マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

今日は節分だったかな?



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▶新聞の折り込みチラシを見ると、やたらと恵方巻の宣伝が多い。そうか今日は節分だったのか。それにしてもいつから節分に恵方巻を食べるようになったのだろうか。私が子供の頃は、夕方になると隣近所の家から豆をまく声が聞こえてきて、小さかった私は、母親に「かあちゃん、早くうちも豆をまこうよ」と急いていたことを思い出す。豆をまいてからそれを拾って食べた。その豆は母親が大豆をフライパンで炒って作ったものだったから、とても硬かった。我が家は四軒長屋の一角の二間限りの家で、ろくな玄関もなかったけれど、入り口には焼いたイワシの頭を串にさして飾ったものだ。夕食はけんちん汁だったかな。父も母も貧しく若かった昭和30年代のことである。

▶今年は2月2日が節分で明日が立春。例年より1日早いのは、太陽の運行と暦が毎年少しづつズレるので何年かに一日調節するのだと言うから、うるう年みたいなものだろうか。ところで日本の場合、旧暦(太陰暦)で決めた節句や七夕を太陽暦で表示するから、これらの日にちは実際の季節とは大きくズレる。桃の節句の3月3日には桃は咲かないし、七夕は梅雨の真っ盛りの時期だ。これから本格的な冬が来て寒くなってくるというのに、1月に新春到来とは変だと思う原因は、そこにある。

▶しかし、節分の翌日の立春は、大寒が過ぎてまさにこれから春に向かうというスタート地点で、季節の動きにピッタリと符合しているのはなぜだろうか。それは立春、雨水、啓蟄といった二十四節気が、古代中国で太陽の黄道上の位置を二十四等分して決めているからだそうで、太陽暦を使う我々にとって、多少の誤差はあっても、実際の季節に連動している、ということを調べて分かった。もっとも、二十四節気やそれに関連して決められる特別な暦日(例えば節分や土用、八十八夜、入梅・・・等々)などの「雑節」は、農業をするものにとっては欠かせないものであったから、季節に符合していないと使い物になりませんよね。まあ、符合するように作ったのだから当たり前か。

▶節分の今日、千葉では午前中は雨が降った。このブログを書いている正午の時点では曇っており、外気温は10度を超えている。予報では午後は晴れて、夕方から急激に気温が低下するとのこと。そうこう言っているうちに太陽が顔を出してきたから、最近の天気予報は本当に良く当たる。

▶私は昨日、1日早く近くのスーパーで恵方巻を買ってきて食べた。手軽で美味しかったので、今晩も酒のつまみも兼ねて恵方巻にするつもりだ。その前に、さて昼飯はどうするか・・・。

 

 

 

令和元年の師走に京都から奈良へ・・京都編・・

▶既に書いているが、令和元年は私にとって痛恨の年だった。9月に最愛の妻を亡くした私は、途切れることなく襲ってくる悲嘆の中で、突然にしてからっぽになってしまった自分のこれからの生活を、何をもって埋め、どう立て直していったらいいものかと、必死になって考えていた。考えてはいたのだが、それが本当に形あるものになっていくのかどうか、仮にそうだとしても、それには一体どのくらい時間が必要なのかは見当もつかず、一人途方に暮れていた。

▶12月の初め、それまで勤めていた会社の用事が大阪であった。大阪にいると多少なりとも妻のことが頭から離れるが、用事が済めば帰らなければならない。しかし、どうせ誰も待っている者がいない自宅なのだから、すぐに帰ることもないではないかと思いなおし、日程を延ばして関西のどこかで今年最後の紅葉でも見てから帰ることにした。候補は京都と奈良である。

