マイトレーヤの部屋から

徒然なるままに、気楽な「男おひとりさま」の日常を綴っています。

昨年3月、東大寺二月堂「お水取り」に行く

▶昨夜は比較的よく眠れたので、今朝気分よく目覚めると、もう7時半近い。月曜日にも関わらず、全く制約のない一人暮らしは、いたって気楽なものだ。寝床でぐずぐずしていると「おちょやん」が始まってしまうので、意を決してベッドを出た。新聞を取りに玄関を出ると朝の光がまぶしく、思いのほか暖かい。すわ春が来たか、と思ってしまった。

▶昨日の東京のコロナ感染者数は272人だった。年初の人数からみると、大幅に減少してきているのは嬉しい限りだ。先週からワクチン投与も始まったので、このままの勢いでコロナ騒ぎも終息に向かって欲しいものだ。が、尾身会長も言っているように、実態はそんな簡単なものではないだろう・・・。分かっているつもりだが、この陽気に接すると、ついついそう思ってしまうのは人間の性でしょうね。

▶「春が来る」で思い出すのは、東大寺二月堂の「お水取り」である。関西では、この行事を境にして本格的な春が訪れると言われているようだ。弁護士をやっている友人から東大寺の「お水取り」に行かないかと誘われたのは一昨年の年末で、その時私は奈良旅行から戻ってきたばかりだったが、奈良の印象がとても素晴らしかったので、一も二もなく思わず「行く行く」と即答した。明けて令和2年、折からのコロナ騒ぎが勃発してこの行事もどうなるかと思ったが、予定どおり行われると分かったので、昨年3月5日に、彼と二人で奈良に向かった。

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令和2年3月5日 東大寺二月堂

東大寺二月堂の修二会は、奈良時代から連綿として継続している東大寺を代表する行事で、一般的には「お水取り」の名前で知られている。東大寺のHPを見ると、この行事の正式名称は、「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と呼ばれており、古代から鎮護国家や天下泰安を願って「不退の行法」として絶えることなく継続していると言う。この間、東大寺は二度の火災に遭遇しているが、その時も、そして太平洋戦争の時も含めて、2020年現在まで1269回も続いているというのだから、これは真に驚くべきことだ。よって、たかが令和のコロナ騒ぎでこの伝統を途絶えさせる訳にはいかないのは勿論だし、そもそも修二会の目的が疫病退散も含めた国家安泰にあるのだから、コロナが怖いので止めましたなどと言えるはずがない、と東大寺の関係者は思ったに違いない。

▶そうは言っても、修二会を行うことと、(当たり前だが)それをコロナ下で見に行く行為は本質的に異なっているので、正直言って、ためらう気持ちはあったものの、今回案内をしていただくことになった奈良市内の方(この人は私の友人の知己で、東大寺に詳しい)のはからいで、二月堂の内陣に入って修二会の行法をまじかに観覧することができると聞いていたので、せっかくの機会を逃すのはもったいないと思い、参加することにした。

▶3月とは言え奈良市内の夜は寒い。当日は、防寒対策を万全にして、夕方その知人の事務所に集合し、彼と彼の奥様の案内で、私達は暮れ行く二月堂に向かって奈良公園を上っていった。午後6時半頃に二月堂直下の広場に着く。驚くかな人が殆どいない。案内してくれた彼によれば、例年は万余の人々が押し合うようにして集まるため、二月堂の近くなどは立錐の余地もなく、とても近づくことはできないほどだという。「奈良に長く住んでいるが、こんなお水取りは初めてだ」と彼は慨嘆していた。

▶午後7時。いよいよ二月堂に向かう長い登廊を、「練行衆」と呼ばれる選ばれた11名の僧侶と、それを先導していく「童子」と呼ばれる僧侶の身の回りの世話をする人が、大きな松明を担いで上り始めた。その松明が発する炎が、時折り登廊の木造天井をなめるように包む。見ている方は、火事になりはしないかとヒヤヒヤするのだが、そうならないノウハウがあるのだろう。登り切ると、松明を担いだ童子が二月堂の舞台先端までドンドンと足音高く走って行き、燃え上がる大松明を欄干の上から差し出すと、大きな炎とともに幾多の火の粉が舞台の下に雨のように降り注ぐのだ。例年だとここで大観衆から大きな歓声が上がるところだが、今年は歓声は全く聞こえない。

