マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

角換わり新定跡の出現か?


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▶2月4日の立春の日曜日、将棋ファンとしては見逃すことのできない対局が2局あった。一つは富山県魚津市で開催された第49期棋王戦の5番勝負第1局で、藤井聡棋王(八冠)に伊藤匠七段が挑戦するものである。そして4日の注目のもう一局は、毎週日曜日に放送されるNHK杯将棋トーナメントの準々決勝で、何とこちらも藤井NHK杯対伊藤匠七段という組み合わせである。同日に同じ組み合わせの対局が行われるというのは、偶然の一致とはいえ極めて珍しい。

▶このような椿事が起こりえるのは、NHK杯将棋トーナメントが事前収録された録画放送であるからである。ただし録画であるとは言え、対局の結果は放送までは秘密が保たれるので、テレビ観戦する楽しみが減じることはない。私は当日に棋王戦の第1局が指されていることは知っていたが、棋王戦のライブでの進行は知る術がないので、必然的にNHK杯戦をテレビ観戦することになった。

▶伊藤匠七段は、絶対王者の藤井八冠を倒すとしたらこの人ではないかとも言われる若手実力者の一番手で、昨年の竜王戦7番勝負も藤井対伊藤の戦いとなっている。しかしこの時は、藤井が4連勝で伊藤を退けており、藤井八冠の牙城は微塵も揺らぐことはなかった。伊藤は対藤井の急先鋒であると思われているにもかかわらず、これまで藤井には竜王戦も含めて6連敗と全く勝ち星に恵まれていない。それほどに藤井は強い。

▶4日のNHK杯戦が始まる直前の将棋番組(将棋フォーカス)では、タイミング良く藤井に挑戦する伊藤のことが取り上げられた。この時は伊藤の師匠である宮田利男八段がビデオ出演し「伊藤、無様な負け方をするとこれだぞ」と言いながらゲンコツを握った。幼い時から伊藤を見てきて伊藤の才能を信じて疑わない師匠の宮田にとっては、藤井に対して結果を出すことができない伊藤のことが心配でたまらないといった風情であった。

▶午前10時半に始まったNHK杯戦は、藤井の先手で角換わり戦法の陣形で指し手が進んでいった。現代将棋は、AIを使った序盤研究が驚くほど進化しているので、指し始めて50手くらいまでは両者ともノータイムで指し進めていくことが普通。局面を見ると既に中盤から早くも終盤戦ではないかと思われる内容だが、AIによる評価値では何と50:50の全くの互角。時間はまだ開始から10数分しか経過していないのが信じがたい。

▶両者70手目あたりから考える時間が増えてくるが、これからは事前研究の範囲を超えた力戦となってくる。ただ、角換わり戦法というのは、AIによる研究が最も進んでいる領域であり、AI同士の対戦を行うと、ほぼ先手が必勝となるということが分かっている。なぜ先手が必勝となるかは人間には到底理解できないが、とにかくそういうことのようだ。その角換わり戦法を現代最強の藤井八冠が先手で使ってきたのである。

▶案の定この将棋は、藤井が次第にリードを広げていって、93手という短手数で伊藤を投了に追い込んだ。なす術もなく負けた伊藤の顔が屈辱でひきつっているように見える。かつて小学生の棋戦で同い年の藤井聡汰を破り、その時負けた藤井は人目もはばからずに大泣きしたという逸話をもつ伊藤匠だが、非情にもこれで公式戦では対藤井に7連敗という不名誉な記録を作ることになってしまった。伊藤の心情たるやいかばかりであっただろうか・・・。

NHK杯戦で伊藤の屈辱的な負けが放送されていたまさにその時、彼は富山県魚津市で同じ藤井を相手に棋王戦第1局を戦っていた。先手は藤井で、戦法はNHK杯戦と同じ角換わり戦法で、指し手が進むにつれて次第に藤井が有利となっていく。しかしここから伊藤が入玉戦法をとったことから、さしもの藤井も伊藤を攻めあぐね、129手で持将棋が成立し、両者引き分けとなった。

▶終了後のインタビューで藤井は「伊藤さんの手のひらの上で戦っていた」のでどうしようもなかったと悔しさをにじませ、伊藤は「(入玉による)持将棋を目指す展開」だったことを認めた。タイトル戦で持将棋となることは極めて珍しく、初めから持将棋含みの引き分けを念頭においていたという伊藤に対しては、熱心な将棋ファンからは「消極的だ」「いさぎよさがない」「面白くない」などと論議を呼ぶこととなった。

持将棋というのは、お互いの王が相手の陣地に逃げ込んだりした為、お互いが相手の王を詰ますことができなくなった局面で、両者合意のもとに引き分けに持ち込む制度である。ただし終了時点で、自分が支配する王将を除く飛車や角の大駒を5点、それ以外の駒を1点として計算し、合計で24点以上を保持することが引き分けの条件で、条件を満たさない(自分の駒数が少ない)場合は負けとなるルールである。

▶確かに初めから引き分けを目指す将棋というのは、いかにも消極的に見える。柔道などでは腰を引いて相手の技を食わないようにばかりしていると、指導というペナルティーを取られることもある。しかし、引き分けを狙うというのは野球でいう敬遠と同じで、考えようによっては立派な戦法である。ただ、星稜の松井秀樹が甲子園の高校野球で5打席も連続敬遠されたとき、相手の明徳義塾の監督が勝利至上主義であると批判されたのも事実で、このあたりは議論が分かれるところだろう。

▶しかし本件に関しYouTubeを見ていたら、以下のような指摘もあることが分かった。伊藤は、角換わり定跡が極めて先手有利であることを知っており、自分が後手番を引いた時、これにどう対応するかを日夜考え続けていた。そして藤井に7連敗した後、ついに持将棋に持ち込むことで引き分けを目指すことを考え出した。これはAIが誇る角換わり先手必勝の定跡を崩すことにつながる升田賞(新手の開発賞)にも匹敵する新定跡の出現であると。

▶やはり伊藤匠の才能は本物だった。もしその通りなら、誰が伊藤を非難することができようか・・・。