マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

バイクで、ちょっとそこまで・・


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▶先週から天気がぐずつきだして、テレビでは早くも梅雨に入ったのではないかというような気の早いコメントも飛び出したが、14日の金曜日はスッキリ晴れた。一通り家事を終えたので、読みかけの本を読みだしたが、妙に気分が乗らない。千葉では緊急事態だか蔓延防止だかの影響で、五月に入ってからお店での飲酒が一切できなくなってしまったので、駅近くの小料理屋で美味しい魚料理をつつきながらできた息抜きが、できなくなってしまった。気分が乗らない原因の一つは、そんなとこにあるかも知れない。

▶とは言いながら、天気も良かったので、「そうだ、昼飯は魚でも食べに行こう」と思い立ってバイクで出かけた。周囲を海に囲まれている千葉県は、ちょっと走ると海に出られるのが便利だ。我が家から最も手軽に行けるのが外房の海なので、九十九里浜に行くことにする。

▶昼前に家を出て、外房有料道路を走り茂原の手前に出た。そこからまっすぐ海岸に向かったが、道は空いていてバイクの走りは快適だ。しばらく走ると白子町に入ったが、ここは玉ねぎの産地で、道端には取り立ての新玉ねぎが大きな袋に入れられて売られていた。安くておいしそうな玉ねぎだが、なにせ量が多すぎて、一人身ではとても食べきれないので、残念ながら買うのを諦めた。

▶海岸通りに突き当たったので、左折して北上する。白里海岸を過ぎるあたりから道端に魚料理を食べさせるお店が点在し始めた。初めから目的の店を決めておけば迷うことはないが、なにせ適当な店を探しながら走っているので、決めきれないうちに片貝海岸の手前まで来てしまった。道の右側に「まるに」の看板が見えたので、そこに入った。店は片貝海岸に面していて、結構な大きさで、ウィークデイにもかかわらず、カップルやグループで賑わっていた。

九十九里と言えばイワシが名物だ。イワシフライを食べようと思ったが、単品では量が多すぎる。地魚の刺身もおいしそうなので、両方食べられる定食がないか店の人に尋ねたが、ないという。仕方がないので、イワシフライは諦めて、刺身盛り合わせ定食を注文した。出てきたのが美味しそうな刺身で、写真を撮らなかったのが残念。結果は十分満足したが、本音を言えばイワシフライも一緒に食べたかったな・・。

▶昼食が終わって、店の前に広がる片貝海岸に出る。東日本大震災の影響で、海岸には長大な堤防が出来上がっていて、すぐには海が見えない。堤防を越えると、そこには九十九里浜が一面に広がっていた。堤防から波打ち際まで100メートル近くを歩く。風が気持ちいい。波打ち際には、多くの貝殻が点在していて、海もキレイで、久しぶりの太平洋を満喫した。海を見ると、本当に気分が爽快になる。
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▶帰りは、大網街道を千葉まで戻ったが、家に着いたのは午後3時過ぎだった。

 

 

小雨の中を散歩する


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▶昨日は、友人達とゴルフを楽しんだ。スタートが8時前だったので、終わったのは午後1時過ぎと早かった。コロナが無ければ19番ホールを楽しみたいところだが、そうもいかないので、終わってすぐ解散となった。昔はゴルフと飲み会のセットが当たり前だったが、昨今はゴルフだけで終わる。しかしよく考えてみれば、現在のようなゴルフのあり方が当たり前で、そもそも車で行くゴルフで酒が飲めるわけがない。まあ、さっと行ってさっと帰るゴルフも、慣れれば悪くはないので、コロナ後もこのようなゴルフが意外と日本社会に定着するかも知れない。

▶明けて今日は朝から雨模様だ。昨晩はいつものように午後10時前にはベッドに入ったが、眠りが浅かったのか、目覚めたあとも眠気が続いた。最終週に入ったNHK「おちょやん」を見ながら朝食を作って食べる。次いでチャンネルをワイドショーに切り替えると、どこも今週から本格化する高齢者向けのワクチン接種の話でもちきりだ。私の所にも千葉市からワクチン接種券が届いているが、どのようにして予約をとるかが問題だ。電話はつながりにくいし、ネットは難しい、というのが高齢者にとっての共通の悩みのようだ。