▶さて、修二会はこの後からが本番で、練行衆によって二月堂内陣で悔過の行法が行われるのだ。私達はこの行法を見るつもりでここまで来たのであるが、この行法を見るには、大変時間がかかることを覚悟する必要がある、ということを実は分かっていた。内陣でこの行に参加すると、深夜1時から2時くらいまで途中退席が許されないという。寒いし、当然夕食はとれない・・・ということで、友人と二人で相談の結果、早く宿に帰って一杯やったほうがいいとなった次第。軟弱だがこれも一つの生き方だろう。案内してくれた彼が我々の決断?に快く賛同してくれたのには助かった。

▶宿に戻ったのは夜8時近くだった。広い宿に今晩宿泊するのは私達二名だけだ。風呂も貸し切りで、広間にストーブを焚いてもらって、二人して酒を飲みながら遅い夕食をとった。続いているはずの修二会の行法がどうなったかついては、まったくその時の酒の話題には上らなかったのだから、いい気なものだ。

▶翌日は朝早くに百毫寺、新薬師寺を見る。その後、前の知人の案内で元興寺を見てから西ノ京に遊び、そこから京都まで近鉄で戻った。翌々日の京都では、京大の先生(この人も友人の知己)の案内で、広いキャンパスをぶらぶら歩き、その後南禅寺で湯豆腐を肴に二人で昼酒を飲んで、ほろ酔い気分で新幹線で帰った。コロナ下ではあったが、いい旅だった。誘ってくれた友人には改めて感謝したい。

▶なお、「お水取り」とは、修二会の最終日の深夜に、若狭井と呼ばれる近くの井戸(若狭の国に通じていると伝えられている)から香水を汲んで本尊の十一面観音にささげる行事のことだが、一般の人がこれを見ることはないだろう。しかし、今では修二会は「お水取り」として知られ、これが終わると関西にもやっと春が来るというのは、最初に記したとおりである・・・おしまい。

 

 

 

 

2月の静かな日に

▶日曜日の夜の福島沖地震は、改めて東日本大震災の悲劇と怖さを思い出させた。大きな揺れに目をさますと、キャビネの上の置物が今にも落ちそうに揺れていたので、思わずそれを床に下ろした。ラジオをつけると、福島沖が震源とのこと。一瞬にして10年前のあの地震の記憶が蘇った。数分後に「この地震による津波の心配はありません」と放送があったので、私はひとまず安心して眠りについたが、東北地方では、心配で眠れない夜を過ごした人が多かったのではないだろうか。

▶翌日の朝、新聞は休刊日だったが、テレビは地震報道でもちきりだった。この地震によって、1700棟以上の家屋に損害が出て、ケガ人もかなり多く出たが、震度が大きかった割に致命的な損害が出ていないのが、不幸中の幸いであろうか。それでも、常磐自動車道東北新幹線は停止し、交通に大きな障害がでて、それは今も続いている。

▶追い打ちをかけるように、昨日の東北地方では低気圧の影響で強い風雨があった。損壊した屋根のすきまから人々の上に無情の雨が落ちたことだろう。コロナに痛めつけられた旅館が、今度は地震でまた痛めつけられている。人生って、本当に不条理なことが多いものだ。

▶明けて今日は火曜日。千葉では晴れて日が差す穏やかな朝となっている。庭のフェンス際に植えてあるユキヤナギの薄緑色の新芽が、午前の陽光に輝いて思いのほか美しい。スイセンも白い花をつけだして、我が家の庭にも少しづつ春がやってきている。庭先の小さな池で越冬していた金魚が、今朝は少し動き出した。サンダルを履いて庭に出て少し餌を与えてみたが、一口、二口しか食べなかった。部屋に戻ると、枯れたカエデの梢にヒヨドリが一羽やってきて停まったのが見える。食べ物がなかったのか、すぐ飛び立っていなくなった。

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▶私の母は、3年前に89歳で亡くなったが、彼女は2月が特に好きだった。一般のイメージでは、2月はまだまだ冬の最中でもあるので、私は母が何故2月好きなのか不思議に思っていた。ある時聞いてみると、母は「2月は心が落ち着くからね・・」と言ったのだ。確かに、今日のような日は、春が来て心が浮き立つようにざわめくにはまだ少し時間が必要で、さりとて真冬の何か抑圧されるような気分も次第に遠のいていく気配があり、なるほど心が落ちつくというのはこういうことなのか、と母の気持ちも分かったような気になった。

