露営のやむなきに至った。

▶部隊は、翌24日も近くにあるはずの田代集落を目指したが、天候は回復しないまま完全に道を失い、雪中を彷徨した挙句に二日目も雪中露営する。ここに至って凍死者が続出し、1月25日には、ついに部隊そのものが崩壊して、210名中199名が凍死するという山岳遭難事故としては稀に見る惨劇が生ずることとなった。

▶私は、この事件のことを大学時代に読んだ新田次郎八甲田山死の彷徨」によって知っている。そして昭和52年に、この小説を原作とした映画「八甲田山」が公開されたので、一時的に八甲田山ブームが起こったことも覚えている。さて、事件が起こった当時、帝国陸軍は自ら引き起こした大失態を隠蔽するべく国民感情の鎮静化にやっきとなったが、国民の憤激は、そう簡単には収まらなかったようである。

▶そもそも、戦争に行って死ぬなら諦めもつくが、無謀な訓練によって何で199名もの兵隊が亡くならないといけないのか、というのはまったくもってその通りで、遺族の憤りのほども察するに余りある。但し、その後は亡くなった199名の遺族に対しては、全国から多くの同情や支援が集まったほか、国からは多額の弔慰金が出ることになって、遺族も次第に納得するようになる。また、僅かに生き残った11名は、殆どが凍傷によって障害者となったものの、国民からは大いに賞賛された(※嫁さんの手配を含めて)というから、これもまた当時の世相を反映していると云うべきか。

▶ところで、八甲田山の雪中行軍事件にはもう一つの側面がある。実は、この同じ時期に、弘前市にあった同じ第8師団に属する歩兵第31連隊でも雪中行軍訓練を実施していたのだ。こちらの行軍は福島泰蔵大尉以下38人(※随行新聞記者一人を含む)という小隊規模ではあったが、1月20日弘前市内を出発し、八甲田山を時計周りに回って弘前まで戻るという総距離240㎞に及ぶ壮大な雪中行軍計画で、遭難した第5連隊とは逆のルートであったが、予定通りにいけば雪の八甲田山中ですれ違うという、まことに際どいものであった。その福島大尉は、猛吹雪の中、小隊を率いて一人の脱落者を出すこともなく、十和田湖から八甲田山を踏破して雪中行軍を成功させ、弘前まで凱旋したというから、この差はいったいどういうことなのかと誰でも思うだろう。

▶映画では、弘前31連隊福島大尉(映画名:徳島大尉)を高倉健が演じ、遭難した青森第5連隊の神成大尉(映画名:神田大尉)を北大路欣也が演じたが、行軍成功者の高倉健がかっこよく描かれていたのは、まあ仕方のないところでしょう。但し、実際の弘前31連隊の快挙は、第5連隊の大量遭難騒ぎに隠れてしまい、その後長きに亘って表立った賞賛を受けることはなく、立役者だった福島大尉も、2年後に始まった日露戦争で戦死の悲劇に見舞われてしまったのだから、歴史の事実としてはまったくやるせない話ではある。

▶青森第5連隊の遭難の原因は、どこにあったか。中隊に同行した大隊将校の山口鋠少佐が神成大尉の指揮権に介入したからだとの説が流布されているが、小説的(※映画も同じく)には面白いが、どうも実際は違うような気がする。中隊に大隊将校が同行することもよくある話で、その際は格上の大隊将校が指揮を執るのも珍しいことではなかったとも言われているからだ。その山口少佐は生きて救助されたが、翌日に自らの責任をとって病院でピストル自殺したと新田次郎は書いている。だが、彼の指は凍傷で膨れ上がっており、とても引き金を引けるような状況ではなかったとの記録が残っているので、これも違うのではないか。実際の死因は、心臓麻痺やクロロホルム麻酔の失敗との説もあり、陸軍上層部による暗殺説まで飛び交ったが、真相は不明である。

八甲田山雪中行軍遭難の真の原因は、やはり当時の異常気象にあったことは間違いない。明治35年1月末は、西高東低の冬型の典型的な気圧配置であったが、極寒のシベリア寒気団が勢力を拡大し、その影響で北海道中央には異常に発達した低気圧が停滞した。その結果、旭川ではマイナス41℃の日本最低気温を記録し、同じ日に八甲田山は猛烈な吹雪に見舞われたのだ。気象観測の精度が低かった当時は、このような天候を事前に予測することはできなかった、というのが残念ながら本当のとこだろう。


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▶私は、2009年8月9日・10日と八甲田山にある酸ヶ湯温泉に妻と泊まった。二日目の10日には、青森市内まで車で下りて三内丸山遺跡を見学し、再び酸ヶ湯温泉に戻るときに県道40号線を通ることにした。目的は途中にある八甲田山遭難の旧跡訪問である。県道をしばらく走ると、銅像茶屋というレストハウスを見つけた。立ち寄ると店の裏側に雪中行軍記念館が併設されていた。レストハウスで食事をする人はそれなりにいるようだが、行軍記念館を訪れる人は周りを見回しても殆どいない。だいたい、八甲田山の映画を見た人でも、わざわざこの記念館を訪れる人などいないだろうと思ったが、案の定、同行した私の妻も興味はなさそうだった。

▶中に入ると、遭難の経緯や救出された生存者のその後の様子などがパネルや写真で展示してあり、結構な量があった。館内に置かれたテレビは、映画「八甲田山」のビデオを流していたが、なんだか館内全体が時間が止まったような空間であった。その記念館からほど近いところに、数少ない生存者である後藤房之助伍長が、雪の中で立ち往生した状態で発見された姿の銅像があった。銅像の場所と実際に発見された場所は少し異なっているとのことだったが、真冬になればきっとここら辺りも深い雪に埋もれるのだろう。私はしばらくその銅像を見上げていたが、妻にせかされたので、ようよう車に戻った。明治は遠くなりにけりか・・・と思いつつ。