▶京都はこれまで何度となく行っている。この時期、紅葉にはもう遅いのではないかと思ったが、それでも嵯峨野にでも行ってみようと思い、朝早く大阪のホテルを出て、京都駅でJR嵯峨野線に乗り換えて嵯峨嵐山で降りた。まずは何度目かの天龍寺に行く。朝早くだったにもかかわらず、既に寺には観光客がいて、特に英語で説明を受ける西洋人らしい家族連れが目についたが、これは世界遺産の影響か。境内の紅葉はもう終わりに近いが、嵐山を借景に夢想疎石が作ったといわれる庭園は、相変わらず美しかった。

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▶庭園を出て嵯峨野の竹林を歩く。しかしなんと中国人観光客が多いことだろう。若いカップルが、混雑する道の真ん中で平気で写真を撮っているのを見ながら歩く。途中、落柿舎に立ち寄ったあと目当ての二尊院に行った。ここまでくると不思議と人の数が減って静かになった。

▶最後に二尊院に行ったのはいつだったろうか。妻も私も若かったから、少なくとも10年以上は前になるだろう。確かその時、二人で秋の日に映える紅葉の下で写真を撮ったはずだが、あの時の紅葉の木はどれだろうかと探す。紅葉の木を見ればそこに妻の面影も残っているかも知れない・・・。確かにそれらしい木を見つけたが、紅葉は既に終わっていた。足下には、掃き集められた枯れ葉の山が参道のあちこちに積もっていて、懐かしい妻の面影はもうそこにはなかった。   

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二尊院を出てすぐの茶店でお茶と団子を食べた。あいかわらず観光客はまばらで、茶店の人に聞けば、数日前の紅葉の盛りには沢山の観光客が押し寄せたとのこと。今度はいい時に来てくださいと言っていた。昼前に京都駅まで戻って、JR奈良線の発車時刻を調べてから駅近くの寿司屋(と言っても回転ですが)で昼飯にした。

▶奈良編に続く・・・

 

 

 

千葉市美術館の田中一村展にぶらりと行って・・・

▶今朝は午前4時過ぎに目が覚めてしまった。エアコンもつけずにしばらくベッドの中でグズグズしている。もう少し眠りたい気持ちはあるが、眠れない。昨晩は9時にベッドに入って、読みかけの倉本一宏「蘇我氏」を読みながら10時前には寝入ってしまったから、少なくとも6時間は眠っているはず・・・であれば仕方ないか、と思いながら午前6時過ぎにベッドを出て階下に降りて行った。

▶台所で湯をわかしながら、6時半になったのでラジオ体操をする。眠っていた身体が目覚めてくる。昨日に続いて大寒の空の下思い切って散歩に出ると、朝日に照らされた西の空に大きな白い満月を見つけた。珍しい。なんだかすごく得をした気分だ。30分散歩して戻ると、もう月は見えなくなっていた。

▶朝飯をたべながらNHKラジオを聞いていたら、千葉市美術館で田中一村の展覧会が開かれているとのこと。田中一村ってテレビの「なんでも鑑定団」か「日曜美術館」で見たような気がすると思いながら聞いていると、彼が奄美大島に移り住む前に、千葉市に10年以上も住んでいたということが分かり、なんだか急に親近感が湧いてきた。緊急事態宣言期間中ではあるが、美術館はオープンしており、車で7~8分だし、例によってヒマなので覘きにいくことにした。

▶手元にある年譜を見ると、田中一村は、明治41年に栃木県で生まれ、7歳にして既に南画を描き、ストレートで東京美術学校に入学した天才である。同時期に入学した一人に東山魁夷がいる。しかし一村は、僅か2ヶ月で美術学校を退学してしまい、その後は全く独学で絵を描き続けた。終生独身を貫き、千葉県(千葉市千葉寺)には昭和13年から移り住んで写実的な千葉の田舎の絵を描き続けた。この間、日展院展にも出品したが評価には恵まれず、中央の美術界からは全く忘れられた存在となっていったようだ。
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▶昭和33年、50歳になった一村は、満を持して院展に2作を出品したがあえなく落選。失意の後、千葉での生活を全て投げうって奄美大島に移住することを決意し、その後は奄美大島で、従来の日本画とは全く様相を異にした原色豊かな絵を、自らのために描き続け、昭和52年に69歳で奄美の小さな家で一人亡くなった。その3年前、同期だった東山魁夷日展の理事長に就任していたのであるから、思えば東山とは対称的な生涯であったと言える。