▶世の中、厳しい環境で2月の静かな日々を楽しめない人が多くいるなかで、一人こうして静かにブログを書いていられるのは、ありがたいことだ・・・。

斑鳩の法隆寺から唐招提寺、薬師寺へ行く・・・奈良編(3)・・・

 

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令和元年初冬の唐招提寺

▶令和元年の師走に、一人で京都から奈良に遊んだ。奈良では前日の夕方に奈良公園を散策し、今日の午前中は斑鳩法隆寺に行ったが、それについては既に書いた。

中宮寺弥勒菩薩をじっくり鑑賞したので、バスで法隆寺駅に戻ったのは昼近かった。JRで奈良駅まで戻り、駅前で軽く昼食をとって、バスで西ノ京の唐招提寺薬師寺に向かった。奈良交通のバスは、市内をゆっくりと抜けて行く。停留所で乗り降りする人は、観光客ではなく、圧倒的に地元の年寄りの方達だ。バスは、遠くに平城京旧跡を見ながらしばらく走り、メイン道路を右折して唐招提寺に入っていった。

唐招提寺前の停留所で降りたのは、私一人だった。早速拝観料を支払って中に入った。門を入るとすぐ目の前に金堂が見える。初冬ではあったが、まだ紅葉が少し残っており、昼下がりの日に映えて美しいが、なんといっても唐招提寺はその金堂の美しさが一番だろう。唐招提寺は言わずと知れた鑑真和上が、天平の時代に(759年)開かれた寺で、現在は律宗の総本山と説明書に書いてある。

▶鑑真は、遣唐使で海を渡った留学僧の栄叡と普照の求めに応じて、日本の仏教徒に戒律を授ける為に、日本に渡ることを決意し、自らの命を賭して10年の間に5回の渡航を試みたが、ことごとく失敗した。しかし、不屈の精神で(※文字通り、不屈の精神とはこのような時にこそ使うに相応しい言葉である・・)ついに6回目にして屋久島までたどり着くことに成功し、大宰府を経て奈良に到着したのは、天平勝宝6年(754年)のことだった。この間の経緯は、井上靖の「天平の甍」に詳しいが、まったくもって、偉大な精神を有する人物ではある。

唐招提寺金堂は、その時から現在に至るまで、変わらずここ西ノ京にあるのが素晴らしい。金堂正面の柱は、中ほどが僅かに膨れるエンタシスの構造になっており、法隆寺の柱と同じく、遠くギリシャの建築に見ることができる様式だ。この様式が、本当にギリシャから伝わったものなのか、あるいは偶然に一致する形になったのかはよく分からないが、奈良がシルクロードの終点であるとい言われる意味も少しわかったような気がしてくる。

▶金堂を抜けて御影堂に回ってみたが、こちらは現在修理中で参観することはかなわない。有名な鑑真和上座像はこの中に安置されているため見ることはできなかったが、金堂裏の開山堂に、お身代わりの像が安置されていて見ることができるので、そちらに行った。近づくにつれて読経の声が聞こえてくる。中を覗くと、10名近い僧侶が、狭いお堂の中で、お身代わりの像に向かっての法要の最中であった。僧侶の唱える読経の荘厳さと、目の前にある鑑真の姿に引き付けられて、その場にいられることの有難さを感じながら、私はしばらくそこに佇んでいた。

唐招提寺を出て、土塀や用水路に囲まれた鄙びた道を薬師寺に向かって歩いた。この道には時折バスが通るが、静かな道で、あちこちに古都の雰囲気が残っていてなかなか風情がある。大正時代や太平洋戦争前のあわただしい時期に、まだ舗装されていないこの道を、幾多の文人達が歩いたことがあるはずだが、それらを思いながら20分も歩くと、前方正面に薬師寺が見えてきた。