▶午後、空を見上げると少し明るい。雨は降っていないので、この間に散歩に出かけることにした。私の散歩の予定は30分なので、傘を持たず手ぶらで出かけたが、空模様がこんな具合なので、歩いている人は全く見かけない。家を出て、住宅街を下っていく。10分ほど歩いていると小雨がぱらついてきた。傘がないので引き返そうとも思ったが、濡れても大したことはあるまいと思い、そのままテクテク歩道を歩いていった。車道の反対側の舗道面に一羽の鳥がいる。黄色のくちばしのムクドリだ。集団でいるムクドリが一羽だけで舗道で餌を探す姿は珍しい。

▶住宅街を抜けると遊水地に突き当たる。この遊水地は、いわゆる「谷津」(周囲を低い山に囲まれた湿地)を堰き止めて作られていて、大雨が降った時などに一時的に水を貯留する施設だが、常時水が溜まっている訳ではなく、普段は一面の緑の草原になっている。最近は、周囲の道が整備されて、桜も植えられているので、この遊水地の周囲が私のお気に入りの散歩コースとなっている。

▶霧雨に煙るその遊水地の脇道を散歩したが、歩く人影は全くなく、道の上には周囲の山の樹木が大きくかぶさるように繁っているので、なんだか山奥の道を歩いているような気分になるのがいい。雨が少し強くなってきて、その樹木から雨水がポタポタ落ち始める。突然私の前の道にスズメが一羽降り立って歩き始めた。地面の餌を探しているのだろうか。まるで私を案内するかのように、10メートルくらい先をチョンチョン歩いて、左側の藪の中に飛び込んで消えた。

▶遊水地を過ぎると、今度は谷津田が見えてきた。遠くには京葉道路が走っているのが見える。この谷津田では、田植えが終わったばかりで、緑の苗が整然と植えられている景色がなんとも美しい。小雨が降る中で、傘もささずに散歩するのも悪くはない。その谷津田の畔道に今度は一羽のハクセキレイを見つけた。こちらも地面の餌を探しているのか、私が近づいても逃げようとしない。おもわず「ご苦労さん」と声をかけたくなる。
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▶雨が強まってきて、上半身が濡れてきたので帰り道を急いだ。谷津田からの戻り道は上りになっていて、昔からあると思われる大きな農家を左に見ながら、畑の中の道を抜ければ、もとの住宅地に戻ってくる。家の近所にあるゴミの集積所をチェック(※今月は私がゴミ集積所の当番となっているのです)して家に戻ったら、丁度30分経っていた。

 

 

 

 

 

シルクロードと「敦煌」

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▶昭和34年、作家の井上靖は小説「敦煌」を発表した。昭和34年と言えば、今から60年以上も前の話になるので、この発表自体が既に歴史の一部となっているようなものだが、私はこの本を学生時代に文庫本で読んだ。その本は長らく私の前橋の実家に置いてあったが、一昨年、実家を片付ける際に処分した。実家には、私の買った本の外に、若くして亡くなった妹の読んだ本も残っていて、これらの本を断捨離することには躊躇する気持ちはあったが、思い切って処分した。

▶処分はしたものの、同じ本を再び読みたくなるというのは、実はよくある。仏教伝来とシルクロードに興味を持っていることについては、既にこのブログに書いているが、昨年から関連する本を手あたり次第に読み漁っているうちに、私は再び「敦煌」を読んでみたくなった。そして、今年の3月に再び新潮文庫敦煌」を買って読んだのだが、この本が私のシルクロードへの関心の原点となっていることを、改めて実感した。