▶このまま終わってしまえば、私は田中一村の名前を知ることなく、今日美術展に行くこともなかったはずだが、あにはからんや、現実は面白い・・・。昭和59年にNHKがこの無名の田中一村を「日曜美術館」で取り上げたところ、突如として全国に大きな感動の輪が広がったのである。一村の絵は、特に奄美大島時代の絵は、日本のゴーギャンと言ってもいいほど、生命感に満ち溢れた絵であり、それがテレビ放送にマッチしたのかも知れない。その後大急ぎで仕立て上げられた巡回展に、なんと8万人もの人が見に行ったというから、驚きを通り越して、NHKの影響力たるや恐るべしだ。

▶平成13年には、奄美大島田中一村記念美術館が開館し、現在にいたるまで全国で特別展が続いているというから、世の中も捨てたものではない。草葉の陰で、一村もさぞ喜んでいることだろう。

▶さて、千葉市美術館の展覧会であるが、10時過ぎに行ったら訪問する人もまばらで、コロナを気にすることもなく、じっくり鑑賞できたのは良かった。展示の中心が奄美大島時代のものというより、若いころの南画やその後の日本画が中心だったので、ややがっかり。でも、奄美ゴーギャンのような絵を描いた人が、千葉ではこんな田舎の風景を優しく描いていたんだというのも分かって、それはそれで良かった。

▶それに、最後の部屋に、終生の傑作と言われている「アダンの海辺」が展示されていて、その色合や細密描写には圧倒された。絵の手前に大きな量感をもった果物のアダンが描かれており、その奥に幻想的で精神性あふれる海辺の空間が静かに広がっているさまは、見ていて見飽きない。これが見られたので、今日は充実した一日になった。早起きは三文の得で、朝起きて白い満月を西の空に見つけた時はそう思ったが、本当の得は「アダンの海辺」を見られたことだったかも知れない。

 

 

 

究極のヒマつぶし・・私が仏教に目覚めたのは・・・

f:id:Mitreya:20210202140946j:plain▶妻が元気だった頃から、私は趣味のバイクを使って近場を散策するのが好きだった。成田山新勝寺は我が家から比較的近く、行き場所に困ったときはここにするのが都合がいい。私が成田山を選ぶのは、大本堂の奥に広がる16万5千平米にもおよぶ成田山公園があるからで、ここは適度なアップダウンがあって散歩するにはピッタリなのだ。しかも池や滝や植栽が美しく配置されていて、早春の梅の季節や秋の紅葉の頃は、見どころが多い。なにより素晴らしいのは、訪れる人が少ないことで、おそらく参詣者の多くは、大本堂にお参りした後いくつかの堂宇を巡れば、満足してそのまま戻ってしまうからなのかもしれない。まあ、私にとってはその方が好都合なのだが。

▶ある晴れて暖かい秋の日に、私は成田山公園の裏手にある駐車場にバイクを止めて、そこから公園に入っていった。公園に入ってすぐ目の前に大きな池があり、そのほとりを回って右手を上っていくと平和の大塔に着く。その大塔を過ぎると、小さな堂が見えてきた。2017年に建立されたばかりの医王殿である。堂の周りには五色の布が飾ってあり、なんだか最近落慶したかのようだった。内部を参拝することができるというので、中に入った。真新しい堂宇は少し落ち着かないが、そこには新しい仏像が安置されていた。誰もいない堂宇の中で、しばらく一人で鑑賞していると、突然そこにバッグを背負った若い外人の女性が入ってきた。