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改修中の薬師寺東塔

薬師寺は、古刹であるが、伽藍は基本的に新しい。天武天皇が妻(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して、飛鳥藤原京に創建したのが680年と言われており、その後の平城京遷都に伴い、現在の西ノ京に移転したもので、それ以来現在の地にある。私が入場したのは北口からで、徒歩で入る参拝の順路としては一般的だが、どちらかと言えば裏口から入るイメージだ。入ると目の前に食堂で、そこを抜けると右手に講堂を望み、正面の回廊の中に塔が二つ見える。左が古い東塔で、右奥が西塔だ。

▶その東塔は、改修中であった。薬師寺は、創建以来幾多の火災で、多くの堂宇を焼失しており、奈良時代から続く建物で今に残っているのは、この東塔のみである。この塔を見た米国の美術研究家のフェノロサが「凍れる音楽」と評したという伝説がある。三重塔であるが、各層に裳階があるので、六重塔に見えるのが面白い。改修中なので周囲が塀で囲まれており、近づくことも難しく鑑賞するには困難が伴った。一方、新しい西塔は、天平時代の様相はかくばかりだったのか、と思わせる如く聳えており、これはこれで見ごたえがある。基本的なつくりは東塔と同じようだが、よく見ると細部に違いがある。

▶私は、50年近く前に修学旅行でこの薬師寺に来ているが、その時は西塔はなく、東塔のみが立っていた。高校生だった私たちを前にして、一人の若そうな坊さんが、少し高い台の上から薬師寺の説明を面白おかしく話してくれたのを懐かしく思い出す。が、その時の坊さんこそ、現在の薬師寺を再建した高田好胤師その人であったことに気が付いたのは、実は最近である。

高田好胤師は、昭和42年に薬師寺管主に就任されているから、私達が行った昭和45年には、若く見えたが既に管主だったことになる。当時の薬師寺の印象は、塔はあるが田舎の寺という印象しかなくて、現在の西塔の場所にあった水鉢に、東塔の水煙が映るおなじみの写真だけが有名だったし、私に残る記憶もその程度のものでしかない。

▶その後50年近く経過して、薬師寺は大きく変わった。高田好胤管主が、100万巻の写経勧進(※最終的には600万巻になったという)をてこにして、昭和52年に金堂、56年に西塔と次々に堂宇を再建し、その後、中門や玄奘三蔵伽藍なども整えて現在の薬師寺を再建させたのだ。現在の薬師寺は、講堂や食堂なども含めて、ほぼ創建当時の姿にもどっているといわれているから、この50年の間に成し遂げた業績たるや驚嘆に値するものである。

▶私は、修学旅行以来、薬師寺に興味を持つことはほとんどなかったから、この間の事情は全く知らなかったが、昭和56年に西塔が完成した時に、テレビで話題になったことだけは覚えている。その時特に印象的だったのが、この塔を実際にゼロから建てた宮大工の西岡常一棟梁の存在で、彼こそ薬師寺再建のもう一人の立役者である。

西岡常一は、法隆寺の宮大工の家系に生まれた伝説的な棟梁で、おそらく最後の宮大工と呼んでもおかしくない人である。西岡棟梁のことを書きだすとキリがなくなるので気が向いた時にまた書こうと思うが、この人がいなければ、また現在のような形での薬師寺再建ができなかったであろうことは、おそらく誰も異論はないだろう。現在再建のなった堂宇の前に説明書きの看板が立っているが、私は講堂前の看板に大工棟梁としての西岡常一の名前を見つけた時、彼の名誉がこのような形で保たれていることに対し、素直にとても嬉しかった。

薬師寺は、堂宇もさることながら、安置された仏像もこれまた超一級である。金堂の薬師如来、日光・月光両菩薩も素晴らしいものである。法隆寺の飛鳥仏と違い、時代が下るにつれて写実性が深まり、仏師の技術も向上したのかもしれないが、眺めていて飽きることがないと言うのはこのことだと思った。誰が作ったのかも分からないこれら仏像は、現在国宝に指定されているが、和辻哲郎が東洋美術の最高峰だというのも分かる気がする。

薬師如来の裏に回ると、台座を見ることができるようになっている。この台座に、ギリシャペルシャとインドと中国の文様がそれぞれに刻まれている。一つの台座に四つの国際的な様式の文様が刻まれている事実は、この奈良の地がシルクロードのまぎれもない終点であることを示しているようで、極めて興味深いものであった。