シルクロードは、西安に始まり、約600キロ西方の蘭州で南から北に向かって流れる黄河にぶつかる。その黄河を西に渡るとそこはもう砂漠地帯で、「河西回廊」(※河とは黄河のこと)と呼ばれる地域に入るが、昔からここには、シルクロードに沿って河西四郡と呼ばれる代表的な四つのオアシス都市が点在している。それぞれ東から順に、武威・張掖・酒泉・敦煌であり、現在では中国の甘粛省に属している。

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敦煌は、河西回廊の最も西に位置するオアシス都市で、中国から見た場合、ここから先を「西域」と呼び、現在は中国の新疆ウィグル自治区に位置づけられている。一方この地域は、世界史的にみると(現在の中国領を含め)東トルキスタンと呼ばれている。シルクロード敦煌において北ルート(天山北路・天山南路)と南ルート(西域南道)に分かれることから、敦煌は交通の要衝であり、また中国の西域経営の西の拠点でもあった。西域に点在するオアシス都市国家をめぐって、月氏匈奴遊牧民族と、漢や唐の中国政権が支配権を争った長い歴史があり、それがシルクロードを巡る物語を複雑なものにしているのだ。

▶漢代には、敦煌の西に二つの関所が置かれた。(※一説には、ここが万里の長城の西の端だったというから、気が遠くなるような話ではある・・)北を玉門関、南を陽関と言った。唐の王維の七言絶句に、「君に勧む、さらに尽くせ一杯の酒、西の方、陽関を出ずれば故人なからん」という一節があるが、確かにここから先は、誰も知っている人のいない、まさに不毛の砂漠地帯であったのだ。

シルクロードにおいて敦煌が名高いのは、莫高窟(ばっこうくつ)と呼ばれる仏教遺跡があるからで、私の関心も、むろんそこにある。莫高窟は、別名「千仏洞」と呼ばれており、紀元4世紀頃から約千年の間、ここ敦煌近郊の鳴沙山の崖に、次々と石窟(仏教寺院)が穿たれたが、現在分かっているのは492窟のみである。NHKシルクロード特集では、これまで何度か莫高窟が紹介されているので、既に目にされた人も多いと思うが、それぞれの石窟に描かれた壁画や仏像の様式が、時代の変遷とともに変化していく様が面白く、それがまた仏教が西から東に伝承されていくことの証左となっていることが、たまらなく興味をそそる。

▶さて、今から120年以上前の清朝末期の話だが、この莫高窟の石窟の一つに王円籙という道教の坊さんが住んでいた。1899年のある日、アヘンを吸うための火種の線香を、壁の割れ目に差し込んでおいた王円籙は、煙が壁の内部に吸い込まれていくのを見て、壁の中に空洞があることを発見する。驚くなかれ、その空洞(部屋)には、天井に届くほどの古文書がぎっしりと詰まっていたのだ。王が住んでいたのは、現在の第16窟で、発見されたのはその耳洞である現在の第17窟である。

▶事情が分からない王(※実は字が読めなかった)は、とりあえずその事実を敦煌の役所に届けたが、なにせ当時は清朝末期の混乱の時代だったから、役所からはそのまま保存しておけという以上の指示はなかったようだ。清朝末期は、列国が中国を食い物にしようとしていた時期であり、ヨーロッパや日本から中央アジア方面に数次に亘って探検隊が派遣された時期に重なる。1907年、イギリスの探検家のスタインがこの噂を聞きつけて敦煌にやってくる。そして、価値の分からない王円籙から、わずかな金額で29箱にもおよぶ古文書を買取り、それをロンドンに送った。

▶次いで、翌年、フランス人のポール・ペリオという東洋学者が敦煌に現れる。大学者のペリオは古文書の中身(漢文・サンスクリットチベット語)を読むことができたので、スタインが残した文書の中から選りすぐりの6000点を王円籙から買い取り、これをパリに送った。ここに至って清朝政府が動き出すが、時既に遅し。しかし、その時まだ8000点以上の文書が残っていたので、敦煌県の知事が集めてこれを北京に送った。これで全て終わったはずだが、実は王円籙は1912年に、日本の大谷探検隊に500巻近い写本を売っているというから、字を読めない道教の坊さんも、相当にしたたかだ。