▶しばらく二人きりで仏像を見るともなく見ていると、彼女が「これは仏陀ですか」と英語で話しかけてきた。私は拙い英語でなんとか応えようとしたが、言葉がすぐにでてこない。というのは、私は仏陀が釈迦をさしていることは知っていたが、その仏像はどうみても釈迦像ではなかったからである。「申し訳ないが、私は仏像に詳しくない。しかしこれは仏陀ではないと思う」と答えると、「それでは何か」と彼女は言う。「それは仏様の一人である」と言おうとしたが、なかなか英語が出てこない私を見て、彼女は諦めて外に出て行った。

▶彼女が堂を出て行ったあと、私は改めて仏像を眺めたが、それが何であるかはわからなかった。英語はおろか日本語でもそれを説明することができないことに改めて驚いた。成田山がお不動さんを祀ってあるのは知っているが、それとて私には説明できないのだ。家にもどってからネットで調べたが、その堂の中にあったのは、薬師如来であり、日光菩薩月光菩薩であったということだけは分かった。しかしこれが何であるかを外国の人になんと言って説明すればいいのだろう。

▶釈迦が仏教の開祖であることは常識であるが、釈迦の時代にインドではこのような仏像はなかったはずである。釈迦がこのような仏像を作ったとも思えない。それでは現在日本にあるあまたの「仏様」とは一体何なのだろうかという素朴な疑問が、私をとらえて離さなくなった。仏教とは何なのか、いつ生まれて、どう発展してきたのか。インドに生まれ、中国から朝鮮、日本へと伝わってきた「大乗仏教」というのは、そもそも釈迦の教えと同じものなのか。仏教を知れば知るほど、知らないことが増えてくる。

▶私は「般若心教」を唱えることができる。そして毎朝「般若心教」を唱えている。きっかけは、母親と妻を相次いで喪ったからなのだが、「般若心教」そのものは、30年以上前に妹に先立たれたときに自然と覚えたものである。しかし正直言ってそれが何であるかは分からない。自分の言葉で説明できない。しかし分からないから面白い。私は現在「男おひとりさま」である。仕事も既に辞めているので時間はたっぷりある。であれば一つこの日本の仏教というものを調べてみるのも面白いかも知れないと思い始めた。うまくいけば究極のヒマつぶしになるかもしれない。それは私にとっては極めて都合がいいのだ・・・。

 

 

 

今年初めて東京に行ってきました・・

▶雨模様の昨日の午後、久しぶりに東京に行ってきた。現役で仕事をしていた頃は、毎日電車で通ったが、会社を辞めてからは意図して出かけない限りは東京に出るチャンスがない。コロナによる外出制限がこの傾向に拍車をかける。何もしないでいると自動的に引きこもり状態になるので、精神衛生上もよくない気がする。定年後の「男おひとりさま」には、「キョウヨウ」と「キョウイク」が必要だと何かで読んだ。「今日、用がある」「今日、行くところがある」のが大事なのだそうだ。そうかもしれぬ。

▶似たような境遇にある先輩の方からメールが届く。いつもありがたい。「お前が元気かどうか心配だったのでメールしてみた」と言っているが、実は本人自身もヒマを持て余してこうしてメールしてきているのだ。このコロナ下では誰もが苦労している。

▶東京への用事は、歯科治療と内科の薬の処方をもらい行くことだ。歯科は以前から定期的に通っている日本橋のクリニックで、仕事を辞めてからは千葉からわざわざ電車代を払って通う必要もないのであるが、日本橋に出ていくことに意味を感じているので、そのままにしている。内科の先生は、勤務先でお世話になっていたドクターで、私の過去の健康診断の結果を含め全て把握していただいているので、大変重宝している。歯科でのクリーニングを終えて、日比谷にある内科の先生の診療室に行くと私の外には患者がいなかった。
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▶毎日呑んでいる胃薬と中性脂肪を下げる薬を処方してもらうだけなので、問診もすぐ終わった。私の後には患者がいなかったので、先生とひとしきり雑談をする。コロナの話が終わって話題は以前に勤務していた会社の人事の話に移った。先生と責任のないヨタ話をするのも楽しい。しばらくして、看護師が「先生、電話が入っているのでお願いします」と言って顔を出した。いつまで雑談しているつもりなのか、と顔に書いてある。どうやら緊急でコロナ患者がくるような気配だったので、挨拶をして帰ってきた。