薬師寺の仏像では、東院堂の聖観音菩薩像を外すことはできないが、私が行った時は、先に見るものが沢山あったので、ついつい時間をとることなく通り過ぎてしまった。その時、堂内で修学旅行生を相手に若い坊さんが話をしていたので、相変わらず薬師寺は変わっていないなと微笑ましく思ったりしながら先を急いでしまった。しかし、この像は翌年じっくり見る機会があったので、これについては別に記すことにする。

▶令和元年は私にとって妻を亡くした痛恨の年であった。妻が亡くなって3ヶ月が経って京都から奈良を周遊したことをダラダラと書いたが、寺院と仏像を見ることで自らの悲嘆の感情に少なからず変化を見つけることができたのには救いがあった。だから私はこの後の令和2年になって、結果として更に2回も奈良を訪問することになるのである。

 

 

斑鳩の法隆寺から唐招提寺、薬師寺にゆく・・・奈良編(2)・・・


▶令和元年の師走に奈良に遊んだが、これはその二日目の記録。

▶翌朝早く起きてホテルで食事をとり、8時前に飛び出して、JR奈良駅から法隆寺へ向かった。法隆寺駅に降りたのは午前8時過ぎとまだ早く、バスも動いてなかった。そこで地図を見ながら歩いて法隆寺に向かった。天気も良く、20分ほどで参道まで到着。朝早かったためか、観光客はまだ誰もいない。南門をくぐって石畳の道を進むと、正面に中門が見えてきた。左右を見渡しても、道を掃除している寺の人以外は誰もいない。

法隆寺も高校2年の修学旅行以来のことだから、かれこれ50年振りの訪問になる。しかし、なんと静寂な世界であろうか。私が踏みしめる砂利の音だけがやけに大きく響く。しばらく中門を眺めたのち、境内に入ると、そこは本当に飛鳥の世界だった。f:id:Mitreya:20210213143210j:plain

法隆寺は、聖徳太子推古天皇の時代に建立した世界最古の木造建築と言われている。しかし、日本書紀にその後(670年)焼失したとの記述があり、現存する建物がいつのものかは、明治以来論争が続いていたらしい。しかし昭和になって焼失されたとされる旧伽藍の跡が発見されたことで、現在の建物は7世紀末から8世紀初めのものであることがほぼ確定した。いずれにせよ、1300年以上前に建立された木造建物が目の前に厳然としてそびえている様には圧倒される。建物の軒の出が大きく立派だ。

▶早速金堂に入る。東の入り口から入り南がわの回廊から内陣を覗くと、薄暗い中に教科書で見た釈迦三尊像があった。典型的な推古時代の仏像で、渡来系の鞍作の止利が製作したとされる国宝である。典型的と言ったのは、表情がわずかに微笑む姿が特徴的だからで、時代が下った奈良朝時代の仏像と比べると、写実性では劣るが、雄渾な感じがなかなかいい。中国の北魏様式を踏襲しているものだと説明書きにあった。

五重塔も近くによって見た。この塔には、東西南北に塑像が配置されていて、それがなかなかいいということだが、中が暗くて残念ながらよく見えなかった。まあ、次回来た時にでも、じっくり見ることにして、大宝蔵院へ向かう。ここは、有名な百済観音が安置されているのだ。

百済観音は、静かにそこに佇んでいた。八頭身にもなる細身の姿は、日本の仏像には見られない形像をしている。来歴も複雑で、いつ頃どこで作られて法隆寺にあるのかはよく分からないとのこと。観音とされているが、虚空蔵菩薩との伝もあり、百済観音と呼ばれるようになったのも大正時代以降だというから、要するに分からないことが多い仏像ということだ。和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」で紹介されているので、私も読んだうえでここに来て見ているのだが、確かに良いものに見える。横顔がどこか異国系の顔立ちであった。

▶大宝蔵院を出て、東院伽藍に回る。夢殿を覗いたが、秘仏の救世観音は開帳されていないので見ることはできず、その足で隣の中宮寺に向かった。

中宮寺は、尼寺で、ここには有名な弥勒菩薩があるので、じっくりと見ることにする。開け放たれた本堂の奥に、漆黒の弥勒菩薩が半跏思惟の形で座っている。寺ではこれを、如意輪観音として説明しているが、京都の広隆寺にある仏像と同じく、これは弥勒菩薩だろうと思ってしまう。その右手を軽く頬にあてる姿が、なんともあでやかだ。仏に男性も女性もないのだが、これはどこから見ても女性的な仏像である。軽く目をつぶっていったい何を思っているのか。この弥勒菩薩像を絶賛しない人はいないことから、法隆寺に来た人は必ず中宮寺に寄るとのこと。しかし、私が行った時は人がほとんどいなかったので、本堂に座って受付の女性とよもやま話をしながら、かれこれ30分もこの像を見ていた。至福の時であった。

唐招提寺薬師寺編に続く。

 

麒麟は来たのか?