▶思うに、当時の欧米列国や日本は、中国に対してやりたい放題だったことがよく分かりますね。例えば、敦煌の第320窟にある最も美しいと言われる盛唐時代の壁画の一部は、四角く無残に切り取られているが、これらは1924年に来たアメリカの調査団によって盗まれたことが分かっており、現物はハーバード大学フォッグ博物館に保存されているというから呆れる。NHKシルクロード特集では、やむを得ずその画像をもとの壁画に合成して放映していたが、全く酷い話ではある。

▶ところで、この膨大な古文書は「敦煌文書」と呼ばれ、イギリス・フランス・日本・中国の学者がよってたかって分析・整理し、幾多の世界史的発見がなされ、ここから「敦煌学」という言葉まで生まれた。しかし、100年経っても未だ全ての作業が終了していないというから、「敦煌文書」が、いかに貴重で膨大なものだったか分かろうというもの。

井上靖は、この「敦煌文書」の発見に想を得て、小説「敦煌」を書いた。文書は、誰が、いつ、どんな目的で隠したのか・・・。井上は、11世紀中頃の北宋の時代に、敦煌を含む河西回廊一帯が、チベット系の遊牧民族である西夏の手に落ちた混乱時に、この文書が隠されたと推理した。それを土台に置いて、シルクロードを舞台にした一大ロマンを書き上げたのだが、この面白さは、このようなシルクロードの歴史をある程度知ってから読むと、更に深まることになるのは言うまでもない。

▶物語は、科挙の試験に失敗した主人公の趙行徳が、開封の町の市場で全裸の西夏人の女が売りに出されている現場に遭遇するところから始まる。女を助けたことがきっかけとなって、趙行徳は西域へ行くことを決めるが、その後数奇な運命の果てに、当時漢人が治めていた敦煌にたどり着く。そして、そこに西夏の大軍が攻めてくるのだが、それと敦煌文書との関係は・・・ネタバレになるので、あとは読んでのお楽しみ。

▶1998年、この小説は、日中合作で映画化された。主演は、佐藤浩一と西田敏行で、私はビデオで見たが、高い城壁から身を投げるウィグル人の王女(当然、美女です。しかし、彼女は敦煌文書とは全く関係がありません)が印象的で、このシーンは宣伝映像にも多く使われたので、あるいは覚えている人も多いかもしれない。この美女の登場のさせ方がいかにも井上靖的で、要するにそれがシルクロードのロマンにつながるもとにもなっているのがミソ。

井上靖の小説には、西域物の他にも色々ある。今年の正月明けには、江戸時代に漂流してカムチャッカに流れ着いた大黒屋光太夫の史実をもとにした「おろしや国酔夢譚」を読み、「敦煌」を読んだ後は、飛鳥時代を題材にした「額田王」を読んだ。いずれも歴史物だが、大変面白かったので、お暇のある方は是非どうぞ。

 

 

褒められてゴルフの練習を始める


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▶先週のある日、昔勤めていた会社に同期入社した友人達と、ゴルフを楽しんだ。久しぶりだったので余裕をもって家を出たところまではよかったが、ゴルフ場の近くまで来て道を間違えてしまった。(※ホームコースのゴルフ場なので、ナビなど使っていませんでした。)後から考えると、正しい道だったのだが、(看板が外されていて)間違ったと勘違いして、あわててナビを入れたところ、今度は遠回りの道を選んでしまった。結局予定していた到着時間から大分遅れてゴルフ場についた。

▶遅れていたので、あせって受付窓口に飛び込むと、後ろにいたオニイサンから「みんな並んで待っているのから、ダメだよ・・」と言われる始末。よく見ると、受付前には1メートルの距離を保って人が並んでいる。恥ずかしさを隠しながら、ほうほうの態でチェックインを済ませ、スタートホールに駆けつけると、既に練習を済ませた友人達が暖かく迎えてくれた。