▶電車で千葉まで戻ってきて最寄り駅で降りた。さて今晩の夕食は何にしようかなどと、独り者ならではの思案をしながら歩いていると、いきつけの居酒屋の前を通りかかった。確かここは緊急事態宣言が出てから臨時休業だったはずだよな、と思って入り口を見ると開いているので、吸い込まれるように中に入った。休業していたのだが辛抱たまらずで店を開けたらしい。休業補償がどうなっているのか聞こうとしたが、無粋なのでやめた。コロナ下で店も命がけだが、客も命がけだ。カウンターで刺身の三点盛りと厚揚げを焼いてネギを散らしたのをつまみに、女将と話しをしながら、生ビールを二杯と焼酎のお湯割りを飲んで、いい気分で帰った・・・。

 

 

突然の妻の死とそれから

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▶手元に一枚の写真がある。満開の桜の木の下で、車椅子に乗った義母と妻が幸せそうな笑顔で写っている。90歳を超えた義母は、数年前から足腰が不自由になってしまい、何年か前に横浜にある老人介護施設に入所した。写真は3年前のある暖かい春の日に、妻が義母を散歩に連れ出した時のものである。横浜の施設にしたのは、近くに義弟夫婦が住んでいたからであり、千葉に住んでいる妻と私は、毎月1~2回はこの施設に見舞いに通った。

▶ここ数年、義母の認知症が進行した。諸事にわたってままならない母親のことが頭痛の種だった妻にとっては、面会に行った時も家に戻ってからも、その心理的負担は大きかったようだ。その母親は、昨年5月に97歳で亡くなった。本来であれば、母親を無事に看取って晴々とするはずの妻だったにもかかわらず、現実は残酷なものだった。妻は母親が亡くなる8カ月前に、つまり一昨年、原発巣不明のガン性腹膜播種を引き起こして、僅か4ヶ月の闘病生活の末に自らの命を燃やし尽くしてしまったからだ。私は、その写真を見るたびに、人生の不条理と無常を強く感じるのだ。

▶元気だった妻が自らの異変に気が付いたのは、元号が令和に変わる直前の4月中旬だった。その日、近くの病院に行った妻が会社にいる私に電話をかけてきた。腹水がたまっているので大至急精密検査が必要だという。よもやそんなことはあるまいと気楽に妻を病院に送り出した私だったが、「腹水がたまっている」という言葉を聞いて、状況が尋常ではないことを直感し、気が動転して足下の床が抜けたような気分になった。私には30年以上前に若かった妹をガンで失った苦い経験があったからだ。当時彼女は終末期の激しい腹水に苦しんでいた。

▶令和元年の大型連休は、妻と私にとって例えようのない過酷な時間だった。ようやく連休明けの火曜日に、妻を東京のがん研有明病院に連れていくことができたが、即日検査入院となった。その後一ヶ月近くかけて全身をくまなく検査したが、ガンの原発巣は発見できず、ガン性腹膜播種のため手術不能という絶望的な状況だけが残った。

▶そんな状況だったにもかかわらず、妻は明るさを失わなかった。絶望的な病状を淡々と語るドクターに対し、「先生、もう少し元気の出る話をしていただけませんか」と冗談めかして訴えていたことを思い出す。妻を見舞うため、私は毎日病院に通ったが、腹水の増加は止まらず、彼女の体調は急速に悪化し、まともな食事は殆どとれなくなっていった。夜7時過ぎ、自宅に戻るため病室を出ていく私に「気をつけて帰ってね・・」と見送ってくれる妻のまなざしが、今でもはっきりと浮かぶ。