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▶先週、NHK大河ドラマの「麒麟がくる」が最終回を迎えた。私も年が明けてからは、最後の結末をどのように描くのか興味があり、毎回欠かさず見た。最終回の視聴率は、18%を超えたそうだし、平均視聴率も前年の最悪だった「いだてん」を上回ったから、NHKの製作陣も、さぞかしホッとしていることだろう。最終回のネットの反応も概ね悪い評価は無かった。しかし、それにしても、コメントのどれもこれもが、何でこんなにNHKに対して金太郎飴のように迎合的なんだろう、という気分が残ったのは私だけだろうか。

▶視聴者は本当に満足したのだろうか、という思いもあって、たまたま孫を連れて泊りがけで訪れた娘に意見を聞くと、彼女の評価も必ずしも芳しいものではなかった。私自身の思いとしても、光秀を主人公に「新たな本能寺の変」の解釈を世の中に訴えるという意味で、期待値も大きかった割に、特に後半になってから、ディテイルの描き方が雑なところが気になったり、当初のストーリー展開に強引に持ち込もうとして、無理に話を作っているのではないかと思われる部分が目についてしまい、長谷川博己やモックン等の役者陣の演技の面白さはあったが、大河ドラマとしては必ずしも満足はできなかった。

▶そもそも、光秀の謀反の動機には分からない点が多く、光秀自身の半生についても、これ程の大事件を起こした割には記録が少ない。しかるに、「本能寺の変」に関しては、これまでも何度も大河ドラマに取り上げられてきているため、真偽のほどは別にして、人々の間にもステレオタイプな光秀悪者論的な解釈が定着してしまっている。

織田信長比叡山攻めや丹波攻めは確かに残虐だったかもしれないが、それは戦国時代ではよくあること。それよりも、私憤に駆られた小心者の光秀が裏切ったことにより、せっかく信長が描こうとした天下統一のビジョンが、全く別のストーリーに変わってしまい、それに対する人々の隠れた失望感が、これまで光秀をことさら悪者に仕立て上げてしまった原因なのかも知れない。

▶確かに信長・秀吉・家康を比較すると、信長には明らかに自分の力で世の中を変えていこうとする野心やビジョンがあったような気がする。それは果敢な破壊と創造を伴う行為であったから、功罪とも大きかった。一方、秀吉は戦国時代を終わらせ、家康はそれを引き継ぎ完成させたが、大きく見れば信長が作り上げた流れに乗っただけなのようにも思える。何と言っても、家康は「鳴くまで待とうホトトギス」だしね。

▶今回のドラマは、その歴史の歯車を大きく変えた光秀に焦点をあてている点で意欲的である。しかも、彼こそが麒麟が来るという乱世平定のビジョンを持ったその人であって、信長を殺したのは、決して自分自身が天下を取ろうと思ったのではなく、信長自身に問題があったからなのだという解釈に立っている。だとすると、本能寺の変の後、光秀が何を悩み考え、「麒麟が来る」ためにその後どう動いたのかということの説明が必要不可欠のようにも思うが、ドラマはそこでプツンと終わってしまった。わずかに家康に(秀吉ではなく)期待を託すというような場面も挿入されたが、説明不足の感がぬぐえない。

▶テーマが挑戦的なので、それを視聴者に納得させられるようにディテイルを作り込めばさらに面白くなると思ったが、それがなかった。光秀の行為を正当化するために、正親町天皇帰蝶や伊呂波太夫などに「信長討つべし」と言わせているが、たいした伏線もなくて突然出てきて言うので、「何でなの?」という思いだけが残ってしまう。松永久秀の天下の名宝の平蜘蛛の茶釜を、遊女の伊呂波太夫が持ってきたり、その釜を隠していることを秀吉に密告されると、今度は秀吉に逆ギレしたり、次にはあっさりと信長に平蜘蛛を差し出したり、一つ一つが「そんなことができるのかな?」という疑問ばかり残ってしまった。