▶普段まったく練習もせず、しかもこんな局面で始まったゴルフでスコアが良くなるわけがない。終わってみれば、120近く叩いてしまったのだから、ゴルフとしては散々だった。このご時勢なので、正規のレストランは休業しており、終了後はロビーの椅子に座って、友人達と歓談(※もちろんマスクをしてます)したが、昔の仕事のことや定年後の過ごし方などで話が盛り上がり、ストレス解消には大いに役立った。

▶さて、話はここから。一通り話が済んで、またゴルフの話に戻ったところ、友人の一人が「今日のあんたのスイングは、ヘッドアップしてめちゃくちゃだったが、それでも時折素晴らしいショットをしていた。そういう時はまるで別人のようなスイングで、本当はいいものを持っているんだよな・・」と言った。この言葉を聞いて、最近はゴルフは健康のためと称してスコアにはこだわらない旨を公言していた自分が、とても恥ずかしく思えてきた。そうなのです。私は、年齢を言い訳にして、ゴルフに関しては努力をまったくしない自分を放置し、自分を誤魔化してきたのです。そして、何とスイッチが入ってしまった。

▶翌日、車で5分のところにあるゴルフ練習場に行った。ゴルフに行った翌日に練習場に出かけるなんて、人生初めてのことだ。手元にあったその練習場のカードは、既に無効になっていたので新たに作り直し、60分打ち放題の練習を始めた。持っていったクラブはショートアイアン3本のみで、全部で500球くらいは打っただろうか。実はこれも初めてのことで、いつもならクラブバッグをそのままかついでゆき、ドライバーから始めて各クラブを順々に10球くらいずつ試し打ちするような練習だったのだが、よく考えるとこんなのは練習というのもおこがましい・・・ですよね。

▶先週は3回練習に行けた。5月からはホームコースでハンデを取得する目標も設定した。スコアレベルは別にして、少なくとも自分が納得のいくようなスイングができるようになるまでは、しばらく密に練習を続けようと思い出したのだから、人生何が起こるか分からない。こんなことは今まで一度もなかったから、なぜ突然こんな気持ちになったのか不思議ではあるが、「お前はいいものを持っているはず」と言ってくれた友人の一言が、眠っていたプライド(・・といっても大したプライドではありませんが)を呼び覚ましてくれるキッカケとなったのは、間違いなさそうだ。

▶話は変わって、昨日の朝、NHKで「トコロさん大変ですよ」を見ていたらこんなシーンがあった。ゲストの伊東四朗(※昔から、所ジョージとは仲がいい)がMCの所ジョージに「トコちゃんはいいかげんに見えるかも知れないが、じつは筋にこだわるし、筋が通っている」と言った。それを聞いた所ジョージは思いのほか喜んで、「伊東さんの話は嬉しい。今日は本当に元気がでた」と当日のテーマとは全く違うところではしゃいでいたのが印象的だった。ひょんなことで所ジョージのプライドのありかが分かったような気がして愉快だったが、他人をほめるということの効用が、こんなにもあるのかと実感した次第。

▶さて、昨日の雨は上がって今日は朝からいい天気で、庭先のカエデの緑が陽光に映えて美しい。こうしてブログを書きながらも、さて褒められてゴルフの練習を開始したはいいが、冷静になって考えると、果たして継続できるだろうかと不安になる。しかし、調子に乗ってここまで公言してしまったら、やっぱり三日坊主でしたとはさすがに言いにくい。それがブログを書くことの効用でもあるし、それでは自分のプライドが許さない・・と言ったら格好のつけ過ぎだが、まあ、いつまでもそんなことを言っていないで、さっさと練習に行ってくるか。

 

 

突然の電話に・・・


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▶昨日は、晴れて良い天気だったので、近くのスーパーで花を買って桜木霊園へ妻の墓参に行ってきた。妻の体調変化が発覚したのが令和改元の直前だったので、あれからもう2年経ったことになる。早いものだ。去年までは闘病中の生々しい妻の記憶が、頭の片隅のどこかに常にこびりついていたものだが、それも次第に薄皮が剥けるように消えてゆき、近頃は敢えて意識しない限り、厳しかった思い出が突然蘇るようなことはなくなった。