▶妻は、抗がん剤治療に一縷の望みをかけて、6月から自宅療養に専念することになった。退院に際しては、ホスピスの利用も示唆された。しかし抗がん剤治療を行うためには緩和ケア専門のホスピスに入ることはできず、なによりガンが発覚してからまだ2ヶ月も経っていない段階で、何故ホスピスの心配までしなければならないのかというやり場のない怒りに、私は泣くような思いだった。

▶私は、地元の訪問診療医や看護師と連携をとりながら、妻を24時間体制で自分一人で看病することを決断した。実は偶然なのだが、私は、これに先立つ半年以上前から、40年以上にわたって勤めあげた会社を、6月をもって定年のため退職することが決まっていたのである。結婚している3人の子供たちには母親の看護のことで心配をかけたくないという気持ちはあったが、残された時間が少ないことを知っていた私には、妻と二人で過ごす時間を、これ以上無駄にしたくない気持ちの方が強かったのである。

エリザベス・キューブラー・ロスは「永遠の別れ」の中で、予期された悲嘆について述べている。愛する者と死別するに際しては、本人が亡くなる前に既に激しい悲嘆が引き起こされるということがあるのだと言っている。40年以上も連れ添ってくれた妻は、私にとって人生の同伴者であり、文字通りかけがえのない存在でもあったから、毎日私から少しづつ、そして確実に離れていく彼女を見ていることは、私には信じられず、真に耐え難かった。私は、まさに予期された悲嘆の極みの中にいたのだ。しかし一方で、それは私にとって宝石のような貴重な時間でもあったのだが・・・。

▶夏の終わりに妻は病態が急変し、最初に診断を受けた近くの病院へ救急搬送された。9月初旬、妻は最後に大いなる慰めの言葉を私に残して亡くなっていった。そのことについては今ここで語るつもりはないが、それは少なくともこれから一人で生きていかなければいけない私にとっては、大きな人生の支えとなるはずだ。 

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▶妻が逝って私は文字通り一人になった。亡くなった当初は残された雑事に紛れて多忙で落ち着かない日々を過ごしたが、それも次第に潮が引くようになくなっていった。代わって新たな悲しみが沸いてきた。最初は定期的に激しく強い悲しみに襲われた。その悲しみも30分も一人で泣いていると次第に治まってくるのであるが、その後に言いようのない疲労感と胸の痛みが残った。悲しむということは、こんなにも体力を消耗するものであるのだということを実感した。突然悲しみが襲ってくる間隔は、最初は一週間おきくらいだったが、次第に二週間おきになり、そして三週間、一ヶ月と延びていった。

▶人が死別の悲しみからいつ立ち直るかは個人差が大きいようである。3ヶ月で立ち直ったという人もいれば、10年経っても深い悲しみを引きずっている人もいる。テレビで拝見した野村克也氏などは、残念ながら最後まで立ち直れなかったようだ。それは、故人との関係の在り方や、残された人の人生観や性格にも大きく左右されるのだろうが、私の場合、一年を過ぎたあたりから精神と体力の回復を実感できるようになった。現在でも悲しい気持ちが沸き起こることがないではないが、それは妻を失った絶望感に満ちた喪失の悲しみというより、あれほどに愛していた妻が、私の心の中から次第に離れていくことによる悲しみであり、言葉を変えれば、人に与えられた諦めと忘却の悲しみというようなものかもしれない。それはそれで哀しいことではあるが、仕方のないことだと思うようにしているし、妻もきっと許してくれるだろう・・・と思っている。