▶東庵先生や駒などが、何故簡単に偉い人に会えるのかといった疑問や(東庵先生は正親町天皇とすごろくを遊んでいた)、いい味を出していた秀吉の母の「なか」や三条西実澄が突然出てこなくなったり、最後は細川藤高が秀吉に光秀謀反の恐れありと突然密告したりと、大小取り混ぜて私には説明不足感が目についた。まあ、しかし、山崎の戦い後にも光秀は生きている?というような設定も含めて、トレンディドラマとして見るのならご愛嬌の類なのかも知れない。しかし、正統派?の大河ドラマを期待していた小生にとっては、ややズッコケ感が大きかったね。

▶信長役の染谷将太が、NHKの昼のテレビで、本能寺の変の脚本を読んだ時、「やっぱり信長は最後まで光秀のことが好きだったんだと知り、感動した」という趣旨のことを言っていた。それが「光秀ならば是非に及ばず」という信長の言葉の根拠だというのだから、まあ目くじらを立てるほどのことでもないか、と思ったりもする。それに、世の中的にもこの解釈が好評だったことは最初に書いた。

▶最終回が始まる当日朝の読売新聞の編集手帳氏が、「麒麟(キリン)が来るかどうかはともかく・・・五輪(ゴリン)は来るのか」と書いていた。所詮ドラマなんだから、あまり気にするなということか・・・おしまい。

春一番が吹いた日に

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散歩の途中で

立春の翌日の4日、関東地方に春一番が吹いた。私が住んでいる千葉でも、午後になるとかなりの強風が吹いた。日本海上の低気圧に向かって太平洋側から風が吹き込んだことのようだ。今朝届いた新聞をあけると、昨日の春一番は観測史上最も早い春一番だったそうで、それまでの記録は88年2月5日だったと書いてある。ということは、30年以上かけて記録を一日更新したことになる。

▶ところで最近は、夏の高温だったり大雨だったり、はたまた冬の大雪だったりで観測史上最高というような報道が心なしか多いような気がする。これも温暖化の影響だろうか。しかし、昨日の春一番の記録は、もしかしたら当分破ることのできない大記録?なのではないか・・・と私は思う。気象予報士でもない私が、なぜこう言いうるのかには訳がある。

気象庁によると、春一番とは、「立春から春分までの間に吹く、最も早い時期の南風(=春風)」のことだそうで、この定義に従う限り、いくら早く南風が吹いたからといって、立春前に吹く南風は、それを「春一番」とは言わない。なぜならそれは春風ではないからである。春になるのは、暦の上では立春の日以降であることに決まっている。だから気象庁春一番を「立春以降に吹いた最初の南風」と定義しているのだ。

▶今年4日の南風は、春一番の新記録になったが、今年の立春は2月3日であったので、立春2日目に春一番が吹いたことになる。この記録を破るためには2月3日に春風が吹かないといけないが、それは極めて難しい。なぜなら、通常「立春の日」は2月4日だからで、今年のように2月3日に立春となる年は極めて珍しいのだ。つまり来年の2月3日に仮に春風が吹いたとしても、それは立春前の南風のことで「春一番」の定義にはあたらないということだ。今年の記録を破るためには、今年と同じ2月3日に立春がくる特定の年の、しかも2月3日の立春当日に南風が吹かないといけない。しかしそれは確率的に言って極めて低いだろう、というのが私の考え。まあしかし、いかにも私のようなヒマ人の考えそうなことではある・・・。

▶4日は妻の月命日だったので、春一番が吹く中、市営霊園まで墓参りに行ってきた。時折強風が吹く中での墓参りは、なかなか大変だった。帰宅してから、図書館から借りていた文学全集にある読みかけの三島由紀夫金閣寺」を読み上げた。夕食は、ネギマ鍋にしようと思ったが、マグロを買いに行くのが面倒なので、既に買ってあった鶏肉を使った鶏鍋にする。適当に作った濃縮のだし汁をベースに、鶏肉とぶつ切りにしたネギとキノコをたっぷりと入れて、最後はコショウを少し振りかけて食べたが、酒にも合って美味しかった。しかし、次回はマグロにするぞ。夕食を食べていると、浦安に住む娘一家から電話があった。一人暮らしの私のことを心配して時々電話をかけてきてくれる。ありがたいことだ・・・。