▶今朝は早起きして、ラジオ体操をする。昨日は墓参のあとゴルフの練習場にでかけ、調子に乗って球を打ち過ぎたので、上半身が少し強張っていたが、体操をしたら少しよくなった。朝食を済ませてから、さてブログでも書こうかとパソコンを開いたところで家の電話が鳴った。最近は自分にかかってくる電話はスマホ宛ばかりで、家の電話はめったに鳴らない。何かの勧誘の電話かと思って出ると、電話の主は男性で、吉村(仮名)と名乗った。

▶用件を尋ねると、私の妻と妻の母の近況が聞きたいとのこと。どういう関係なのか改めて尋ねると、自分は昔、妻の家族と近所づきあいしていた者だと言う。吉村氏の父親と妻の父親が同じ会社に勤めていて、母親同士も仲が良くて、昔からの知り合いだという。そう言えば、吉村さんという名前には、微かに聞き覚えがあった。妻の母を施設に見舞いに行ったときなど、「昨日、吉村さんの奥さんから電話をもらった」というような話を彼女から聞かされていたことを思い出した。

▶その吉村さんの母親は健在で、久しぶりに話がしたくて妻の母に電話をかけると、その電話は既に使われていないことが判明し、それで確認のため、娘である私の妻のところに吉村さんの息子さんが代わりに電話をかけてきたということが分かった。そこで、私から妻も妻の母親も既に亡くなったことを伝えると、電話口の吉村氏は大変驚き、そして残念がった。

▶吉村氏は私や妻と同年の独身で、現在は都内で98歳の母親と伴侶を亡くされたお姉さまと三人で暮らしているという。当時埼玉の狭山市にあった妻の家とは、家族ぐるみのつきあいだったので、中学時代の妻のこともよく覚えておられた。「お母様と同じくきれいな方で、その後は東京で活躍されて、あなたと結婚されたと聞いていたので、今でもお元気にされているものと思っておりましたが、そうですか、お二人とも亡くなられたのですか・・」と言っていた。

▶突然の電話で、10分ほどの会話だったが、忘れかけていた昔の記憶がまた鮮やかによみがえった。妻の実家では、義父と義母と妻が既に亡くなり、私の家では、父と母と妹が亡くなって久しくなった。人は、誰かの心に思い出が残る限り生き続けるとものだと聞いたことがあるが、人を悼むということはそういう意味があるのだということを、このブログを書きながら、改めて思っている・・・。

 

 

 

 

 

 

 

陶磁器の穴あけと観葉植物の植え替え

▶関東地方では、まるで五月になったのではないかと思わせる好天が続いている。昨日はツーリングの翌日だったので、洗濯や家の中のこまごまとした用事を片付けた。月曜日にダイソーに行った時、テーブルヤシの苗を買っておいてあったので、植え替えをしようとあれこれ考えた。観葉植物の植え替えの鉢は、あまり大きすぎると用土がなかなか乾かないので、一回りくらい大きいので丁度よいとのこと。そこで、キッチンの棚に使わない「ソバチョコ」があったのを思い出した。

▶ソバチョコの大きさは丁度いいのだが、問題は底に穴があいてないので水が抜けず、これではすぐに根腐れしてしまう。そこで、陶磁器の底に穴をあける方法をネットで調べた。しかしこれがなかなか難しい。まずポンチを使って叩くのは、衝撃ですぐ割れてしまうので適当ではない。ドリルで削るのがいいのだが、通常の金属加工用のビットでは固くて歯がたたないことがわかった。一番よいのは、陶磁器用のビットを買ってくることなので、早速ホームセンターにでかけた。

▶さて、ホームセンターに行ってまず思ったのは、これなら適当な植木鉢を買った方がはるかに早いなということだった。しかし、世の中、効率が全てではない。私にはつぶすべき時間が十分にあるのだ。それに、既に私の興味は、陶磁器の穴あけに移っていたので、初心貫徹、工具売り場で陶磁器用のビットを探した。本格的に陶磁器に穴をあけるビットは、先端部分にダイヤモンドの微粉が蒸着してあるもので、ナント3300円もする。100円ショップで買ったテーブルヤシの植え替えのために、3300円のビットを購入するバカが本当にいるのかと思ったものの、思い切って購入。あわせて、浴室用にアジャンタムの苗も買って家に戻った。