▶この間、グリーフ・ケアに関する多くの本を読んだ。先にあげたキューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」「永遠の別れ」や、キャサリン・サンダーズの「家族を亡くしたあなたに」など、欧米系の本は概して取り上げられているケースが多く、実際的なケアに関するアドバイスもあって非常に参考になった。日本人が書いた本は、基本的に自らの体験談を綴ったものが多かった。城山三郎や柳田邦男、そして元国立がんセンター総長の垣添忠生の本も読んだ。どうしても自分の場合と比較した読み方になってしまいがちなのが難点ではあるが、深い悲しみを抱えて一人もがいているのは自分だけではないというのを知るだけでも大いに読む価値のあるものと感じた。そんな中で、天気予報のキャスターであった倉嶋厚の「やまない雨はない」は、氏の過酷な経験に裏打ちされた多くの示唆があり、私はこの本に大いに慰められた。今でも時々読み返している。

▶ブログで伴侶の死を語ることについては、あまりにも暗くて個人的すぎるので躊躇する気持ちが大きかったが、そもそもこのブログを立ち上げた目的が、自らの再生の記録を残していくためのものであることに鑑み、あえてこうして掲載することにした。

 

 

  

 

 

50年ぶりに川端康成の「山の音」を読む


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▶朝から今にも雪となりそうな気配で小雨が降っている。こういう日はどこにも出かけずに読書でもして過ごすしかないかと思ったが、意を決して駅前に散髪に行くことにした。9時過ぎに散髪屋に行くと一番乗りだったので、すぐやってもらえたのはありがたい。鏡の前に、「コロナなので会話は控えさせていただきます」との張り紙がしてあったにもかかわず、マスターとの会話は弾んだ。マスターがなにげなく「実は昔ロンドンに留学していた時バイクに乗っていたんですけど、ロンドンでも日本製のバイクは人気がありましたよ」なんて言うんで、このマスターは何でロンドンに留学したのか思わず聞こうと思ったが、話が長くなりそうなので止めた。床屋のマスター恐るべし。

▶散髪が終わっての帰り道に、図書館に寄ってみる。最近の読書はもっぱらアマゾンに頼ることが多いのだが、昨年友人の一人が図書館を活用していると聞いていたのを思い出し、寄ってみた。実は数年前に一度図書館を利用した時にIDカードを発行してもらっていたのだが、これはどこかに紛失してしまっているので、再発行の申請も兼ねて訪ねると、カードは二週間後に再発行だが、仮のIDカードを出すので今日からでも本が借りられるという。そこで、日本文学全集の川端康成三島由紀夫の二冊を借りて家に戻った。

▶家に戻って川端の「山の音」という小説を読んだ。この小説を選んだのは、実は高校生の時に文庫本を買って読み始めたが、まったく面白くなくて10ページくらい読んで放棄してしまった経験があったからだ。面白くなかったのは当たり前で、主人公が62歳の老人(※時代が昭和20年代後半なので、62歳はまったくの老人として書かれている)で、同居している美しい息子の嫁にほのかな恋心を抱きながらも、淡々と暮らす鎌倉の日常風景が静かなタッチでつづられているものだからだ。その時に聞こえた「山の音」が老境に入った主人公の心の風景を象徴的に表している・・・というような小説。これを高校生が読んで面白いと思うはずがないよね。

▶その時から50年近く経過した現在の自分が読んだら、一体どういう感想を持つだろうと思って今回読んでみた次第。内容が内容だけに、面白いという表現はあたらないが、午後の時間にあっという間に読めてしまったのには驚いた。何と言っても川端の文章が実に読みやすく、老境に入った一人の男の気持ちが、読む者の心のひだにスムーズに分け入ってくるんですね。読後感は、カズオ・イシグロの「日の名残り」に似ている。さすがにノーベル賞作家は違う、と思った。

▶若い時には若いなりの読み方が、年齢を重ねれば重ねたなりの読み方があるものだ。「自分は無駄に年を重ねてきたわけではない」ことを実感することができただけでも、読んだ意味はある。昨年の正月明けに読んだ「雪国」も実に良かった・・・。