三島由紀夫金閣寺」については、別のところで書きたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

燃える大仏殿 京都から奈良へ・・・奈良編(1)・・・

▶令和元年の師走、一人で京都から奈良に行く。懐かしい京都嵯峨野の二尊院の紅葉が、終わっていたことは既に書いた。京都から奈良へは近鉄で行くのが便利だと聞いていたが、当日の宿がJR奈良駅前だったので、JR奈良線の「みやこ路快速」で向かうことにする。その時刻にあわせてホームに行くと、電光掲示板に奈良線は踏切事故の影響で大幅な遅れと出ている。奈良線は単線だから、何か事故があると上下線で大幅な遅れが出るらしい。しかし、日本の代表的な都であった京都・奈良間を結ぶ路線が、いまだ単線であったとはなぁ・・・やはり近鉄にしておけば良かった。

▶奈良に行こうと思ったのは、直接の動機は紅葉が少し残っているのではないかという期待からだったが、もともと私は、古都奈良のありようとそこに流れる悠久の歴史に興味があり、仕事を離れて時間ができたら、ぜひじっくりと奈良を散策してみたいものだと思っていたからである。私はかつて神戸に住んでいたことがあるが、その時も奈良を訪れたことはなく、前回奈良に行ったのは高校2年の修学旅行の時であったから、なんと50年近く前のことになるのだ。

奈良駅に着いたのは午後2時過ぎで、駅前の観光案内所に立ち寄って市内の地図をもらってから、駅前の宿にチェックインする。冬の日は短く、奈良でも4時半には日が落ちるので、早速宿を出て、奈良公園に向かう道を上っていく。近づくにつれて道の両側には観光客目当ての店が増えてくるが、やがて猿沢の池が右手に見えてきた。右側の店の前に人だかりがある。つきたての餅を売っているので思わず並んで食べたくなるが、ぐっと我慢して左手の興福寺への階段を上っていった。

興福寺の境内に上がると、まず目につくのは五重塔落慶したばかりの真新しい中金堂だ。奈良公園の象徴的なモニュメントの一つに興福寺五重塔があり、中金堂も美しかったのでここでゆっくり時間をとって見ようと思ったが、明日も時間があることを思い出し、とりあえず堂宇の配置を頭に入れてから東大寺に向かった。

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東大寺の参道は、中国人観光客と日本人修学旅行生とおなじみの鹿で混雑していた。ああ、私も高校生の時に、同じようにこの道を歩いたはずだったがと思ったが、残念なことに当時の記憶は全くといっていいほど残っていない。高校生の修学旅行なんてそんなものかもしれない・・・。運慶一派が二ヶ月で作ったと言われる金剛力士像が睥睨する南大門をくぐり、大仏殿に向かう。

東大寺は、聖武天皇の発願により、全国の国分寺の総本山として建立された。大仏殿が建てられたのは大仏開眼後であり、完成は758年である。しかし残念なことに大仏殿は二度に亘って火災にあっている。一度目は平重衡によって1180年に、二度目は松永久秀によって1567年に焼け落ちている。現在の堂宇は1709年に再建されたものだが、最初に建てられた大仏殿は、現在のものより間口が1.5倍近くも長い、巨大なものだったようだ。大仏殿の中に入ると当時の模型が陳列してあるので参考になるが、驚くべきは、当時は南東に高さ70メートルから100メートルとも言われる巨大な塔が立っていたというから、その威容たるや言語に絶するものであったろう。天平時代に生きた人たちは、この巨大な東大寺を見て何を思っていたのだろうか。

▶大仏殿を出ると既に夕闇が迫っていた。修学旅行生やその他の観光客の群れも潮が引くように減ってゆき、大仏殿前の広場は閑散としている。私は本当に久しぶりだった大仏殿訪問に感慨を深めながら出口に向かったが、最後にもう一度見ておこうと振り返ると、目の前にある壮大な大仏殿が赤く燃えていた・・・。それは折からの夕陽に照らされた大仏殿の姿だったのだが、私の目には本当に燃えているように映ったのだった。

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夕陽に燃える大仏殿