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▶家に戻ってから、早速ドリルを引っ張りだして、ビットを装着。説明書を片手に、おそるおそるソバチョコを削りだした。ドリルに装着したビットの先端を、時々水で冷やしながら、削ること10分くらいで、とうとう穴が貫通した。2個目からは慣れてきたので比較的簡単に穴をあけることができた。都合、3個の陶磁器の底に穴をあけることができて、小さな達成感を味わった。定年後の一人暮らしの場合、こういうのも必要なのです。

▶あとは物置の中に妻が買い置きしてあった観葉植物の土を引っ張りだして、植え替えを済ませた。市販の植木鉢では味わえない観葉植物のミニチュアがこうして完成した。ところで、せっかく購入した3300円のビットをこれだけで終わりにしたくないので、必要であれば子供たちの家に出かけて陶磁器の穴あけをしてみようか、などと思ったりもするが、まあ必要ないでしょうね。それなら、家の使わない陶磁器に、片っ端から穴をあけてみるか・・・。
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奥多摩ツーリングとバッテリーの話

▶今から11年前、56歳の誕生日を迎えた1月に、初めて自動二輪(中型)の免許を手にした。前々年に、仕事も勤務先も大きく変わったので、第二の人生を始めるにあたって何か挑戦しようかと考えた末、思い切ってバイクに乗ることに決めたのだ。直接のきっかけとなったのは、タレントの清水国明国井律子の「気ままに寄り道バイク旅」をNHKBSで見たからだ。当時、妻もこの番組を見ていて、意外にも私の決断に反対はしなかったので、お互いの気が変わらないうちに早速教習所に申し込んだ。

▶年齢が行ってのバイクの教習は予想に違わず大変で、妻には内緒にしていたが、3ヶ月近い教習期間中に二度ほど転倒し、人知れず痛い目にもあったので、最終試験に合格した時は、本当に嬉しかった。免許を手にして最初に購入したのは、当時人気の高かったビッグ・スクーターのホンダのフォルツァ。これは、走りながらオーディオを聴くことができるのが自慢で、新しい職場の若い人達を誘って、房総半島を走った。

▶しばらくすると、マニュアル車にも乗りたくなったので、今度はホンダの名車と謂われるCB400を購入。フォルツァもそのまま持ち続けたので、バイクは2台に増えたのだが、この時も妻は文句は言わなかったのだから、本当に優しい妻だった。

▶その妻を、一度だけ館山までバイクの後ろに乗せて走ったことがある。この時はフォルツァだったが、帰りの館山自動車道のトンネルを出たところで、妻が愛用のサングラスを飛ばしてしまい、それ以来彼女は私のバイクに乗ることはなかった。たった一度だけだったが、忘れ得ぬ思い出で、それだけで二輪免許を取った価値は十分あると、私は今でも思っている。その後、幾星霜が過ぎて妻がいなくなり、私のバイクは更に変わって、今はスズキのバーグマン200となった。このバイクには4年近く乗っているが、フォルツァより少し小振りのオートマチック・スクーターなので、この年齢になっても乗りこなすことができ、大変重宝している。
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▶バイクに乗り始めてから、関東地方を中心にあちこち回ったが、毎年春になると決まって行くのが、奥多摩である。ここにはツーリングのメッカと言われる奥多摩周遊道路があり、バイカーの聖地の一つとなっている。その更に山奥の、山梨県に入ったところに「小菅の湯」という村営の温泉施設があり、ここの温泉がなかなかいいのです。
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▶さて、コロナ下ではあるが、数日前から天気予報をチェックし、今年も、昨日とうとう奥多摩ツーリングを決行した。準備を整え、午前6時半過ぎに家を出て、京葉穴川から都内に向かった。平日なので、錦糸町を過ぎると渋滞に捕まったが、そこはそれバイクの利点をフル活用して箱崎を過ぎると、都心の街並みが見えてくる。呉服橋を過ぎると、昔勤めていた会社のビルが見えてくるのがなんとも懐かしい。平日だから、皆さん仕事に励んでいるのかと思ったが、今はリモートワークが主体なので、都心のオフィスは意外と空いているのかも知れない。

霞が関トンネルの中で右に折れて新宿方面に向かい、そのまま4号線を走って永福で降りて甲州街道に入った。この道は何度も走っているので、比較的慣れている。甲州街道は片側2車線だが、道幅が狭いので左側車線を走ると時折駐車している車があったりするので、とても走りずらい。従って私はいつも右側車線を走る。調布の味の素スタジアムを過ぎたのはちょうど9時だったので、まずまず順調だ。そのまま甲州街道を走って、気が付くと立川まで来ていた。奥多摩に行く場合、日野バイパスから国道16号線に入って、その後に五日市方面に左折するのだが、昨日はショートカット狙いで日野バイパスを使わず直進したので、立川まで来て道が分からなくなってしまった。

▶仕方ないので、道端に停車してスマホで位置確認をし、少し休憩をして再出発をしようとエンジンをかけると、バッテリーが弱くなっているのに気が付いた。エンジンはかかったのだが、次にエンジンを切って再始動する際に、果たしてエンジンがかかるのか急に不安になる。冬の間はエンジンのかかりが悪かったが、暖かくなってきて今朝はスムーズに始動したので、安心していたが、やはりバッテリー交換をしておくべきだったと反省する。しかし、あとの祭りだ。
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▶その後、バイクは順調に秋川渓谷沿いの道に入っていったのだが、いかんせんバイクを停車するのが怖い。それでも、途中の景色の良い休憩所でバイクを停止させ、エンジンをかけたまま写真を撮った。檜原村の郵便局を過ぎて右に入り、しばらく走ると奥多摩周遊道路に入った。道は空いていて、ワインディング・ロードを気持ちよく走るのだが、バッテリーのことが頭から離れない。結局、エンジンを切ることなく、そのまま目的地の「小菅の湯」に到着した。朝から5時間近く走ったので、意を決してエンジンを停止した。
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▶久しぶりの小菅の湯は、とても空いていた。直径が2メートル近い露天の木桶風呂に一人で浸かって空を眺めると、青空が澄んで気持ちよく広がっている。周りの雑木も芽吹いたばかりで、萌黄色の若葉がなんともきれいだ。風呂から出て、食堂でかけそばを食べてから施設を出たのが午後1時40分。バイクにもどって、さあエンジンをかけようと祈るような気持ちでキーを回すと、エンジンがかかった。「助かった!」というのがその時の正直な気持ちで、そうでなければ、ロードサービスのお世話になるところだった。

▶その後は、小菅村から上野原まで、猿が出没するような山の中のくねくね道を走り、やっと甲州街道までもどってきたが、燃料計を見ると残り少なくなってきているので、新宿に戻るまでにはどこかで給油をする必要があると判断し、そのまま甲州街道を走れるだけ走って新宿に向かった。高井戸の手前のガソリンスタンドで給油をしたが、この時は、もしエンジンが始動しなければスタンドの人に応援を頼むつもりだった。

▶給油後はそのまま都内に入り、靖国通りから14号線に入って、篠崎で京葉道路に乗り、あとは一目散で穴川まで戻った。家に戻ったのは午後6時近かった。往復300㎞を越えるツーリングで、なんだかんだで10時間はバイクに乗っていたので、疲れることは疲れたが、帰宅後に近くのスーパーに夕食の買い出しに出かけることができたので、意外にも体のバッテリーは残っていることを実感した。風呂を沸かして、本日2度目の風呂に入り、ビールを飲んで、早めにベッドに入って妻の写真を見ると、笑っていた。

▶翌日、アマゾンで台湾ユアサのバッテリーを注文した。週末には届くので、届いたら早速バッテリー交換をしよう・・・。